110.あなたがそれを望むなら
ア、アルフリードが私に向かって喋った……!
肌身離さず持っているという、ヘイゼル家の紋章付き短剣を自分に向けている場面に遭遇して以来、私に一切話しかける事をしなかった彼。
ただ……その初めての言葉が、
『君は子どもは欲しくないの?』
って、どういう事なの??
久々にパニック状態で頭の中が白濁しそうになっていると、彼の口づけから解放された。
目を見開いたままだった私の視界には、笑み一つない表情でこちらを見下ろしているアルフリードの端正で綺麗な顔が映っている。
そして、さらにその視界の端っこには、見つめ合っている私とアルフリードの方に顔を向けて静止している、フローリアとガンブレッドの姿がぼんやりと映っていた。
まさか……あの子達に感化されて、彼まで自分の子どもを持ちたいと思うようになってしまった……そういうこと!?
「……返事を聞かせてくれないか?」
アルフリードは、私のアゴに手をかけて、再びその顔を近づけてきた。
私に話しかけてくれているこの状況は、とても喜ばしいことだし、私に、ふ、触れてくれるのもすごく嬉しいけど……
目を細めて、妖しげに品定めするように見下ろしているこの表情は……私の知っている彼のものじゃない。
それに、以前は結婚前に一緒のベッドで寝るのも躊躇するくらいの人だったのに……
私はこれまでやってきた1日100回以上にも及ぶ根気のいる治療行為が、望んでいる彼の姿を完全にはもたらしていない事に、なんとも言えない無力感を覚えていた。
戻って欲しい彼に……優しくて、思いやりのある控えめな笑顔の彼が戻ってくるには、どうしたらいいの?
彼の求めている事を全部満たしていけば……そうすればいいの?
今はもう、婚約すらしていない関係ではあるけど、彼がそれを望んでいるのなら……
恐怖と不安でいっぱいだったけれど、私は彼のためなら何でもするつもりでいた事を思い出して、目をギュッとつぶりながら、コクン、と頷いた。
すると、彼は顔を私の耳元に寄せて、
「じゃあ今晩、君の部屋に行くから。よろしくね」
そう囁いた。
私の全身には瞬時に震えが走った。
顔中に血が昇っていくのを感じた途端、腰に力が入らなくなって、その場にペタリと座り込んでしまった。
そんな私をミステリアスな表情で一瞥すると、アルフリードはサッサと厩の出口へと歩いて行ってしまった。
ど、どうしよう……彼が倒れてからはこれまでだって、一緒に眠ってたし、そんな事が起こる覚悟もそれなりに持っているつもりではあったけど……
それは、今までは彼が私には全然興味を持つ素振りもなく、何もされないだろうって言う確信がどこかにあったから。
だけど、今回は“約束”をしてしまったのだから……
フローリアがガンブレッドに身を捧げたのと同じように、私も彼に身を捧げる覚悟を今度こそ決めなくちゃならないんだ……
「エミリア様、大丈夫ですか?」
声を掛けられて見ると、そこにいたのはヘイゼル騎士団長さんだった。
なっ……! まさかこの方は、さっきのアルフリードとの一部始終をずっと見ていたの!?
さすが騎士さんという事か、気配が全然しなかったから、アルフリードの監視役で常に一緒にいるという事をすっかり忘れていた。
「わ、私のことは気にしなくていいですから、早くアルフリードの監視に戻ってください!!!」
つい怒鳴るように叫んでしまい、団長さんがすぐさまアルフリードを追いかけて行った後も、私はしばらくその場に座り込んだまま、動くことができなかった。
カチャ カチャ
その日の晩餐。
結局、私はあの後アルフリードの所へ行くことが出来なくなってしまい、未だに彼がそばに近寄らないクロウディア様の庭で晩餐に呼ばれるまでの間、物思いにふけってしまっていた。
10分に1度の治療行為をサボったのも……今回が初めてだ。
目覚めた頃は無気力な感じで、ベッドの上でしかお食事していなかったアルフリードも、少し前からヘイゼル邸のリフォーム済の立派な食堂で、朝食や晩餐を摂るようになっていた。
普段は何も喋らずに黙々と食べているだけの彼に、ニコニコしながら思いついた事は何でも私1人が話しかけまくっていたものだった。
だけど今日は、これから起こるだろう事ばかりを考えてしまって、私もただ黙々と食事をしていたので、ここには食器の音しか響いていなかった。
「じゃ、じゃあご馳走様でした。私は先に戻ってます……」
声を発するのも緊張してしまうこの空間で、何とかそれだけ告げると、私はそそくさとこの邸宅で使わせてもらっている自室へと戻った。
といっても、アルフリードの部屋と中扉で繋がっている隣室だが。
ガンブレッド達のいる厩で彼に返事をしてから、本当にこれでいいのだろうか……と自問自答していたけど、もうこうなってしまったからには、徹底して本気で立ち向かうしかない!!
私の意思はそんなふうに固く決まっていた。
バスルームでメイドちゃんにもお手伝いしてもらって、体を念入りに洗い、キレイなネグリジェにお着替えした。
そして最後に、クロウディア様愛用のアエモギの香水を自身に振りかけ……準備は整った。
私の部屋には、ベッド脇のテーブルに置いてあるランプの明かりと、少し開いた厚手のカーテンから、月明かりが漏れている状態だった。
その薄暗い中、天蓋付きの大きなベッドの上に潜り込んでしばらくしていると、
キイィ
と、扉の開く音がした。
迷いを断ち切ったはずなのに、心臓の鼓動が警告みたいに早まり出した。
少しして、私の横たわっているベッドの右側が沈み込んで、ギシッと軋む音がした。
恐る恐る目線だけをそちらに向けると、すぐそこにアルフリードが腰掛けて、私の事を見下ろしている。
その服装は黒いガウン一枚を羽織っただけなので、引き締まった胸板が少し見えている。
どうしよう……どうしよう、本当にこの時が来てしまったんだ……
私の体は自分の意思ではピクリとも動かせない状態に固まってしまって、もう彼の次の行動を待つのみだった。
すると、黙って私を見下ろしていた彼は、体を動かして、覆い被さってきたのだ。
気づいた時にはもう、私の視界は前髪が重力で垂れ下がったアルフリードの顔で占領されていた。
窓から差し込む月明かりで、彼の綺麗な顔が青白く光っている。
ただ、この独特の雰囲気のためなのか、そんな目の前にいる物凄く色気を放っている彼は、まるで初めて出会う人みたいだった。
私の心境としては、大好きなアルフリードのものになるんだ、という感覚は……残念なことに全く湧いてこなかった。
そして彼の手が私の頬に触れ、その顔が降りてきた時、私の閉じた瞳からは涙が流れ出していた。
それと同時に、体が勝手にぶるぶる、ぶるぶると震えだした。
何もかもを諦めた私だったけれど……
「やっぱり……やーめた」
しばらく何も起こらない状態が続いた後、そんな声が聞こえてきた。
え……?
聞き間違いかと思いつつ、震えながら閉じていた瞳を開けると、覆いかぶさっていた大きな体はもう起き上がっていた。
そして、哀愁ただよう瞳をしながら、長めの前髪を揺らしてサッと横を向くと、私が寝たままになっているベッドから反動をつけて床に飛び降り、スタスタと中扉の方へ歩いて行ってしまった。
私は呆気に取られて、思わず上半身を起こした。
中扉から出て行く彼を目で追っていると、閉められたその扉にカチャッと鍵がされた音がした。
つ、つまり……
フローリアたちに感化されて、子どもを作りたいっていう彼の気は変わったってこと……!?
そして、つまり……私の純潔はそれのお陰で守られた。
そう解釈していいってこと!?
どういうことなのか聞き出したい気持ちでいっぱいだったけれど……鍵まで掛けられた彼の部屋を開けてもらってまで、問いただしに行く勇気は私には無かった。
そうして、一睡もできなかったその夜、結局アルフリードが私の部屋にやってくることはなかった。
しかし……こんな気まぐれな行動を取る人物を私は知っていた。
思わせぶりに、好意を持っている令嬢をその気にさせておいて、いざその時が来ると嫌気が差して放置プレイをかます人物……
原作のアルフリードだ。
あの彼は、皇女様の面影が心の中にチラつくとそんな行動を取っていたけど……今回の彼にチラついているのは……婚約を破棄する前の“過去の私”??
なんだか複雑な事態に発展しているけど、もしかして“過去の私”を思い出させる事をすれば、アルフリードもその頃の自分を思い出してくれたり……するかな?
私の中に試してみようと思える、新たな希望が少し芽生えていた。