断章ー誘う手ー
それは眼前に突然現れる。
草原の緑と空の青を捻じ曲げて
或いは引き裂いて
視覚で捉えられる様になってからは黒い滲みが紋様を描いて
それを幾つも重ねて、黒だったものはいつのまにか
紫と赤、青と緑を暗く彩って
中心の真っ黒が、その塊が人の大きさ程に広がった頃に
ゆるりと
綺麗な手が現れた
手の甲をこちらに向け段々と下がる様は人が人の手を取る仕草そのままだった。
その動きは自然なものだったが、明らかに通常と違うものがあった。
そのただこちらに向けられる指の動きが余りも細やかなのだ。
それぞれが意思を持っているように、一つ一つの動きが滑らかで1秒を幾つに割って見る事ができたとしても一瞬も同じ位置になく流動的にこちらに差し向けられた。
花が咲くように開く手は優しく囁く
「もういいだろう。十分だ。この手を取ってしまえ。
例えこの先どれだけの夜を超えても、答えは見つからないだろう。
例え答えを得たとしても、時間の経過によりあっさりと意味のないものになるだろう。
例えそれが自分の中で揺るぎないものだとしても、疑う余地を失ったそれは他人に届く頃には最早ただの傲慢に成り果てているだろう。
例えこれらを振り切る為に探す事を疑う事をひたすらに続けてもそれはただの答えに辿り着かない堂々巡りをやっているだけになるだろう。
例えそれを続けた気になっていたとしても
ー肘より少し根本までがその黒いシミから出ておりその奥に人の形を捉えることはできなかったー
それは自身の精神性を維持する為の唯の錯覚だろう。」
ー黒い染みは美しく視界をぼやかしていく
しかしその範囲が幾ら広がろうと手の持ち主は見えないー
「だから、もうこの手を取ってしまえ。
自身の最善を浅ましくも他人にも適応することのできる最善であるとそう思って諦めてしまえ。」
「いや、その方が1人の人間としては健全であるだろうよ」
「だからこの手を取ってしまえ」
ーそうして甘く花は咲く
花の蒸せる濃い桃色は暗い慈悲を纏って
機械的なシステムだと言いたげに思考を妨げるー
「さぁ。さぁ」