いじめと荒らしとヘイトの理由 - ローマ教皇の講話から
先月末、ローマ教皇が日本に来たらしい。
で、あちこちでスピーチや講話をしていったらしい。
別にキリスト教信者じゃないが、ニワカ聖書ファンの私も、少し読んでみた。
その中で、いろいろ共感する所があったので紹介したい。
「青年との集い」なので、まず青年が経験その他を話して、それに対して教皇が答えます。
一人の外人青年が、日本でいじめられた経験を話しました。
”あなたが苦しんだいじめと差別の経験を、分かち合ってくれてありがとう。もっと多くの若者が、あなたのような経験について勇気をもって話すことの大切さに気づくでしょう。
わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした。
学校でのいじめが本当に残酷なのは、自分自身を受け入れ、人生の新しい挑戦に立ち向かうための力をいちばん必要とするときに、精神と自尊心が傷つけられるからです。いじめの被害者が、「たやすい」標的なのだと自分を責めることも珍しくありません。敗け組だ、弱いのだ、価値がない、そんな気持ちになり、とてつもなくつらい状況に追い込まれてしまいます。「こんな自分じゃなかったなら……」と。
けれども反対なのです。いじめる側こそ、本当は弱虫です。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは脅威だと思うからです。実は、いじめる人たちこそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。これについて――よく聞いてください――自分がほかの人を傷つけたくなったり、だれかがほかの人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は大した存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。
わたしたち皆で、この「いじめ」の文化に対して力を合わせ、この「いじめ」の文化に対してともに力を合わせ、はっきりという必要があります。もうやめよう! この疫病に対して使える最良の薬は、皆さん自身です。学校や大人がこの悲劇を防ぐために尽くす手立てだけでは足りません。皆さんの間で、友人どうしで仲間どうしで、「絶対だめ」、「いじめはだめ」、ほかの人への攻撃はだめ、といわなければなりません。「それは間違っている」といわなければいけません。クラスメイトや友人の間でともに「立ち上がる」こと以上に、いじめに対抗する強力な武器はありません。そしていうのです。「あなたがしているのは、『いじめ』は、とてもひどいことだよ」と。
「いじめ」る人は臆病者です。”
- 教皇の講話 青年との集い(*1)
教皇に限らず、よく言われている事だと思います。このあとはイエスだの霊的だの出てくるので略。
この「いじめ」に別のルビを振ってみます。
”いじめる側こそ、本当は弱虫です。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは脅威だと思うからです。実は、いじめる人たちこそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。これについて――よく聞いてください――自分がほかの人を傷つけたくなったり、だれかがほかの人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は大した存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。”
”いじめる側こそ、本当は弱虫です。他者を傷つけることで、自分のアイデンティティを肯定できると考えるからです。自分とは違うとみなすや攻撃します。違いは脅威だと思うからです。実は、いじめる人たちこそがおびえていて、見せかけの強さで装うのです。これについて――よく聞いてください――自分がほかの人を傷つけたくなったり、だれかがほかの人をいじめようとしていると感じたり、そう見えたりしたなら、その人こそ弱虫なのです。いじめられる側は弱虫ではありません。弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。自分は大した存在なのだと実感したくて、大きく見せて強がる必要があるのです。”
○○は、オタ、ウヨ、サヨ、生活保護、外人、フェミ、ミソジニー、好きなものをどうぞ。
まあ○○が本当に悪い場合もあるかもしれませんが、まっとうな指摘なり意見なりであれば、見分けがつくと思います。まっとうな意見の人は、一緒にスンナ、迷惑だ! と思っているかも。「真に恐れるべきは有能な敵ではなく 無能な味方である。」 -ナポレオン・ボナパルト (本当にナポレオンの言葉か未確認)
強いアンチも同様。アンチ巨人はちょっと違う「判官贔屓」=弱い方に味方・同情かな。
それはそれとして、人間はそういう醜い、弱虫な感情をも持つ生き物だと、それを誰かでなくゲージュツとかにぶつければ、物凄い傑作ができるかも。
「神は死んだ」という言葉で有名な哲学者ニーチェは、牧師の家庭に生まれました。
そして大学で神学部(牧師への道)と哲学部に籍をおきましたが、いろいろあって最終的に神と決別し、自身も味わったこの感情を「ルサンチマン」と名付けました。それらの著書で、哲学の巨人として名を残します。
ローマ教皇は神にゆだね、ニーチェは神と決別し、解決策は違いますが、原因究明までは同じなのが興味深い。
私自身は”「いじめはだめ」”と言うだけで解決できるとは思えません。できたとしても、解決するまでの期間、当事者にはツライ。
”弱者をいじめる側こそ弱いのです。自分を大きく強く見せたがるからです。”
「弱い犬ほどよく吠える」という諺があります。それを知識として持って、いざとなれば逃げるなりなんなりすれば、どうにかなるような。
ところで、
"わたしの時代、わたしが若かったころは、レオナルドさんが話したようなことは決して口にしませんでした。"
サラッと言ってますが、重い。”わたしの時代、わたしが若かったころ”、教皇の生地アルゼンチンは軍事政権下。軍事クーデターで政権交代しては、またしばらくすると軍事クーデターで政権交代。「口にしなかった」のか「口にできなかった」のか。想像できません。
その後、聖職に就いても、軍事政権下なのは同じ。
”汚い戦争(きたないせんそう、スペイン語: Guerra Sucia)は、1976年から1983年にかけてアルゼンチンを統治した軍事政権によって行われた国家テロである。左派ゲリラの取締を名目として労働組合員、政治活動家、学生、ジャーナリストなどが逮捕、監禁、拷問され、3万人が死亡または行方不明となった。
アルゼンチンにおけるカトリック教会およびその指導者の「汚い戦争」に対する対応を批判する声が存在する。ブラジルやチリでの軍事政権の弾圧にそれぞれの国のカトリック教会が立ち向かった一方で、アルゼンチンのカトリック教会は軍事政権を支持し、信者に対して「国を愛する」よう求めていた。当時「汚い戦争」に対し異議を唱えた者は「破壊分子」のレッテルを貼られる恐れがあった。軍事政権を批判し殺害された司祭、司教がいる一方で、大多数の教会関係者は口を閉ざしたままだった。”
- wikipedia
この「口を閉ざしたままだった教会関係者」の一人が彼である。
(*1) 教皇の日本司牧訪問 教皇の講話 青年との集い(東京カテドラル聖マリア大聖堂) 2019年11月25日、東京 カトリック中央協議会
https://www.cbcj.catholic.jp/2019/11/28/19857/
【LIVE】教皇ミサ(オリジナル音声版) Holy Mass/Tokyo Dome【公式】
https://www.youtube.com/watch?v=j_fLDeW2p98
感受性が強すぎる人たち、もいます。人それぞれなので、これくらい「自分は」精神ダメージうけないから、「普通」皆そうだろ、というわけにはいきません。解決策も人それぞれ。それはまたの機会に。