No.6 新緑の風見亭②
静かな店内に、パラリと紙を捲る音だけが響く。
集中するための銀縁メガネを掛け、カウンターに広げた資料を一心不乱に読み進めるクリストに、手持ち無沙汰なフレッドはこう切り出した。
「……なあクリスト、最後に寝たのっていつだ?」
「あん?なんだよいきなり」
資料から一切目を離さずに会話するクリストの目元には、確かにクマがくっきりとついていた。だが、この少年にとって目元のクマなど日常茶飯事である。なぜなら――
「……最後に寝たの、か。多分三日……いや四日前かな」
――基本的に睡眠を取ろうとしないのだから。いや、”取らない”ではなく”取れない”と言ったほうが正しいだろう。
「おいおい、マジかよ……。相変わらず人間離れした生活習慣なのな、お前」
「うっせ、俺を勝手に人外枠に入れんな。そしてほっとけ」
五月蝿そうにあしらうクリスト。その間にも、右手に持った羽根ペンが何度も資料の上を飛び交い、必要事項を書きなぐっていく。
そんな極限の集中の中にいるクリストに、フレッドは小馬鹿にするような調子で、ものの見事になんの躊躇もなく――逆鱗へと触れた。
「……ったく、まさかとは思うがよ。ま〜だ『夢が怖い』とか言ってんのか?いやお前マジで何歳よ、ガキかって――」
「なあ、フレッド。――そろそろ本気で黙った方が身のためだぞ?」
ここで、初めてクリストが顔を上げた。
不機嫌さがありありと見て取れる表情は、まるで殺意がみなぎっているように異様な迫力を醸し出している。心なしか、店内の温度が数度ほど下がったかのような錯覚にすら陥る。
「――っ、悪かったよ。そういやお前、この話題が大嫌いだったけっけな」
「たりめぇだボケ」
クリストが不機嫌に鼻を鳴らした途端、今まで漂っていた濃密なまでの殺気が嘘のように霧散する。思わず安堵の息を吐くフレッドに、再度資料に視線を戻したクリストが相変わらず不機嫌そうな声で言う。
「あのな、こちとら『記憶喪失』なんだぞ?自分がどこの誰かも知らないんだ。それなのに毎度毎度寝る度に意味のわかんねぇ記憶の断片を延々と見せつけられて……もうウンザリなんだよ」
「記憶喪失、ねぇ。じゃあ何か?お前、本当はクリストじゃないってわけ?」
「ま、そうなるわな。ぶっちゃけこの名前も知り合いが勝手に付けたものだし」
まあ自分の名前覚えてねぇからコレ使ってるけどな、と苦笑混じりに呟いた時にはもう、普段の飄々とした笑みへと戻っていた。
と、そこで一区切りがついたのか、クリストは羽根ペンを置く。メガネを額に押し上げて目頭を揉むという妙にジジくさい少年を横目に、フレッドはカウンター越しに資料を無造作に掴み、斜め読みする。
「ふぅん。この銀髪くんがソラミアちゃんを襲った魔術師集団のリーダー?可愛い乙女を襲うとは非常に羨ま……じゃなくてけしからん!えっと……ゼラス・フリークか。処刑処刑」
「おい、それ全部お前が集めた情報だろうが。つか物騒な本音が出てんぞ」
「生憎、《魔道教団》の力関係までは調査が及ばなくってな。……ふむふむ、このゼラスくんって妹さんいんの!?マジかっ、是非とも紹介して頂きたい……ッ!」
「おま、さすがに引くわ……。そんな女遊びばっかしてると、いつかまた刺されるぞ?」
過去にそれを経験しているのを知っているクリストは、皮肉を込めて言い放つ。と、その言葉に当時のことを思い出したのか、「ふおぉぁ!?」と気味の悪い絶叫と共に身震いするフレッド。
と、その不審極まる変態的挙動をするフレッドの手から、一枚の紙が滑り落ちた。
ゼラス・フリークと名が書かれたその男の似顔絵の上には、早書きされたような崩れた字でこう書かれていた。――収穫対象、と。
その文字列を一瞥し、クリストは悪魔のように邪悪な笑いを漏らした。
「さぁて、コイツが吉と出るか凶と出るか……。ま、どっちに転んでも俺が得するけどな」
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さて、場所は変わって『新緑の風見亭』の二階。
時は少し前へと遡る。
「えっと、突き当たりって……この部屋かな?」
救急箱を片手に階段を上ってきたルーナとソラミアは、フレッドに言われた通りの部屋を探し、扉のノブを捻る。
キィッ、と軽く軋んだ音を立てて開いた木製の扉の向こうには、少し狭いながらも十分に人が暮らせるであろう寝室が広がっていた。
「ここ、もしかしてフレッドの部屋?」
「そうみたいですね。部屋の入り口に名前付きのプレートが掛かってましたし」
「ん、そっか、フレッドの部屋かぁ……。うーん、一応綺麗には見えるけど……大丈夫かな?」
恐らく本人に聞かれたら「そりゃあないぜ!」と涙目で憤慨しそうな台詞だが、生憎そのご本人は下の階でクリストと悪巧みの真っ最中なので問題ない。
一通り部屋のあちこちを見て回り、及第点には達したのか、ルーナはソラミアに肩を貸して窓際のベットへと腰掛けさせる。
「さて、それじゃ手当てしよっか!」
「すみません、お願いします……」
「いいっていいって、気にしないで!こーゆーのは慣れてるからさ!」
そう言うと救急箱から包帯やら消毒液やらを取り出し、ソラミアの身体を手当てし始める。そのテキパキした動きはルーナが慣れていることを物語っていた。
「あの、随分慣れてらっしゃるんですね?」
「まあね。《執行部》のユグドは脳筋だからさ、目を離すとすぐにケガするんだよ。団長に勝負吹っかけたりしてさ」
勝てないんだから止めればいいのにね、と呆れながら言いつつ、ソラミアの腕の擦り傷に消毒液を掛けてガーゼで覆い、その上から包帯で固定する。
「あ〜あ、乙女の肌がこんなに傷ついちゃって……。まったく酷い人たちだよねぇ」
そっと撫でるように無数の擦り傷がついた肌をさするルーナにソラミアは同意混じりの苦笑を返して――はたと気づいた。
自分の頬を伝う一筋の水滴に。
「……っ?なんで……?」
「……当たり前だよ、あんなに怖い体験したんだから。それに、涙はソラミアが暖かい感情を抱えてる証拠だよ?隠す必要も恥ずかしがる必要もない」
とっさに顔を背けたソラミアにあえて視線を合わせず、ルーナは優しくそう諭す。そして、ルーナは真剣さを滲ませた声でソラミアへと。
「ねえ、ソラミア。あなたには団長やアタシたちのことを信じて、なんて言わない。でも、どうかアタシたちに、ソラミアのことを救わせてほしいの。そのためなら、命だって賭けられる」
「え……?」
「だって、傷ついた人たちのために戦うのがアタシたちの仕事だからね」
「それはその、非常に助かりますが……。私のためにこれ以上無駄に命を散らせるわけにはいきません。私の家族の二の舞いには、なって欲しくない」
ぎゅっと膝に置いた拳を握りしめて俯くソラミアに、ルーナは驚いたような顔をすると、その口元を緩めた。俯く頬に手を当てて、鼻と鼻が触れ合いそうなほど近くからその碧眼を見つめた。
「大丈夫だよ、アタシは死なないから。何があったってきっと団長が助けてくれるって信じてるもの」
「……信頼してるんですね、団長さんのこと」
「もちろんだよ」
ソラミアの言葉に即答したルーナは、確かな信頼とそれ以上の感情を秘めた表情で言った。
「だって、団長はアタシの英雄だから」
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一方その頃、ユグドラシルはといえば。
「ヤベぇ……。ここ、どこだ?」
迷宮もかくやとばかりに複雑に入り組んだ《西区》の路地の奥の奥で、建物の屋根の隙間からわずかに覗いた青空を見上げ、途方に暮れていたのだった。




