No.31 死して命を救う者②
小さく呻き声があった。
その可愛らしい声を上げた主――ソラミアは、重いまぶたをゆっくりと開いて気だるさの残る上体を起こす。ぼんやりと霞む思考をなんとか動かして、記憶の糸を手繰り寄せていく。
「あれ、ええと……。そうだ、《魔道教団》に捕まった後……変な魔法陣に組み込まれて……?」
そこから先でぷっつりと途切れた糸に首を傾げながら、ソラミアはとりあえず辺りを見回す。
周囲の状況は記憶の中とは一変していた。
少し遠くへ視線を向ければ、観客席のような場所は所々が焦げ激しい炎に晒されたようにボロボロ。舞台の端のほうでは何故か地面からツタのように生えた氷の鎖に絡め取られた白ローブの魔術師がごろごろ倒れている。
視線を近くへ動かしてみると、大きく広がっていた黄金色に輝く魔法陣は跡形もなく消え、金色とそれに何故か銀色が入り交じった破片らしきものがキラキラと煌めきながら降り注いでいた。
――そして、さらに近くには。
全身を深紅に染めあげた黒コートを纏った少年が、紅黒の片刃剣を片手に血の海へうつ伏せに倒れていた。その少年を、ソラミアは知っている。
「――え、クリスト、さん?」
零れ落ちた名前。それを漏らすと同時、ソラミアのこめかみにズキンと痛みが走った。霞む脳裏に見覚えのない光景がフラッシュバックする。
おびただしい量の血の海に仰向けで横たわり、胸元に巨大な風穴をこさえて執事服の正面を鮮血でべったりと汚した、壮年の男性。目の前に広がるクリストと、その男性が重なる。
知らない、見たこともない光景。だが、頭のどこかで誰かが囁く。私はこの光景を知っている、と。
「ぐ……ううっ……!?」
思わずこめかみを押さえると、すぐにその痛みは嘘のように霧散していった。途端に戻ってくる気だるさに飲み込まれそうになりつつ、それを必死ではねのけてソラミアはクリストの体へと駆け寄った。
「……っ、クリストさん、クリストさん!?ねえ、しっかりしてください!」
呼び掛けながらうつ伏せの体をあお向けにすると、その体に刻まれた惨状に思わずソラミアは手で口を覆った。
その酷さは、目を背けたくなる程だ。
特にひどいのが、左肩から胸にかけて深く裂けた一条の傷。その他にも、内側から爆発したように抉れた傷が全身至る所に刻まれている。それは、どんな素人にも一目で「手遅れだ」と悟らせる、とても残酷でいて親切な惨状だった。
その傷からは血が流れていない。それは傷口が人体の自己治癒力で治っているのではなく、もはや体内に流れ出るだけの血液が残ってはいないことを示していた。
「クリストさん……どうしてですか?」
少年の亡骸を硬い床に放置するのも忍び泣く、膝が汚れるのもいとわず血の海に付けて少年の頭をその上に乗せながら、ソラミアはポツリと呟いた。その頬を伝った一筋の涙がクリストの頬へ止まることなく落ちていく。
「どうして、自分の命を捨ててまで……私を、赤の他人でしかない私を助けてくれたんですか?」
血濡れた茶髪をそっと手で撫でる。返答のない問いだとはわかっていたが、それでも言わずにはいられなかった。
「ねぇ……答えて……答えて下さいよ……!」
すでに、ソラミアの聴覚には遠くで行われる戦闘の音など届いていない。その瞳には、眠ったように目を閉じる少年の姿しか映っていない。
思えば、状況が状況だっただけに長く感じるが、この少年とはまだ数時間の付き合いだ。守られていたこの数時間の記憶の中で、このクリストという少年は常に笑っていたと思う。
飄々に、不敵に、軽薄に、得意げに、意味深に、訳ありげに、意地悪そうに、小馬鹿にするように――楽しそうに、いつも誰かの隣で笑っていた。
そう記憶へ思いを馳せるソラミアは、ふと血の海に落ちていた蓋の開いた懐中時計に気がついた。確かクリストが使っていた時計だったっけ、と思い出しそれを懐へ戻してあげようと拾い上げて――その瞬間。
いくつかの出来事が、全く同時に起こった。
まず、その懐中時計の秒針が頂点へ到達する。カチン、と聞こえるはずのない、だが秒針が転廻する小さな機械音が確かにソラミアの耳朶を打つ。
そして、それに同期するかのように少年の亡骸の全身に刻まれた無惨な傷跡から白い煙が吹き上がった。その煙の下で、傷が時間でも巻き戻すように急速に治癒していく。
さらに。
元から傷などなかったように瞬く間に修復された少年の体。そのかつては血が滲んでいたが今は見る影もない唇が動き、そこから穏やかな声が流れた。
「――決まってるさ」
閉じられていた少年のまぶたが、ゆっくりと確実に開かれていく。その開かれたまぶたの下に眠っていた茶色の瞳は、涙で濡れたソラミアの顔を真っ直ぐに見つめた。
「昔、レイクとアリシアに約束したからな。『オレたちに何かあったら、娘二人を頼む』って、そう言われちまったんだ。……だから、助ける。友人たちの最後の頼み事だ、命くらい賭けて聞いてやるよ」
ぽん、と優しくソラミアの頭に手を置いて、少年は立ち上がる。床に落ちた片刃剣の柄を蹴り上げ、器用に右手で掴んでそのまま肩に担ぐ。
そして、ソラミアを振り返ると快活に笑った。
「それに、言ってなかったっけか?――俺ってば意外と不死身なんだぜ、ってな」
その、有無を言わさない奇妙な説得力ある言葉に、ソラミアは思わず涙を拭くのも忘れてくしゃりと笑った。その表情を満足げに眺めたクリストは、すっと片手を差し出す。
「レイクも、アリシアも、ミーナも。救えなくて本当に悪かったな。本当なら助けてやりたかった。でも、俺にはできなかった。――だから、ソラミア。お前だけでも、俺に救わせてくれねぇか?」
「――っ、はい……!」
その差し出された手を取って、ソラミアは頷いた。頬を伝う涙は依然として落ち続けるが、そこに込められた意味は異なる。悲嘆は安堵へ、絶望は希望へと塗り替えられていく。
繋がった手を引っ張って、ソラミアが立ち上がるのを微力ながら手助けする。そして、ソラミアを自らの背に隠して、クリストは片刃剣の峰でトントンと肩を叩きながら、屠るべき敵がいる方へと目を向けて――
そこにあったのは、死屍累々と倒れる白ローブを纏った魔術師たちと、「褒めて褒めて!」と言わんばかりの空気を全身から醸し出しつつドヤ顔を決めたユグドラシルとルーナの姿だった。
「「さあ、褒めて!」」
……醸し出すどころか実際に要求した。
そんな動物で例えるなら尻尾を振りまくる犬みたいなふたりヘ、クリストは深くため息を吐きながら左手で顔を覆って俯くしかない。
「ああ、うん、そうね。よくやったよお前ら。俺がちょーっと珍しく真面目にシリアスでもやってみようかなとか思ってたのが馬鹿みたいだわ。うん、本当によくもやってくれたよ、お前ら」
「そうだろそうだろ!?オレ、元凶のフリウス倒したんたぜ!マジスゲーだろ!さあ褒めろ!」
「アタシだってひとりで魔術師たちをみーんな倒したんだからね!凄いでしょ!さあ褒めて!」
「こいつら、そんな親にかまって欲しい子供みたいなノリで俺が大活躍する戦闘展開を潰しやがっただと……ッ!?『俺に救わせてくれねぇか?』とか超真面目顔で言ってたのが恥ずいじゃねーか!あーもう死ぬ!意外と不死身だけどなんとかして死ぬ!」
「いえ、あの時のクリストさんは格好良かったですよ!なんていうか、そう、まさに英雄譚に出てくる正義の味方の主人公……に憧れて背伸びする少年みたいな!」
「くそっ、フォローしてんのかディスってんのか判断に困る言葉をどうもありがとう!うわーい、いろんな意味で泣ける一言だぁ!まあ主人公とか英雄とか正義の味方ってガラでもないし、むしろ『あれ?意外と俺そんな脇役かも?』とか自分で思っちゃうあたりが特に泣けるポイントかなチクショウ!」
恐らく渾身のフォローであろうソラミアの台詞にトドメを刺されたクリストは、致命傷を喰らったように膝から崩れ落ちた。そのまま再びうつ伏せへ移行してしくしくと泣き出す哀愁漂う姿を見て流石に罪悪感に苛まれた三人は、顔を見合わせて視線だけで無言の会議を行う。
そして、なんやかんやあった後に女性陣の最終兵器『訴えかけるような瞳×2』の前に呆気なく屈したユグドラシルが、クリストの様子を伺いながら恐る恐る口を開いた。
「あー、えっと、そういや団長知ってっか?今日の23時からやる、西区六番街の『TheBouncer』っていう酒場の開店30周年記念飲み放題企画」
「……ぐすっ。いや、無理して露骨に話題変えようとすんな。……それはともかく、おいユグド、その情報俺にも詳しく寄越せ。何その企画最高かよすげー興味惹かれるなぁおい!」
「感情の切り替え早っ!?情緒不安定ですか!」
「うーん、どっちかって言ったら情緒不安定よりも純粋に興味が惹かれたから感情もそれに引かれてるんだと思うけど。団長、かなり自分の興味好奇心を優先で生きてるところあるから」
まあそこも可愛いんだけどね、と漏らしたルーナにソラミアは曖昧な笑いを向けるしかない。と、そうこうしているうちにユグドラシルから詳しく聞いたのか完全に立ち直ったクリストが、興奮したように早口でまくし立てる。
「よし帰ろうじゃあ帰ろうすぐ帰ろう!敵は殲滅したんだ、早いとこハーネスんとこにソラミア送り届けて依頼達成、みんなで飲みに行こうぜ!」
「おっ、いいねぇ!でもよ団長、送り届けちまったらやっぱりソラミアちゃんとは一緒に行けねぇよな……?」
「連れてくに決まってんだろそんな顔すんなよ!ハーネスは俺が説き伏せてやるさ!なに任せろ、いざとなれば最終手段の”ハーネス恥ネタ”を世間に全開放するっつー切り札をチラつかせてやんよォ!」
「ヒューッ、流石は我らが団長様だぜぇ!常人なら躊躇する一線を三段跳びで越えてくその勢い!そこに痺れる憧れるゥ!」
「「イェーイ!!」」
パァン!と妙にテンション高まった男ふたりの間でハイタッチが交わされる。実はもう酔ってるんじゃないのかと疑うレベルだが、これでも立派な素面だ。単に”飲み放題”の単語に酒好きのふたりが反応しただけである。
とにかく、今後の方針をノリで定めた適当極まる一行は、組み上げた予定表に従ってまずはハーネスの待つ王城へと足を運ぶために地上への帰り道へと歩みを進めて――
「……その少女は渡しませんよ」
か細い声を聞いた。
聞き覚えのあるその声に四人が一斉に振り返ってみれば、そこにはあちこち汚れて細かい傷まみれのフリウス・レイズが立っていた。かなり全身にダメージが蓄積しているのか、その両足は小刻みに震えている。
満身創痍、戦闘不能。言い方はどうあれ戦えるとは到底思えないその姿に、しかしその場にいた四人全員が理解度の差はあれ等しくなにやら危険な香りを嗅ぎとっていた。
「チッ。おいユグド、お前しっかりとどめ刺さなかったな?」
「いや、おかしいな。確かにみぞおちへ拳ぶち込んで意識を断ったハズなんだけど……?」
「……となると、理由は獣化か。自然迷宮だとシャドウウルフは”影潜り”で有名だけど、回復力が高いのも特徴のひとつだしな」
「いやいや、随分と博識なようで。ご名答ですよ」
爽やかな笑み――そこに、先程までの痛みが混じることはもうない。よく注意してみれば、その血に塗れた手足は漆黒の毛で覆われていて、どう見ても人間のものではなかった。
すなわち、それはフリウスが獣化状態にあるという何よりの証拠。重心が傾いている辺り未だ戦闘が可能な程ではないのだろうが、時間の問題だ。
その事により一層警戒を深め、ソラミアの盾になるように霊装を構えた三人が一歩前へ出る。
三対一の構図、そうでなくとも片方はまともに戦えるかすら怪しい身。戦闘になればクリストたちが十中八九どころか必勝なのは用意に予想がつくが――ただし、それは”まともな戦闘”だったらの話。
武器を構えるクリストたちに対し、フリウスはその場から動きすらしない。ただ一言、耳元に着けた通信用魔道具へ発すればいいだけ。
「――落として下さい」
そう、フリウスの口が紡いだ瞬間。
チカッと天井にまるで星空でも映し出されたかのように無数の光が瞬いたかと思うと――直後、その光が爆炎となって膨張した。
ズッゴォォォ!と、轟音が頭の上で鳴り響き激しい揺れが襲う。立っていることすら叶わずにその場へ膝を着いた各員は、ビキビキという天井から響いた異音に揃って頭上へ目を向けた。
天井の崩落。複数の爆発によって致命的な亀裂が入った天井の破片が、雨あられと降り注いでくる。その未来を脳内で思い描いたクリストは、阻止するべく口早に指示を飛ばす。
「……ッ!凍らせろ、ルーナ!」
「っ、わかった!はあああ――あああああああああああああぁぁぁぁぁァァァッッ!!」
杖を天井へ掲げ、ルーナが吼える。
途端に杖の先端から迸った氷の奔流が、天高く一直線に昇っていく。それは天井へ当たると四方へ分かれていき、大樹の枝葉のような形状を造り出した。その透明な大樹は瓦礫同士を繋ぎ止め、見事に崩壊を防いでいく。
ぎしっ、ぎしっ……と不気味な音を立てつつも崩壊が止まった天井を一瞥し、クリストは素早く立ち上がるとフリウスへと視線を向け――そこで、今まさにユグドラシルに殴り倒されているフリウスを見てしまった。
出番泥棒、再び。
二度あることは三度ねぇだろうな、俺の顔は仏ほど優しくねぇぞ?とがっくり肩を落としつつも、それを表に出さずにルーナへ問いかける。
「なあルーナ、天井の氷はどれくらい保てる?」
「う、えっと……十五分が限界かな……」
苦しそうに顔を歪めつつ、それでも杖を手放さないルーナ。それは、霊装は強大すぎて使用者本人にすら制御出来ない暴れ馬に対する外部制御機構――つまり、今ルーナが霊装の杖を手放せば、たちまち天井を支える氷は霧散してジ・エンドだからだ。
つまり、全神経を魔力制御に回している今のルーナは、戦闘不参加どころかまともに動けすらしない。
それを考慮しながら脳を回転させたクリストは、すぐさま思いつく限り最善の策を組み上げた。
「よし、ユグド。お前ソラミアとルーナを連れて地上に脱出しろ」
「はぁ!?おい、団長はどうすんだよ!」
承服しかねる、と顔にはっきり表して掴みかかってくるユグドラシルを制し、クリストはそっと背後を親指で指し示した。
「悪ぃな。どうやら俺にはお客さんだ」
そこに居たのは、切れ長の瞳に銀色の短髪、おまけに腰へ剣を携えた青年。彼の名はゼラス・フリーク。クリストが今回の件を通して色々な因縁を構築してしまった魔術師のひとりだった。
「おいまさか、あれと戦うために残るってんじゃねぇだろうな!だったらオレが残るぜ、団長を犠牲にさせる訳にはいかねぇ!」
「馬鹿かお前は、俺の体格じゃふたりを担いで脱出なんて不可能なのは分かるだろ?それに、全員で逃げるとしたって今のアイツに背中を見せた瞬間ぶった斬られんぞ。そのくらいの殺気だぜ、ありゃあ」
「け、けどよぉ……!」
なおも食い下がるユグドラシルに、クリストはこれ見よがしにため息を吐いて、苦笑を浮かべる。そして適当に、それでいてどこか子供へ諭すような口調で言った。
「俺の事は気にすんな。いいから行けよ英雄志望。そこのヒロイン二人を両手に花で地上までエスコートしてやれ。裏方役は俺が持ってやるからよ」
それはもしかしたら、ユグドラシルに余計な責任を負わせないようにというクリストなりの、分かりにくい遠回しの配慮かもしれなかった。
それを感じてかどうか、ユグドラシルは「クソッ!」と誰ともなく悪態をつく。そして、ソラミアとルーナの体を荷物のように小脇に抱えた。
「はわっ!?ちょ、この格好はスカートが……!」
「ごめんソラミアちゃん、少しだけ我慢してくれ!あとうっかり見えても事故だから怒んないでな!事故だから!」
「怪しすぎて怒りますよ!?……でも、まあいいです。私が走るよりユグドさんに抱えてもらった方が早いんでしょう?なら負担をかける分それくらいは我慢しますよ」
諦めの言葉を漏らすソラミアに、密かにガッツポーズを決めたユグドラシルは、クリストへ背を向けると小さく、ギリギリ届くか届かないかくらいの声量でぼそっと呟いた。
「……団長、悪いな」
「気にするな。部下をサポートすんのも、上司である団長さんの役目さ」
へらっと緊張感なく笑うクリストを振り返ることなく、ユグドラシルは今度こそ駆け出す。その姿が舞台の端に設けられた通路口へ消えていくのを見届けて、クリストはゼラスへと初めて意識を向ける。
と、今まで沈黙を保っていたゼラスがここで口を開いた。
「さて、そろそろいいだろうか?」
「……ああ、悪い。こっちの事情で待たせちまって。一応聞いておきたいんだが、これは再戦の申し込みってことでいいのか?」
「無論、そうだ」
「無論そうだって、メロンソーダに響き似てるな。いや、俺も実際には飲んだことねぇんだけど、知り合いが美味いって言ってるのを聞いたことがあってさぁ……」
と、普段通りの軽口を展開しかけていたクリストの喉元へ、静かに鋭く冷たい片手剣の切っ先が突きつけられた。言葉にこそしてこないが、その行動には『黙れ』という明確な意思が含まれているのは明白だ。
だからこそ、クリストはその笑みを不敵に歪めると片刃剣をガシャリと鳴らした。そして、その瞳が剣呑な光を宿す。
「はっはぁ!やーっと回ってきたってワケか、俺の出番が!いいぜ、今度こそ本気で相手してやるよゼラス!」
「そう来なくてはな。私も本気で行くと、この剣に誓おう。本気で――お前を斬るとな」
タイムリミットは十五分。
互いに最初から手加減も小手調べもしない。初撃から――殺す気で、斬りに行く。そうでなければ本気の相手と斬り合うのは不可能だと、既に知っているから。
そして直後、激突を告げる盛大な金属音が、崩壊寸前の訓練施設へ響き渡った。




