第32話「解放のアンファング」
背後から一突き。
一歩遅かった。
闇の中で。
天理黒夢は、女の子を刺し殺していた。
「貴方は……天理!? どうして……」
苦悶と驚嘆の表情を浮かべ、その女の子は視線を血走らせる。
「嗚呼。悲しまないでください、沙羅様。これは‶解放〟。これで、繰り返される無限の生もう苦しむことは無いのです」
「なにを……言って……!? まだ、私はこれから……ようやく、ようやく、私は最高の肉体を……」
「だからこそですよ」
「――ッ!?」
「最も美しい姿の貴方を看取ってあげたい。僕の心遣いです」
「―――――――――ッ」
目の前で、搾りだすように叫びをあげているのは、紛れもなく雀宮沙羅だ。だが、その姿は、まるで別人だった。その女の子は、つぎはぎだらけの和装に身を包み、やつれた顔はまるで死体だった。
「驚いたかな、時弥君。これが、沙羅様の本当の姿」
「……」
「沙羅様は何度も何度も肉体を取り換えているんだ。肉体が死のうと、決して死ぬことのない命。それが、彼女の能力――彼女の呪い。可愛そうだとは思わないかい?」
……。
「でも、僕の能力なら、沙羅様をこの苦しみから‶解放〟できる」
「……界級能力、か……」
ずっと、不思議に思っていた。
なぜ、天理黒夢は俺の白昼夢に何度も現れたのか。どうして、俺の意識に語り掛けることができたのか。
だが、界級能力を持っている渚が意識世界への介入をしてくれたことで気が付いた。そして、初めはアホらしいと思っていた世界の解放をどうして声高に叫べるのかも。
界級能力なら、あるいは。
「そう。僕の能力は《滅却》。何もかも、消し去ることができる」
「――ッ!?」
そこで、目を見開いたのは沙羅だった。
見ると、刺された傷口を中心として、消滅が始まっていた。
絶望が。
恐怖が。
沙羅の表情を、酷烈に歪ませた。
「やだ……やだやだやだやだヤダアアアアアアアアアアアアッァァァァァッァァァァッァ! 消えたくない! 消えたくないッ! 消えたくナイィィィイイイィィィ! 私はまだ! 私はマダアアアアアアアアアアアアあアアァぁァァァァァァァァァァァァァァァァァ――」
そして、沈黙。
まるで。
映像停止ボタンを押したかのように。
余韻さえもなかった。
ニタリと口角を上げるのは黒夢だ。
「嗚呼、沙羅様! 僕も、すぐにこの世界を連れて逝きます! 嗚呼。‶解放〟に歓喜を! ‶浄化〟に祝福を! 終焉の時は此処に来たれり!」
そして、両手を広げ、天を賛美するがごとく仰ぎ、黒夢は高笑いをする。
俺はというと、何もできずにいた。
感じていたのは、怒りでも、恐怖でも、呆れでもない。ただただ、圧倒されるしかない。
消える。
俺も消されてしまう。
戦う?
冗談じゃない!
戦うどころじゃない。奴は、俺に触れさえすればそれで俺を消すことができる。それに、俺には刃がない。やり合えば、確実に消される。
ならば、逃げるか?
どこに? どうやって?
さっきから試しに念じてみてはいるものの、一向に瑞鶴に戻れる気配がない。まるで、ここ(・・)に閉じ込められたようだ! そう、黒い闇が俺を覆い潰そうとしている!
「さあ」
首筋に。
刃が付きつけられる。
「高崎時弥君。君に最後のチャンスをあげよう」
「チャンス? なんのことだ?」
「仲直りをしようじゃないか。君に僕は倒せない。知っているよ。今の、君には何の攻撃手段もありはしない。君も異能力者だったようだが、霊級能力《憑依》程度では、僕の界級能力に歯は立たない」
「……どうして、俺にこだわる?」
黒夢は目をつぶると、息を一つ。
「僕はね。君にはこの崇高は理念を理解できると思っているんだ。君は僕の‶解放〟を逃避だと言ったね。それを、考え直して欲しいんだ。そして理解者になって欲しい」
ああ。
なるほど。
以前の俺だったら、了承していただろう。
だって、そちらの方が生き残れる公算が高いし、何しろ、コイツの言う通りこの世界を「価値なき物」と判断しただろうから。
でも、今の俺は違う。
目をつぶれば、渚や神無の姿が……柚木や生駒、そしてこちら側の「時弥」が、命を燃やす世界を見ることができる。
見えてしまう。
だから、今の俺は、そこだけは譲れなかった。
「誰が、お前なんかに――」
途端に。
俺は、胸ぐらをつかまれた。
そして、鋭い剣幕で睨まれる。
「なら、絶望しろ。その目に、この世界の終わりを焼き付けるがいい」
「ッ!?」
そこで、俺は気づく!
胸ぐらをつかみ、俺を睨みつけていたのが、黒夢ではなく、神無であることに!
白銀の髪。
紫紺の双眸。
そして、雪のよりも白い肌。
「神無?」
いや、違う。姿だけだ。神無はこんな表情をしない。
刺した時に、神無の心と体を乗っ取ったのか?
「黒夢! お前、一体なにをッ!?」
「世界を終わらせるのさ。この、沙羅様の亡骸と共に」
***
ボロボロの白壁、突き破られた天井。
渚が目を覚ますと、そこは柚姫の膝の上だった。まるで、柚姫は我が子をあやすかのように、穏やかな表情で渚を見つめる。
「目が覚めましたね」
にっこりと笑う柚姫に、渚は苦笑いで返す。
「えっと、どういう風の吹きまわしかなぁ? これもお仕置きの一環? 飴と鞭の飴ちゃんタイム?」
「まあ、そんなところです。状況が変わりましたからね」
「ふーん。にしてもすごいね。膝枕だけじゃなくて、傷口も全部塞がってるっぽいんだけど……」
渚は、自身に痛みが無いことに気が付くと、斬られた場所を触り始める。驚くこと傷は全て、あの出来事が全て夢だったかのように消えており、折れ曲がった足も元通りになっていた。
一体誰が?
決まっている。こんなことができるのは、《水神》の力――治癒の力を持つ柚姫だけだ。
水は古来より、治癒の象徴。さらに、柚姫という名に入っている柚もまた、昔から魔除けや健康に良いとされてきた。本来、《水神》が備えている治癒能力のポテンシャルを、柚姫が引き上げたといったところだろう。
すぐとなりには生駒の姿もある。
意識は無いものの、治癒は終わっており、問題はなさそうだ。
「でも、大変でしたよ。先輩、手ひどくやられてましたから」
「お前にな。まったく、これだから最近の若いもんは」
「戯言はいいんで、立ってください。刺しますよ」
「次は、針治療かい?」
「まったく、脳天貫きますよ。いいから、立ってください。さっきから言っているんですけど、状況が変わったんです」
「んあ?」
やだなー。
自分で痛めつけるだけ痛めつけたくせに。
この子には人の心というものが無いのかなぁ?
そんなことを思いながら、立ちあがった渚は、死神を目にすることになる。
――紫紺の双眸。
あちらこちらに瓦礫が散乱する静謐な空間に、その少女は闇を纏い、佇んでいた。足元には、男の肉塊が転がっている。
「神無……じゃないね……」
「沙羅でもないですよ。お兄ちゃんでもない……あれは――」
「来て」
と、少女は呟くように言う。
無表情に、冷徹に、――氷のように。
「二人にも、この世界の終焉を見せてあげる」




