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【メモランダムⅠ】―分断の固定化:1945~1950―

 1945年の冬、ソ連軍により東京は陥落。

 日本は降伏した。


 翌年、日本は富士川・糸魚川を境界として、米ソによって東西に分割された。

 そう、分断国家になったのである。



 大東亜・太平洋戦争の終結後、米ソは徐々に対立を深めていくものの、すぐ直後から対立する意思があったわけではなかった。むしろ、両国の直近の課題は日本の無力化であったと言っていい。


 非軍事化、農地改革、財閥解体など、分断初期に東西で行われたことは似通っている。

 

 しかし、ソ連が東日本を共産圏の傀儡国家にしようとしたこと、そして、西日本もまた食糧不足から共産化しようとしたところで、東西の政策に相違が見られるようになる。

 要するに、西日本(日本立憲主義国)では「レッドパージ」が始まり、東日本(日本人民共和国)ではブルジョワ階級に対する弾圧が始まったのである。


 そして、東西日本は独立が急務となる。1948年には、両国は米ソの後押しによって独立を宣言し、更に西日本は日米同盟を締結し、東日本は日ソ同盟を締結する。

 ここに、極東における一触即発の状況ができあがる。



 ***



 1950年、祖国統一戦争の気運は高まるものの、東西の指導者は動こうとしなかった。というのも、国内は先の戦争で疲弊しきっており、また、もし戦争を始めれば米ソの介入は不可避であり、大戦争につながることは明らかだった。


 それを証明するかのように、同年に朝鮮戦争が勃発する。ソ連の介入はなかったものの、「国連軍」と「義勇軍」の介入を招き、朝鮮戦争は民族紛争から国際紛争という性格に変容した。


 朝鮮戦争において、東西日本は軍用品を提供する後方基地となった。後方基地を叩くことは戦争の定石。だが、米ソの直接対決を恐れるあまり、両陣営はそれを行わなかった。

 東西日本の内部では、火事場泥棒的に日本の統一を図ろうとする動きも見られたが、最終的には政治的地盤を固める方が優先された。



 さて、ここで天皇がどうなったかを確認しておく。

 結論から言うと、西日本が象徴天皇制を取ったことで、天皇制は継承されることになる。


 分断初期は、戦争犯罪を問われ、特にソ連派は戦犯として処刑することを主張した。ここには、単純な戦争責任問題も存在していたが、やはり共産主義イデオロギーと王政が相いれないものがあるという比重が大きかった。


 その後、GHQの画策により、天皇は「帰洛」。

 西日本は京都を首都とし、東日本は東京を首都とする。

 これが、「ある種の不幸」の始まりだった。

 というのも、江戸時代末期――いや、関ケ原の合戦以来から存在する東西対立が、図らずも再現されてしまったのである。


 かたや、天皇と歩んできた歴史を強調する西日本ナショナリズムと、朝廷権力との戦いの歴史を強調する東日本ナショナリズムの高揚は、分断を固定化する1つの要因となった。


 


【人口データ(1947年)】


日本人民共和国(東日本) 約3300万人

日本立憲主義国(西日本) 約4500万人


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