【メモランダムⅣ】―日陰の西日本:1950~1970―
「修正主義」のソ連。
「教条主義」の中国。
「日本流」の東日本。
中国やソ連と堂々と対峙できる東日本。
それに対して、西日本は国際社会においてそれほど大きなプレゼンスを発揮できていなかった。50~60年代を通じて、経済は発展したものの、発言力という面に関してはそれほどでもなかった。経済的な要因としては、東京のように物流が良くないこと、政治的要因としては、再軍備をしなかった分、どうしても存在感はうすかった。
西日本の人間は、東日本に「憧れ」と同時に「侮蔑」という相反する感情を持っていた。まず、社会主義を成功させていたことで、東日本を「地上の楽園」とみる見方。そして、中ソと軍事的に対立したことから「狂暴である」という見方である。そうして、東日本の人間は「武士的」で、西日本の人間は「公家的」という考え方が流行るようになる。
こうして、60年代では分断が強調されるが、同時に、危機があれば「とはいえ、同じ日本人」という考え方が強まった。特に、50年代後半の中ソによる搾取や、1960年に発生したチリ地震による災害の際には、西日本は東日本に多くの援助をした。これは、70年代の「和解」の伏線となる。
ちなみに、60年代後半に、武力によって日本を統一しようという動きが再び東日本には見られた。しかしながら、ベトナム戦争の激化が、これを止まらせた。ただでさえ中ソとの三つ巴の状況なのに、その上アメリカと対立するわけにはいかなかったのである。




