黒猫クーの月夜の散歩
そうだ! クーは思いました。
僕の考えが正しいことだって確かめよう。
僕の考えが正しいってことがわかれば、何もわかっていないお母さんだって、きっとわかってくれるはずだもの!
月の子クーは小さな男の子です。
背伸びをしても棚の上に手が届きませんし、字だってうまく書けません。夕ご飯に出てくるグリーンピースを、こっそりもお皿のすみによせては怒られています。
クーは小さい男の子でしたが、とても大事なお仕事を月の女王さまであるお母さんにまかされていました。それは夜空の庭にいる星のお世話です。
ピカピカでキレイな窓ガラスも、そのままにしておいたら、やがてはくもってしまうでしょう? これは星も同じなのです。
星もほうっておけば、やがてくすんで光が地上に届かなくなってしまいます。
だから誰かが星のほこりを掃除したり、磨いたりしなくてはいけないのです。
そしてそれがクーの仕事なのでした。
クーが星の一つ一つを磨くので、夜空の庭のペガサスとユニコーンは元気に駆け回り、白鳥は羽をゆったりと伸ばして夜空を飛ぶことができるのです。
クーは、今日ものんびり過ごしていた山羊の背を磨いてやりました。
こうして毎日毎日、違う星のお世話をします。そして全部の星のところをまわり終えるとまた最初の星に戻って同じようにお世話をするのでした。
「クー、今日もご苦労さま」
通りかかったサソリが、立派な長いしっぽを揺らしながら言いました。
「あ、サソリさん、こんにちは。赤い星が今日も素敵ですね」
クーの言葉に、サソリは嬉しそうです。
「ありがとう。この星は私の自慢なの。みんなに見てもらいたいからいつでもキレイにしておきたいわ」
「まかせてください」
クーは胸を張ります。
自分の磨いた赤い星を見て、きっとたくさんの人が「あ、サソリ座の赤い星、キレイだね!」というに違いない、とクーは思います。そんなサソリの赤い星はクーにとっても自慢なのでした。
ある日のこと。
クーが夜空の獅子のたてがみの手入れをしていた時のことでした。
ふと地上のことが気になり、庭先から下の世界をのぞきこんでみたのです。
「わぁ……」
するとどうでしょう。空から見える地上はキラキラとしてとてもキレイなのです。夜だというのにとても明るくて、キラキラがじゅうたんみたいに広がっているではありませんか。
クーは夢中になってのぞきみました。
キラキラの地上にはたくさんの人たちが楽しそうに歩いているのです。そんな人たちを見ているとクーも楽しい気分になりました。しばらくすると、クーはあることに気づきます。
楽しそうにキラキラした地上を歩く人たちが少しも空を見上げて星を見ていないのです。ときどき、お月さまを見上げて「あら、キレイね」という人はいても、星まで見てくれる人はいませんでした。
サソリ自慢の赤い星をピカピカにしても、それに目を向けてくれる人は見当たりません。そのことを知ってクーはとてもガッカリしました。
クーは今までお母さんに言われるまま、小さな頃から毎日毎日、星を磨いてきました。それはピカピカ光る星をたくさんの人に見てもらうためだったはず。それなのに、いくら星をキレイにしても、いくら手入れをしても、本当は星を見てくれる人はいなかったのです。
どうせ誰も見ていないのだったら、掃除などしなくても同じ。
クーは寂しい気持ちでそう思いました。クーは、それから夜空の庭に出かけても、星の掃除をしないでぼんやりとすごすことが多くなりました。クーが星の掃除をしなくなると、少しずつ星の光は弱くなり、ピカピカと光っていた星はくすみはじめます。
すると、羽を広げていた白鳥は羽を休め、牡牛も熊も狼もひっそりと隠れるように寝てばかりいるようになりました。
夜空の庭はまるで火が消えたように静かに、そして暗いところになってしまったのでした。
星の明かりがすっかり隠れてしまうほど星が汚れてしまっても、クーはやっぱり何もしませんでした。
クーは夜空の庭にやってきては地上のキラキラを眺めながら毎日を過ごしたのです。
暗く沈んだ夜空の庭のことを知ったクーのお母さんは驚いてクーを呼び出しました。
「クー、これはどうしたこと? どうして星の掃除をしないの? あなたが星の掃除をしないから、みんな輝きを失ってしまっているわ」
するとクーは言います。
「お母さん、あのね、僕がいくら星を掃除しても、いくら星をキレイにしても、誰も見てくれないんだ。どんなにキレイでどんなに立派なものでも誰も見てくれないんだよ」
クーがこんなことを言ったものですから、月の女王さまは心底を驚きました。そして掃除をサボったクーに罰を与えることに決めました。
「クー、それほど地上をのぞいてばかりいるのなら、あなたを地上に落としましょう。そして、あなたが本当にしなくてはいけないことを考えなさい」
月の女王さまはそう言ってクーを夜空の庭から落としました。
「うわっ!」
クーは夜空の庭から、空に投げ出されました。
夜空の庭を離れたクーは、空を落ちながら夜空の色を吸い込み、夜空色の猫に姿を変えます。夜空の暗くて黒い部分をいっぱいに吸い込んだ黒猫クーとなって地上に落ちました。
そして、黒猫クーは落ちた地上のキラキラの都会の街を歩きました。
クーのすぐ横を足早にたくさんの人が通り過ぎていきます。もちろん誰も星など見上げる人はいません。少しだけ期待していたクーはまたがっかりしました。
だって、それは夜空の庭で見ていたのと同じだったのですから。違うことと言えば、前は上から見ていたのが、今度は下から見上げていることくらい。
クーはたくさんの人が行きかう人の足を見ながら考えました。
きっと、お母さんはこのことを知らないんだ、いくら頑張ったって、誰も見てもくれないってことを。
そしてクーはこうも考えました。
「だったら……」
お母さんに教えてあげなきゃ! 僕の発見したことが正しいって、お母さんに教えてあげよう。世界中を歩き回って、僕の考えが正しいことを確かめるんだ。
そうしたら、お母さんも僕の言っていることをわかってくれるはずだもの。
そしてお母さんに言うんだ。誰も星なんか見ていないよ、僕の仕事なんか意味がないんだよ! って。
クーはそれから夜を追って世界を歩くことにしました。クーの訪れる場所はいつも夜。お月さまとくすんだ星の下をクーはいつも歩きました。
ある時はキラキラでにぎやかな都会、ある時は寝静まる静かな田舎、波の音と潮の匂いが素敵な海辺、まだ昼間の熱気が残る砂漠、クーは夜を追って、そこで星を見る人を探しました。
それでもやっぱり星を楽しみにしている人はいませんでした。
クーは自分の考えが正しいとわかるほどに悲しい気持ちになりました。
今までしてきたこと全部が無駄なことのように思えてきてしまったのです。たくさんの時間を星の掃除に使いました。
もし、星を掃除していなかったら、クーはもっといろいろなことができたはずです。
もっと楽しい時間があったかもしれないし、もっと自分のためになることができたかもしれません。
その全部を、クーは星を磨くことに使ってしまっていたのです。
そう思うとクーはますますがっかりしました。どうしてみんな教えてくれてなかったのだろう? クーは掃除をしなさいと言ったお母さんをうらめしく思い、誰もいない砂漠で足を止め、涙をこぼしました。
クーはすっかり元気をなくしましたが、それでもトボトボと夜を追いました。
元気をなくしたクーがたどりついたその街は建物が壊れた、ガレキばかりの街でした。
クーは驚きました。
だってこんな街が地上にあるなんて、クーは少しも知らなかったのですから。クーは暗くてさみしいその街を歩きました。
すると、クーはガレキに腰かける一組の兄弟を見つけたのです。
弟はお兄ちゃんにたずねました。
「お兄ちゃん、今日はお星さま出ている? お星さまキレイ?」
するとお兄ちゃんは答えます。
「ああ、今日もお星さまはすごくキレイだよ」
それはウソでした。
お月さまの明かりは見えても、星を掃除する役目のクーがここにいるのです。星はくすんだまま。輝くどころか、ますますくすんでいっていました。
クーは不思議な兄弟のそばにソッと腰かけ、兄弟の声に耳を傾けます。
お兄ちゃんは、クーの聞いたことのない星のお話をしました。この国に伝わる星の神話です。
物語を語るお兄ちゃんのお話は決して上手ではありません。それでも、弟は夢中になってお兄ちゃんの話を聞いていました。
弟はお兄ちゃんと星が大好きなようでした。星の話に興奮して弟は言います。
「僕の目のケガが治ったら、またお星さま見えるかな?」
「ああ、見えるさ。絶対に見えるよ。見えるようになるのが楽しみだな」
クーの心はズキリとしました。
星を見ることを楽しみにしている子がいる。僕はそれを全然知らなかった。
夜空の庭からクーが見ていたのは、キラキラした光る地上だけだったのです。キラキラした場所にだけ目を奪われ、気持ちを奪われ、自分の目の届かないところで自分の仕事を見てくれている人にクーは気がつきもしなかったのでした。
あの子は目が見えていないのです。だから本当の星は見えていません。だから、くすんでしまった星は見えず、心の中のピカピカの星を見ているのです。
クーは申し訳ない気持ちになって、トボトボと兄弟のもとを離れました。
クーは考えました。
あの子の目が見えるようになった時、僕が掃除をしていない星を見たらどう思うだろう? ああ、星ってあんまりキレイじゃないなって思うかな?
ギュッと胸が苦しくなりました。
星を誰も見ていないわけではありませんでした。クーの磨いたキレイな星を見て喜んで、希望を感じる子がいたのです。
けれどクーはそれがわかっても夜を追う旅をやめることができませんでした。
心の中がもやもやしたまま旅をしました。
気がつくとクーは深い深い森の中を歩き、深い森のその奥にまでやってきていました。
月明かりが差し込むその場所には、それはそれは立派なバラの樹がありました。
月明かりに照らされた真っ赤なバラはとてもキレイで、クーは悩んでいたことも忘れてそのバラにうっとりしました。
こんなにキレイな花があるなんて……。
夜空の庭にあるどんな花よりも、深い森の深いところに咲く赤いバラはとてもキレイだったのです。
その赤い花はサソリの自慢の赤い星のように輝いているように見えました。
「あなた誰?」
「えっ?」
見れば、毛足の長い、まるでドレスを着たような美しい黒猫がバラの樹の陰から出てきたではありませんか。黒猫がいたことを、クーは少しも気がつきませんでした。
黒猫の金色の瞳にまっすぐに見つめられ、クーは思わず目をそらしつつ「もしかして、この花の樹をお世話している子?」と言いました。すると黒猫は「ええ、そう」と答えました。
「このバラは私が手入れをしているのよ」
「すごくキレイなバラだね!」
クーがバラをほめたので黒猫は嬉しそうに金色の目を細め、しっぽをふわりとゆらしました。
すごくキレイなバラ。
でも……とクーは思います。
「どうしてこんな誰もこないような所でバラのお世話をしているの? とってもキレイなのに。ここにバラが咲いていても、きっと誰も見てくれない」
すると、黒猫は不思議そうに首を傾げました。
「誰も見てくれない? あなたが今ここで見てくれたでしょう? 私がもしここでバラの手入れをしなかったら、あなたにこのバラを見てもらうことはできなかったわ」
黒猫に言われ、クーは確かにそうだと思いました。黒猫がバラの手入れをしていたからバラはキレイに咲き、クーはバラを見ることができたのです。
でも……とクーは思います。
「もし、僕がここにやってきた時に、君がここにいなかったら? 君は僕がバラを見たことすら知ることはできないだろう?」
誰も見てくれないかもしれないものを、一生懸命お世話をすることになるんだ。
「君は……君はそれでもうれしい?」
するとやはり黒猫は不思議そうに首を傾げて言いました。
「もし、私がここにいなくて、その時あなたがこのバラを見てくれたとしても、今と同じようにバラがキレイだと思ってくれるでしょう? 私はそれでもうれしいわ」
クーは驚きました。
こんなにキレイなバラをしっかり育てたのに、しっかり育てたのは黒猫なのに、きっと黒猫のことを誰もほめてはくれません。それどころか、バラがキレイだと言う気持ちも、聞くことはないかもしれないのです。それなのにそれでも黒猫は気にしないというのです。
「それは、どうして?」
クーはたずねました。すると、黒猫は答えに迷うわけでもなく、むしろ少し不思議そうに、当然のことのように言いました。
「このバラは私の大事なものだからよ」
「大事なものだから……」
このキレイなバラは黒猫の大事なもので、そのバラが誰かにたまたま見てもらえて、そしてキレイだと思ってもらえて、それで満足? 見てもらえたことを自分が知らなかったとしても?
その時でした。
月明りのバラの樹を前にした二匹の黒猫のもとに、月の使者が月色の羽を羽ばたかせ、音もなくやってきたのでした。
月の使者を見て、黒猫は「またあなたなの?」と言いました。
すると月の使者は黒猫の前で丁寧にお辞儀をして「クーが世話になったな」と言いました。そして今度はクーに「クー、女王さまがお前のかえりをまっているぞ」と言ったのです。
「うん……」
クーはコクリとうなずくと月の使者の背ちょこんと乗りました。
「あなた、月の猫だったの?」
黒猫は驚いたように言います。
「僕は月の子です。……黒猫さん、実は僕にも大事なものがあるんです。黒猫さんのキレイなバラみたいに、とってもキレイで大事なもの。僕、その大事なものをほったらかしにして来ちゃったんだ、だから僕、かえらなきゃいけないんだ」
クーは心をざわざわさせながら言いました。そんなクーを見て黒猫は「そう、本当に大事なものなのね」と言いました。
クーは月の使者の背に乗り、深い森の奥から飛び立ったのでした。そして、夜空の庭にかえっていきました。
それからというもの、夜空の庭の星がくすむことはただの一度もありません。
誰かが見ていなくても、誰かが興味を持っていなくても、星がくすむことはありませんでした。