遠い昔の思い出と
——記憶はその人を形作る重要な要素だ。ひとつ違っただけでもどんな影響を及ぼすのか分からない。些細な変化かもしれない。人格をひっくり返してしまう物もあるかもしれない。だから気を付けるんだ。簡単に“描き替え”ては駄目だからね。
父は口癖のようにそう言っていた。もう十年も前の話だ。それから五年経ったある時を境に、父は車椅子生活になり筆を握らなくなった。
無精髭を撫でながらカンバスに向かいゆったりとした動作で筆を動かすあの日の父の姿は、もうどこを探しても見当たらない。今は窓際で一人、寂しそうに遠い目をして外を眺めている空っぽの背中を、私はただ見つめるしかなかった。
父の意思を受け継ぎ、絵描きとなった私。果たしてこれで良かったのだろうか。昔の父の言葉を思いだし、急に不安な気持ちに襲われるときがある。優しい口調だったが、その裏に何かしらの念が込められているような気がして私は怖くなり目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは幸せの記憶。陽の中で淡いオレンジに輝くカンバスを父の膝の上で眺める幼い頃の私。そして、自慢げに話をする父の姿と揚々とした声。
『自分が正しいと思うようにすればいいのさ。大丈夫、父さんがついているから』
「分かってるよ、お父さん。分かってるけど……今やっていることは本当に正しいのか私には分からない」
真っ白のカンバスを抱え、今から向かう依頼人の事を思う。あの人は自分自身を失ったりしないだろうか。これからも幸せに生きていけるだろうか。記憶を自由に描く絵描き——私は、人を幸せにする事が出来るのだろうか。
じわりと目が熱くなる。こんな所で立ち止まってはいけない。私は父のように立派な記憶の絵描きにならなければ。
私は絵描き。父の意思を受け継いで『記憶を描く』絵描きとなる運命…………。