第二章 貴石の逢瀬 2
香水の匂い、裏に毒に近い何かを含んだ瞳。
国王の治世が長く続いている事を祝う行事であるはずなのに、舞踏会には無数の思惑が交差している。
「ふぅ」
デリフェルとローオールの使者に、それとなく話を振って、様子を伺って――芳しくない、とロードライトは判断した。まだ圧力のことは口に出していない。この場で反発を買って、宴席をぶち壊されては、他の国の使者達に申し訳が立たないのだ。長いこといさかいが続いてるせいか、デリフェルもローオールも、向こう側に隣国が見える時にだけ、やたら激昂しやすくなる節がある。
穀物の取れ高や、国の経済状況などに、さりげなく探りを入れて、返ってきたのは――。
「もっと援助を、か。軍備に費やされると分かっていて、むざむざ金や食料を流してやるほど、お人よしな国じゃないんだけどね、うちも」
ワインを口に運びながら、ロードライトは口の中でつぶやく。肝心のところは「いやあ」だの「まあまあ」だのという言葉で遮られ、それよりもうちの第一王女はそれはそれは美しくてですな、教養も心がけも一級品で……などと、思惑が見え見えの話を持ち出されれば、うんざりもする。
ただでさえ。
ワインから口を離して、ロードライトはさりげなく辺りを伺った。女性から男性にダンスを申し込むことは叶わないが、着飾った女性たちが、明らかに自分の周りに固まっている。小鳥がさえずるような声やさざめきの間に、ちらちらと視線がこちらに投げかけられている。期待されているものは明らかだ。
いっそ、妹をとっつかまえてダンスを申し込もうかとさらに視線を巡らせれば、ミランダは騎士の正装をしたまま、今年社交界に出たばかりの若い女性とダンスを踊ってやっていた。見た目が穏やかで優しい上に女性なので、怖がりのお嬢さんの練習相手に、彼女はしょっちゅう引っ張り出されるのだ。ドレスを着ていなければ、勿論ダンスを申し込む対象にはならない。
鼻の下を伸ばしているどこぞの国のお大尽と和やかに談笑を交わしているがカレンも同じくだ。基本的に神殿の人間をダンスに誘うのは、マナー違反とされている。彼ら、彼女らの相手は、異性ではなく神であるからだ。
とはいえ、王子が誰とも踊らないというは、さすがに面目が立たない。貴族の子女を「おもてなし」するのも、王子の仕事のうちだ。
(アステリアの……)
侍女頭のカシアが上げた「お見合いリスト」に上がっていた女性の名前と特徴を、ロードライトは頭の中で反芻した。「王妃になれるかもしれない」という期待を抱かせることで、こちらがしばらくは話を有利に進めることが出来そうな家臣の縁者を適当に見繕って、お相手をしておくべきだろう。
外国の使者の中には、幸いロードライトが相手をするべき年頃の女性はいない。
(茶色の巻き毛、栗色の瞳、鼻は少し低めで、ドレスは……)
似顔絵と、それに添えられていた特徴の説明は、頭の中に入っている。グラスを侍女の持つ盆に置いて足を進めれば、女性の波は彼の動きを邪魔しないように、さっと割れた。
「私と踊っていただけますか?」
極上の「王子の笑み」を浮かべて、若い女性の手の甲に口づける。ややふくよかで抱き心地のよさそうな体つき。デコルテは大きく開いていて、白い胸元をこれでもかと言わんばかりに強調している。鯨のひげで作られた輪によって、大きく広げられたドレスの下部には、ふんだんにレースが使われている。ベルベットローズの生地は栗色の髪に良く映えていた。容姿もまあ、美しいと言って差し支えない。ロードライトと並べば、やや見劣りはするが、そんな事を言っていては、彼は誰とも踊れなくなってしまう。
(あまり趣味じゃないけど)
柔らかな指が、自分の指に絡まる。薔薇の香水は、ロードライトの名前にちなんだものなのだろう。胸元の首飾にも、赤紫のロードライト・ガーネットがあしらわれている。そこそこ堅実に領地を治めていて、不快でない程度に野心を持っている伯爵の一人娘だ。最初の相手には妥当だろう。
計算をすべて押し隠した上で浮かべられた笑みに、娘は顔を紅潮させて腰をかがめた。
「おもてなし」をしなくてはいけない相手とは大体踊り終えた。それでもひっきりなしに女性が寄って来るのに辟易して、ロードライトは適当な相手に偶然ぶつかったふりをして、夜会服にワインをこぼさせた。
「申し訳ございません、殿下!」
慌てて謝罪の言葉を繰り返す男を押し留めて、ロードライトは着替えてくると言って、ホールを後にする。
もっとも、女性の視線は絶えずロードライトに注がれている。一人で個室に戻る道のりで、声をかけられないとも限らない。
「さーて、どこに避難しようかな……っと」
舞踏会は夜を徹して行われる。半刻ばかり休んだ後で、また戻るつもりではいる。デリフェルとローオールの使者に、出来ることならもう一度揺さぶりをかけてみたいし、海を隔てた国の情報を知り、交渉のきっかけを作れる機会は、そうそうありはしないのだ。
確実に一人きりになれる場所――。しばし考えをめぐらせた後で、ロードライトは「よし」とつぶやいて、自室とは反対の方向に歩き出した。
「殿下!?」
城の中にある、小さな宮の門の前で、衛兵が驚いた様子で声を上げる。人差し指を口の前に持ってきて、ロードライトはくすくすと笑い声を立てた。
「国王陛下の治世が長く続いていることへの感謝の意をね、ダリア女王に捧げに来たんだ。半刻ほどで出てくるから、通してもらっていいかな?」
衛兵達は互いに確認するように顔を見合わせる。ここはクラルテの開祖が祀られている場所で、王族以外の人間が立ち入ることは許されていない。昼間には勿論、各神殿から派遣されてきた神官たちが、宮を清めに毎日上がってはいるが、それとこれとは別だ。この時間に、この先に入ることが出来るのは、国王と王妃、それに、唯一の跡継ぎである、ロードライトだけだ。
一介の門番が、王子の頼みを断れるはずもない。それに、この宮は昔から、舞踏会で客人のお相手をするのに疲れた国王や王子が、休憩するためにも使われてきている。
どうぞと開かれた門の先に、ロードライトはのんびり足を進めた。
灯りさえ落とされている小さな宮の造りは、女王であったというダリアに合わせてか、どこまでも繊細で丁寧だ。窓に施された透かし彫りの花弁から、月の光が差し込んでいる。白亜の細工物のような宮は、月の光を吸い込んで、淡く光を発している。咲き誇っているダリアの花色が、乙女の髪に飾られた花のように、小さな宮に彩を添えていた。
柱の影から中庭に出る。その中央には小さな泉がしつらえられていて、澄んだ水がちろちろと湧き出て、水路を伝って外に流れ出していた。その中には、この国で採掘される、ありとあらゆる宝石が沈められている。
胸元に飾っていた真珠を投げ入れれば、白くて丸い珠は月の光をとろりと反射した後で、泉の中に波紋を描いて消えていった。
さや、と、木の葉が風に吹かれて、耳に心地よい音楽を奏でる。ここは舞踏会の喧騒とはまるで無縁だ。服に香水の匂いが染み付いていることに、ここに来て初めてロードライトは気づいた。きつい香りは好みではない。服を変えるときに、出来れば湯を使いたいが、そこまでする余裕はないだろう。
建物に切り取られた夜空の中央に、真円の月がぽかりと浮かんでいる。そういえばここは、王子が心に決めたご夫人と、密かに逢瀬を重ねた場所でもあるのだという。
「逢瀬、ねえ。確かにロマンチックだけど」
一人でいても、随分と心が休まる場所だ。息を吸い込めば、舞踏会に立ち込めていた無数の思惑や策謀が、すっきり体から抜けていくような心地になる。
アルコールが入ったせいだろうか。少し体が熱い。上着を脱いで作りつけられた白い石の椅子の上にかけ、シャツの袖をまくる。王宮のはるか下から湧き出てくる泉の水は、いつでも清らかでとびきり冷たい。腕を冷やそうと、ロードライトは地面に膝をついて、泉の水面に手を伸ばした。
指が水面に触れた、その時だった。ふいに、泉の底がぐにゃりと歪んだ。
「……?」
目が疲れているのだろうか。ロードライトは盛んに瞬きを繰り返し、ついでに目を軽くこすってみた。見間違いではない。泉の奥に沈められた色とりどりの宝石たちが、飴のようにぐにゃりと形を変え、色の洪水となって、互いに混ざり合いながら、一点に向かって収束している。
何が起こったのだろう。
「え……、あ、まさかこれか!?」
多少慌てながら、ロードライトははっと気づいて、水面に触れていた指を、水面から離した。人を呼ばなくては、と思うのだが、あまりに良く分からない現象に、全身が凍りついたように動かない。
色の洪水は、やがて翠色のきらめきを、どんどん強くしていく。
水面が翠に輝いたその次の瞬間、ロードライトの目の前に、みずみずしい昼間の緑が広がった。
夜の空間に、昼間の日の光が現れる。
どれほど腕のいい術者が、どんな魔術を使っても、今瞬時にここに作ることは絶対に出来ない光に、ロードライトは目を奪われた。
泉の水面は鏡のようにぴたりと凪ぎ、一面に豊かな緑を映し出している。秋が近づいているせいだろうか、色づき始めた木々の葉も混ざっていて、それは緑のなかで、色鮮やかに咲き誇る花のようにも見えた。
見たことのない植物だ、とロードライトは判断する。泉の向こうにある景色に咲いている花も、木の葉の形も、ロードライトがこれまで目にしたことがないものだ。朽ちて倒れた木の幹には、瑞々しい苔が、たっぷりと生えている。
比較的乾燥している気候のクラルテでは、これほど見事に苔が生えそろうことはまずない。少なくとも、泉の向こうに映っている光景は、クラルテのものではない。
「……ふーん」
ロードライトが平常心を取り戻すのに、さほど長い時間はかからなかった。
元より好奇心の強いたちだ。危険がなさそうだと判断し、どうしてこんな現象が起こっているのか見極めてやろうと、身を乗り出して泉を覗き込む。
泉の大きさは、大の大人が四人か五人、手を繋げば囲えてしまうほどの、ごく小さなものだ。
緑の森の中央あたりで、白く飛沫をあげるものがある。滝だ、と気づき、注意をそちらに向ければ、泉に映った光景は、またぐにゃりと歪んだ。
再び像が結ばれた時には、目の前に白い帯のように流れ落ちる滝と、湖が広がっていた。せり出した岩は気の遠くなるほど長い時間をかけて削られたのだろう。どれも滑らかな丸みを帯びていた。その岩に倒れ掛かっている木の枝に、水滴がついてきらきらと光を弾いている。
人の手入れが入ることなく放置された荒々しさを秘めた、それでいて豊かな森だ。滝の下にはオパールのように刻一刻と色を変える、澄んだ湖水が広がっていた。魚の影がくっきりと見えるほどに、湖の水は透き通っている。木々の合間を縫って広がる光景には果てがなく、この世の光景なのだろうかと、ロードライトは疑いたくなった。
ふいに、滝の横にせり出していた岩の上の茂みが揺れた。ロードライトは何気なくそちらに視線を向けた。鹿か何かだろうか。このような森に住む野生の動物は、さぞ美しいに違いない。そう考えると、不思議と胸が弾んだ。
緑色の茂みは、さらにさやさやと揺れる。やがて茂みを動かしていたものが、葉を揺らしながら姿を現した。
「……!」
自分が息を呑んだのが、いやにはっきりと分かった。
すらりと伸びた四肢、後ろで一つにまとめられた黒い髪。
見たこともないような服を着ているが、そこに現れたのは、紛れもない人間の、それも女性だった。
白い足首が、すとんとしたデザインの、スカートのようなものの下から覗いている。水気をたっぷり含んだ苔が、素足に踏みしめられ、地面に柔らかく沈み込む。天然の絨毯を踏みしめていた足は、一歩一歩、白い飛沫を上げながら流れ落ちている滝の方へと近づいていく。
似つかわしいといえば、この上もなくこの森に似つかわしい姿だと思えた。こくりと喉を鳴らして、 ロードライトは女性の動きを目で追った。人間のように見えるが、もしかすると彼女は妖精か、女神なのではないか。冗談でなくそう思ったのだ。
とうとう崖の端までたどり着いた所で、女性は立ち止まって後頭部に手を伸ばした。頭の高い位置で結ばれていた紐を解き放ったのだろう。頭を振るのと同時に、豊かな黒髪が、肩を流れ落ちながら広がった。
(……あー、ひょっとすると)
この後の展開に予測がついて、ロードライトは心の片隅で、ちらっと「まずいかな」と考える。けれどもこの光景は面白い。今、目を離して、見なかったことにしてしまうにはあまりに惜しい気がする。
果たして王子の予測どおり、女性の手は、ついで自分のスカートを留めていると思しき、帯の方に伸びた。濃い紺色のそれは、帯が解かれればすとんと下に落ちる。
無駄のない、細いふくらはぎが露わになる。女性は、さらに太腿の位置まであった上着を肩から落とした。
黒い髪に、白い肌がくっきりと映える。
ふくよかさとは縁がまるでないが、野を駆け回る獣のような、洗練された優美さを持った体だった。一糸まとわぬ姿となった肢体が、日の光を浴びてまばゆいばかりに輝いた。
脱ぎ捨てた服を茂みにかけ、女性は再び滝のほうへと近づいていく。
次の瞬間には、ためらいを全く見せることなく見事な流線を描いて、彼女は湖に飛び込んでいた。
湖水は澄み渡っている。光をわずかにゆがめながら、女性は魚のようにすいすいと、湖を泳ぎまわる。魚の方も人間に警戒心がないのだろう。時折じゃれつくように、女性の周囲いで舞うように泳いではさっと離れていく。
男としてのロードライトの気持ちは、不思議と騒ぐことがない。
何か特別神聖なものを見せられているような気がして、高揚感で胸が高鳴りはしているが、それはまた「男」の部分とは別種の、純粋に敬虔な気持ちからくるものだ。
やがて泳ぎ疲れたのだろう。女性は潜るのをやめると、仰向けになってくたりと両手両足の力を抜き、水面に浮かび上がった。豊かな黒髪が、艶を含んで水面に広がる。まぶたが伏せられているのが惜しいな、と思う。顔の造りの特徴が、クラルテの民とはまるで違う。けれどもすっと通った鼻梁や柳のような眉、小さな唇は、この光景にひどく似合う、清々しさを感じさせた。
ロードライトが思ったことが通じたのだろうか。ふいに女性が、ぱちりと目を見開いた。
「!」
夜の闇よりなお深く、それでいて強い生気を秘めた瞳。意志の強そうな両の目が、ロードライトをしっかり「射抜いた」。
見られている。
「……失礼」
声が届くかどうかは分からない。思わず口にしてからそれに気づいて、ロードライトはわずかに後ろめたい気分になった。女性はしばらく無表情でロードライトを見つめ続け、やがて再びふいっとまぶたを閉じた。
「西の国の人間か」
流暢なクラルテ語が、女性の口から滑り出る。水音さえも聞こえてこなかったのに、涼やかな風のような声だけが、耳にはっきり滑り込んできた。さらにそれが聞き覚えのある言葉だったことにロードライトはぎょっとした。この女性の顔立ちも、この土地も、クラルテや近隣諸国のものではありえない。
確かに、クラルテ語は強国の言葉だから、蒼麗語と同じくらい、商人達の間で使われてはいる。しかし、そういった世俗のものとは、この女性は縁がないように思えた。
返事がないのを気にしたのだろう。女性は再び目を開いて、ロードライトを見上げた。
「……シィバ・イノウゥ?(ごきげんよう?)」
今度は蒼麗語だ。確認する目線に、ロードライトは慌てて首を横に振った。
「クラルテ語で通じるよ」
「そうか」
よく耳をすませば、発音にもわずかに癖がある。彼女は紛れもなく外国の人間なのだろう。水浴びを覗かれているというのに、女性は悠々と水を腕でかいて、仰向けに浮かんだまま、再び泳ぎ始めた。形のよい指先から、雫がきらめいて空中に散らばっては、また湖面に戻っていく。
「このような光景を覗いていても、面白くはないだろう?」
「は?」
「男というのは、子孫を残すための本能が特に強く出来ているからな。豊かな胸、大きな尻、そういうものに魅力を感じるのが常だろう」
どこかずれた言葉に、ロードライトは一瞬言葉を失う。ついで、笑いだしたい衝動を抑える羽目になった。かみ殺しきれなかった笑みが、口の端に上る。
面白い。
「いやいや、充分目の保養になるよ」
「そうか」
実際、水滴を弾く白い裸体は、それはそれは美しかった。
性的な魅力を感じる体かと問われれば、そういった魅力には欠けていると答えざるを得ないだろうが、代わりに完成された、冒しがたい美しさを感じさせる。世の芸術家が、争って絵や彫刻に残したがるような類の美だ。
豊かな森が生んだ宝石だと言われれば、そのまま信じてしまうだろうと思う。
「……君、名前は?」
尋ねれば、ロードライトのほうに、女性は不思議そうな目を向けた。
「それを知ってどうする」
「いや、なんて呼べばいいか、分からないからさ」
数回瞬きを繰り返した後で、女性はふと眉をしかめた。
「無防備だな」
「は?」
「名前というのは、他人においそれと教えるべきものではないだろう」
「どうして」
「本質に通じるものだからだ。技量のある術者ならば、名を知るだけで相手を殺してしまうことも可能だぞ」
変わった文化を持つ国らしい。ロードライトは首をかしげた。
確か、蒼麗にはそういった類の風習はなかったはずだ。だとすれば、この娘は蒼麗の人間でもないということになる。
「じゃあ、普段はどうやって相手を呼ぶんだい? 名前がないと、いろいろ不便だろう」
「あざな、と呼ばれる仮の名をつける。本当の名前は、夫や妻にしか教えないものだ」
「じゃあ、それでもいいや。君のあざなは?」
「持っていない、必要がなかったからな」
どういうことだろう。話についていけずにロードライトが固まっていると、女性は腰を折り曲げて、するりと水の中に滑り込んだ。すいすいと泳いで浅瀬に近づくと、ざぶりと水から顔を出して、その場に立ち上がる。腰から下が水につかり、髪がゆらゆらと揺れている。体に貼り付いた髪をかきあげながら首を軽く振れば、また水滴がいくつも飛び散って、水面に新たな波紋を描いた。
「……お前、何者だ?」
「何者、って」
「こんな場所と繋がってしまうくらいだ。普通の人間ではありえないだろう」
確かに、王子は普通の人間とは言わないかもしれないが、ロードライト自身は何も特別な力を持ってはいない。鉱石の力を解放するような才もなければ、ミランダのように人並み外れた剣の腕を持ち合わせてもいない。この状態も、ロードライトがそうしようと思って造りだしたものではないのだ。
反応を返しあぐねていると、女性は表情の読めない瞳で、上――ロードライトの方に顔を向けた。
「意識して私に接触を図ったわけではないのか?」
「いや、全く」
「……そうか」
瞳を伏せて、女性は思案にふけるようなそぶりを見せる。
水滴が珠を結んで、肌の上を転がり落ちていった。
鳥のさえずりさえきこえてくるのではないだろうか。月は中天に昇り、青く輝いているというのに、水面の下では相変わらず日の光がきらめいている。
女性が身をかがめ、左手で水面をさっと撫でた。
ゆるりと水が流れ、すくい上げられた水滴がきらきらと光りながら、飛沫となってあたりに散らばる。光が散った後の女性の手の中には、いつの間にか一本の小枝が現れていた。
「では何か必然があるということなのだろう。……受け取れ」
ふわり、と、彼女の手から枝が離れて浮き上がる。え、と思う間もなく、枝は泉の水面に、ぽかりと浮かび上がった。風はないのに、枝はひとりでに水面を漂って、ロードライトの方へと流れ着く。
「シンジュの枝だ」
「シンジュ?」
「持っておけ。それはお前を護るだろう」
恐る恐る指を伸ばして、小枝を水面から引き上げる。水をたっぷり含んだそれは、ロードライトの手のひらにすっぽり納まってしまうほどの大きさだった。
「……ありがとう。ええと、僕も何かお返しすべきなのかな」
「気にするな。差し迫って必要なものはない」
やはり面白い。こみ上げてくる笑いをこらえられず、ロードライトは声を上げて笑いだした。
「どうかしたのか?」
「いや、失礼。……君、面白いねえ」
「……?」
ひとしきり笑い転げた後で、目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、ロードライトは泉を覗き込んだ。
「僕の国にはね、名前を教えちゃいけないなんていう風習はないんだ。だから勝手に名乗るよ? ロードライト。僕はロードライト・シン・レーベン・クラルテっていう」
「ロードライト?」
危なげのない発音で繰り返して、女性は軽く顎を引いた。
「覚えておこう」
「ありがとう。……また会えるかな。今度は、実体で」
「会いたいのか」
「面白そうだしねえ。是非直接お会いしたいよ」
「そうか」
瞬きを繰り返した後で、女性はあっさり首を縦に振った。
「どうせ当ての無い旅だ。ではそちらに足を伸ばしてみよう」
「場所が分かるの?」
「シンジュの枝がそちらにあるからな。その気になればたどり着ける」
「そう。じゃあ会える日を楽しみにしているよ。ええと……」
「茉莉、だ」
その単語が、彼女の名前だと分かるまで、少しの空白があった。
「名前を教えちゃいけないって、さっき」
「枝をやったからな。それは私にとっては、名前よりも大切なものだ」
何の変哲もないように見える枝と女性を、ロードライトはまじまじと見比べる。
「……これが?」
「粗末に扱うなよ」
「あ、ああ。約束しよう」
ふっと、女性の唇が笑みの形を作る。どこか不敵で、面白がるような、それでいて、相手の出方を探っているような。
「――では、ロードライト。レイグ・ヤ・トゥオリェ」
その言葉と同時に、突風が吹き、泉の水面にさあっと波が立った。森の緑も、この世のものとは思えないほど澄んだ湖も、何もかもが水面に溶ける。
「……」
はっと気がつけば、泉はいつも通り、その水底に、沢山の宝石を沈めたまま、こんこんと清水を流し続けていた。
「夢……か?」
手元に残った、木の枝からは、かいだことのない清涼な匂いが漂ってくる。
知らない場所の水の匂い、知らない植物の枝。あれが夢でない、唯一の証拠だ。
しばらく小枝とにらみ合った後で、ロードライトはそれを、大切に胸元に仕舞った。