第二章 貴石の逢瀬 1
――東方の光を得るだろう。
それは、彼がこの世に生を受けた日に、四つの神殿の大司祭が同時に夢の中で聞いた言葉なのだという。
クラルテは、東の大陸から切り離されたような、比較的小さな大陸に位置する大国だ。「アダマス大陸」と呼ばれる大陸の実に八割はクラルテの領土であり、周辺にはまばらに小国が散らばっている。
クラルテが「クラルテ」という国名を掲げるより前の時代の終わりには、大規模な紛争によって国土は焦土と化し、国民はその三分の一までもが死に絶えたといわれる。
後に「絶望の大戦」と言われる悲劇的な紛争に幕をおろしたのは、一人の王女であった。
それが後の世に語り継がれる、伝説の女王、ダリア・シャマシュ・レーベン・クラルテである。彼女はクラルテの第二王朝を開き、第一王朝期とは比べ物にならないほどの繁栄をこの地にもたらした。
時はそれから二百年ほど流れる。クラルテは歴代の優秀な王と臣下達に支えられ、東の蒼麗と並ぶ強国として、今はその名を世界に響かせている。
バサバサという、幾重にも重なった羽音を共にして、視界を埋め尽くさんばかりの鳥達が空へ羽ばたいていく。下の方から、割れんばかりの歓声が沸きあがった。白く壮麗な城のテラスに出た王と后、そして跡継ぎの王子が、国民に向かって笑顔で手を振る。
「我らが王のご健康を祝して!」
「クラルテの一層の繁栄を!」
城壁の上に並んだ警備兵達が、一斉にファンファーレを鳴らす。
国王の第一子、ロードライトはこの時二十歳。歴代の国王と同じ金色の髪と青い目を持つ、眉目秀麗な青年であった。
「ふい~、終わった終わった」
治世二十周年の儀が終われば、王子は一旦休憩できる。自室に下がれば思わず地が出て、ロードライトは肩を中年の男性のようにコキコキと鳴らした。
「終わっておりませんよ!」
ばん!と、王子の部屋のドアを開けて、恰幅のよい老婦人がずかずかと部屋の中に入ってくる。ロードライトは思わず飛び上がってから、やや慌てた様子で後ろを振り返った。
「なんですか、成人の儀式もとっくにお済みになられたというのに、大人げのない」
「普通ノックもなしにいきなり自室に入ってこられたら誰でも驚くと思うんだけど、カシア」
「まあ失礼。ですが私がノックをすると殿下はお逃げになるでしょう。そこの窓から」
ロードライトは肩をすくめる。すっきりとした顔立ちに似合わない幼い表情。いたずらを誤魔化そうとする子供そのものだ。
老婦人はメガネの縁を指で軽く押し上げると、優雅な所作で手にしていた巻物を広げ、その内容を朗々と読み上げた。
「本日、日の入り後は国王陛下主催の晩餐会が行われます。あと二、三刻もすれば殿下のお召しかえも始めますので、くれぐれもここにいらっしゃってくださいましね。」
つんと鼻を上げて読み上げるカシアのメガネのレンズが去年より厚くなっているなあと、どうでもいいことを考えながら、ロードライトは話を聞き流す。
「ええと、僕がお相手をしておかないといけないような御仁は出席するのかな?」
「殿下、『僕』ではなく、『私』で、ございましょう?いい加減に言葉使いを改めて下さいまし」
「話が横道にそれているよ、カシア。お客様についてだ、まず。諸外国の出席者のリストを――」
言いながらロードライトはカシアに背を向け、マントを外して上着を脱ぐ。脇に控えていたメイドにそれを渡し、シャツに結んであったブラウンのリボンを外して襟元をくつろげた。
「レモネードを頼めるかな。うんと冷たいやつ」
ついでにそう言いつけて下がらせる。
「本日祝賀にいらっしゃるのは蒼麗と梵、周辺諸国の大臣様方と、あとは南大陸からいくつか」
「今年も東照からは音沙汰なしか」
東照は、長いこと鎖国状態だった、半ばお伽話の中の国だと思われていた国だ。近年、政変が起こり、国の仕組みが根底から覆ったおかげで、外の国とも交流が始まったと聞いている。興味はあるが、いかんせん東照は名前の通り、東の果てにある国だ。王家にさえ、満足な状況はまだ伝わって来ていない。
「内乱がおさまったばかりでございますからね。まだまだごたごたしていてこちらに使者を送る余裕はございませんでしょ」
「じゃ、いつもどおりで」
「はい、外国の方々にはそれで構いませんわ。それより殿下」
ソファにどかりと座り込んだロードライトの目の前に、ぴっと一枚の紙が突き出される。それを受け取って目を走らせ、そういかないうちに、ロードライトは渋い顔をした。
「アステリアのコーダ嬢、ヒエナのペリル嬢…」
そこにずらりと並んでいたのは、クラルテの諸侯の娘達の名前だった。
「本日いらっしゃるお嬢様方ですわ。身分も殿下に釣り合う方をそろえておきました。勿論、生まれも育ちも『東部』でございましてよ」
「……つまりお見合い?」
「率直に申し上げれば。なにせ殿下はもうおん歳二十でいらっしゃいますもの。そろそろよろしい頃合でございましょ?」
「……あぁ、うん、言われてみれば……そうかな」
ロードライトは首をひねる。
「……実感が湧かないけど」
「まあ」
カシアが狐のように目を細めた。顔に似合わず幼い教え子の、微笑ましい反応に気をよくしたらしい。
「ですが結婚は殿下の義務でございましてよ。殿下がご結婚なさらないと王族は滅んでしまいますもの」
「わかっているさ」
この国で王位を継ぐことができるのは王の第一子だけだ。初代女王が自らの血筋にかけた呪いによって、そう定められてしまっている。
第二子以降は決して王位を継ぐことは出来ない。その代わりに、彼らはずばぬけた才能を与えられており、一生を第一子である王を支えるために費やすのだ。
「結婚ね…うーん」
「難しくお考えにならなくてもよろしいんです。今回はとりあえず候補を絞られるだけでも構いませんのよ。国王陛下もまだ充分お若いですし、それに殿下は家庭を築いていかれるには幾分頼りなくていらっしゃいますから」
「もう二十年早く生まれていたらカシアを娶れたのにねえ」
「お上手でいらっしゃいますわね。その調子です」
生真面目な老婦人をからかおうとしたのだが、難なくかわされる。歳の生み出す貫禄にはとても勝てないと、ロードライトは苦笑した。
コンコン、というノックの音が部屋に響く。
「殿下。大司祭補佐様と一の騎士様がお見えです」
くつろいでいた表情が、一転して真面目なものになる。政治に関わる話だと察して、カシアが身振りで部屋の中で忙しく動き回っていた侍女たちを集め始めた。長年働いている侍女頭は、自らの分をきちんとわきまえている。
「二刻後にまた参ります」
きちんと言ってから、扉口で立っているミランダとカレンに優雅にお辞儀をして、侍女たちが退出する。彼女達が全て出て行ったのを見計らって、二人はロードライトの方に向き直った。
「入りたまえ」
少しだけ顎を逸らして促す。二人は失礼いたしますと断ってから、王子の部屋に入ってきた。ほとんど音を立てずに、両開きの扉が閉められる。
「おくつろぎの所、申し訳ありません」
「構わないよ。……本題に入ってくれ」
言葉を受けて、カレンが手にしていた紙の束を、王子の方に指し出す。険しくはないが和やかさも感じられない表情に、ロードライトはこっそり落胆した。『嫌な予感』が外れていれば、この娘は営業用のものだとしても、笑みを顔に浮かべているはずだ。柔らかな印象が崩れるほどではないが、今は真顔になっている。と、いうことはだ。
「……残念ながら、殿下の予測が的中されていましたわ」
予想通りの言葉が、カレンの口から飛び出した。
「レア金貨の質の低下、発行枚数の増加。無駄な物価上昇が起こりそうなものですが、農村は特別に課せられた重税のせいで、今年はろくに冬のたくわえも出来ていないそうです」
「重税の行方は……軍事費か」
「残念ながら。クラルテからも武器の違法輸出が行われていたようです。それも、かなりの規模で」
「失礼な予測なんだけどねえ、ひょっとすると、あれじゃないか」
乾いた笑いを漏らしながら、ロードライトは人差し指をぴっと立てた。
「……ローオールも、似たような状況になってないか?」
冗談のつもりで言ったのだが、カレンとミランダは同時に頷いてくれた。予測が当たってしまったことに、ロードライトは頭を抱えたくなった。
「またか」
「またですわ」
「またです」
「今度は何だ。ローオールの舞踏会で、デリフェルの大臣の細君が寝取られでもしたのか?」
王子の仮面を思わず外し、ロードライトが露骨に顔をしかめる。立てられていた人差し指が、そのままこめかみに当てられる。
デリフェルもローオールも、クラルテと国境を接する小国だ。二つの国同士もまた、クラルテから続く運河を隔てて国境を接しているために、クラルテとの取引権を互いに譲らず、ずっと小競り合いを繰り返している。いつごろから続いているのかははっきりしないが、クラルテの史書を信じるならば、二つの国が興ってから百五十年近くの間、何らかの形で小競り合いは続いていることになる。
「さあ。小競り合いの原因はただいま調査中ですわ。どうせ言いがかりにも等しい、些細な理由でしょうけど。二十年周期で戦争やる力があるなら、国力の充実に力を注いでいただきたいものですわね。運河ごときに囚われて、他の周辺諸国よりずっと貧しい生活を強いられてることに、まるで気づこうとしないんですもの」
遠慮のない物言いをしながら、カレンは腕に抱えていた、もう一つの書類を机の上に置いた。
「地質調査の結果が出ました。ダリアス領、特に新規に開拓された鉱山周辺の農村は、やはり廃村にせざるを得ないだろうということです」
「……仕方がないね。今進行中の、街道整備の事業に携わってもらえば、数年は生活する当てができるだろう。その間に、なんとか新しい定住先を見つけないと。……適当な場所はあるかな」
「候補地はいくつか。ただ、やはり村を離れたがらない方もいらっしゃいますし、鉱山で採掘をさせられていた労働者には治療が必要ですので、付き添いの家族は首都で受け入れないといけませんし……ギルトが子供達は職人学校に受け入れてもいいと、申し出てきています」
「没収した伯爵の財産は、焼け石に水だろうねえ」
「でしょうね。伯爵が掠め取った工事費のかなりの部分は、既にデリフェルに流れていますし」
「最悪だな」
「ですわね」
三人は同時に溜め息をつく。一昨年の天候不順が原因の農作物の不作から、ようやく立ち直ってきたばかりなのだ。数年打ち止めになっていた事業が再開された矢先にこれでは、先が思いやられる。
確かに、国力が違いすぎるのを分かっているのか、デリフェルもローオールも、クラルテに歯向かうような真似を見せたことは一度もない。
豊かな鉱脈は諸外国から見れば魅力的だが、クラルテの領土でなくなった瞬間に、鉱山で取れる鉱石は、薬効を完全に失ってしまう。それもあって、クラルテは建国以来、周辺諸国から攻撃を受けたことがない。だがしかし。
「……戦争が始まったらさあ、面倒なんだよねえ」
「圧力をかけますか。幸いといっていいかどうかは分かりませんが、不作の余波から、デリフェルもローオールもまだ完全に立ち直ってはいませんよ」
戦が始まれば、必要になるものは武器だけではない。武器を操る兵士達を潰すことが出来れば、戦は戦にならず、開戦する余裕はなくなるだろう。
頷いて、ロードライトはミランダに向き直った。
「使者を立てよう。軍事費及び軍備を縮小するように勧告を。食料の支援の打ち切り、及び穀物の輸出に関する関税の引き上げを匂わせれば、何とかならないこともないだろう」
「『貴国には関係ない話だ』とごねられるかもしれませんよ」
過去、実際に使われた言い訳を、ミランダが口に昇らせる。ふん、と鼻を鳴らして、ロードライトは椅子に背中を預けた。
「両国の間で本格的な戦争が始まれば、難民がどれだけこの国に流れてくると思っているんだ。確かにクラルテは周辺の国からそうそう喧嘩を売られるような国じゃない。だけどね、国民の義務を果たさない避難民を大量に受け入れるのはそれなりに痛いんだ。特に西部は農作地帯だ。一昨年の不作によって一番打撃を受けている。そんな状態のところに難民を受け入れてみろ。下手をすれば、治安が南部より悪くなりかねないぞ」
「入会地にはとりあえず入山制限を設けました。山はまだ完全には回復していません。今荒らされてしまえば、回復にさらに時間がかかってしまいます。それに、斥候が送り込まれて潜まれると厄介ですから」
「ああ、構わないよ」
「今日の舞踏会に来る大臣様方にも脅しをかけてくださいますか?」
「分かった。父上に話は?」
「通してあります。ですが国王陛下直々に言われてしまえば、逆に強圧にすぎると反感を買うやもしれません。両国とも、戦争はまだ準備の前段階です。侮られないためにも、国王陛下にお出ましになっていただくのは、最終手段だとお考え下さい」
ロードライトは鷹揚に頷いて、難しい顔をして両腕を組んだ。
「ミランダ」
「はい」
「斥候の数を増やせ。どんな些細な情報でもいい、変化があればすぐに僕か父上に報告を。いいね」
「かしこまりました」
「とりあえずは、議会に支援の打ち切りと、関税の引き上げがありえることを報告しなければね。他にかけられる圧力がないかも、もう少し話し合おう。どれだけ効くかは分からないが、今日の舞踏会である程度感触が分かるはずだ。場合によっては緊急議会を開くこともありえる。通達を」
「はっ」
短く返事をして、ミランダが王子の居室から退出する。その様子を見送ったあとで、ロードライトは喉を逸らして頭を上に向けた。
「……面倒だなあ。お見合いどころじゃなくなったのは助かったけど」
「国王や王子などというものは、所詮国民にかしずかれつつこき使われる、奴隷のようなものですわ。高い税金つぎ込んで育ててるんですから、せいぜい馬車馬のごとくキリキリ働いて下さいませ」
痛烈すぎる物言いに、全くだよとあっさり同意して、ロードライトは四肢をくたりと投げ出した。
「あら、お怒りになりませんの? 明らかに不敬ですのに」
「いやあ、だってまごうことなき事実だし?」
さらりと流して、ロードライトは弱々しく右手を振る。この程度の挑発に乗るほど、彼は短気ではない。それに、挑発しておいて相手の懐の深さを測るのは、彼自身も良く使う手だ。彼女の場合は混ざり気のない本音も混ざっているのだろうが、遠慮がない分小気味がいいとさえ思ってしまう。
「お見合いから逃げられるだけでも、感謝しないとねぇ。交渉は面倒だけど」
「お見合いも王子の義務でございましょ? 『東方の光』とかいう、けったいなお告げもあることですし」
「これだけ面倒ごとが重なってるのに、さらに面倒を背負い込めっていうのかい。今は勘弁してほしいなぁ」
そうですか、と相槌を打ったカレンの方に、ふとロードライトは向き直る。
「カレンは駄目かな。横に居てくれたら面白いと思うんだけど」
「地星宮があるのは王都の西ですわ。わたくしは生まれも育ちも西部でしてよ」
かまかけを相手にせずに、カレンは両腕を組む。
「大司祭位より、発言力があると思うけどね。王妃の位に魅力はない?『東方の光』が、王妃を指すとは限らないだろう?」
権力を得る事を狙っている、下手な家臣の娘を王妃に迎えるよりは、彼女を迎えた方が、よほど面倒ごとは少なくてすむ。相手にするにも退屈しなさそうだ。
あながち冗談でもないつもりだったのだが、カレンはそれを鼻で笑い飛ばした。
「夫を通して、という条件がつきますでしょう。それに、一番思うとおりに組織を動かせるのは、実際に働いているものと結びつきが強い位ですわ。まだるっこしいのは嫌いですの」
これだけ堂々と王子の誘いを一蹴してのける者は、世界広しといえども、この娘くらいだろう。実際、彼女を娶ってしまえば、地星宮の動きの方が鈍くなってしまう。半端に改革が進んでいる状態で、頂点に立つものが入れ替わってしまうのは確かに危険だ。王族を傀儡にすることが出来るだけの力を持ち、その可能性が一番高いのも、実際地星宮なのだ。「お掃除」が終わっていない状況で、表舞台からカレンが消えるのは、あまりよろしいことではない。
「……失礼いたしました」
「まあ、恐れ多いですわ。王族たるもの、無闇に臣下に頭など下げてはいけませんわよ?――それでは、わたくしも舞踏会の準備がございますので」
文句のつけようがないほどに折り目正しく腰を曲げて、カレンも部屋から退出する。神殿章に縫いとめられた鈴が、チリリと涼しげな音を立てるのを耳にしながら、ロードライトは首を回して思い切り伸びをした。
「――まあ、まずは嫁より仕事だな」
『東方の光』は、彼の胸の中ではまだ遠いところにある『お告げ』に過ぎない。いつ現れるかも分からないものを当てに出来るほど、王族というのは呑気な商売ではないのだ。