第一章 黒騎士の秘め事 6
「お役目ご苦労様でした。お部屋を用意させていただきましたわ。本日は地星宮にてお休みくださいませ」
上機嫌な様子でそういい残し、カレンが部屋から退出した。
食えない巫女を見送ると、ミランダは食後のお茶を呑気に楽しんでいる、食べたら食あたりを起こしそうな王子の方に振り返った。
「一緒にお帰りくださいますね?」
「勿論だとも。可愛い妹の仕事振りも確かめられたし、満足だよ」
爽やかなロードライトの笑顔を胡散臭そうに見つめたあとで、ミランダは大きく溜め息をつく。
「臣下に、必要以上になれなれしく接するのはお止めくださいと、あれほど申し上げておりますでしょう。大体、『一の騎士』のことは、一応公式には秘密とされているんですよ」
伯爵より上の位にある貴族ならば普通に知っていることだが、逆に言えば、それ以下の身分のものは、ミランダが王家の血を受け継いでいることさえ知らないということになる。極秘というほどの情報ではないが、かといっておおっぴらに触れ回っていいことでもない。
「ここにいる人間は知っているだろう。カーティスはミランダのお目付け役だし、ジグにも話していると聞いているよ。査問官とカレンは言うまでもないしね」
足を組んで両手を組み合わせ、ロードライトは余裕を崩さずにミランダに向き直る。
しばらく無言でにらみ合ったあとで、折れたのはミランダの方だった。
「……まあ、どうやら殿下の独断だけというわけではなさそうですから、これ以上は言いませんが。もう少し慎重に行動なさってください。御身が国にとってどれほど大事なものか、いい加減にご自覚を……」
「慎重すぎて何も出来ない王子は単なる愚鈍じゃないか」
「軽率に過ぎる者もまた愚者と呼ばれるんです」
即座に切り返して、ミランダは王子に頭を垂れた。軍人らしい規律の正しさは感じさせるが、女性らしい柔らかさとはおよそ縁のない仕草だ。
「お部屋までお送りします。……カーティス」
「いらないって言ってるのに」
「殿下」
ミランダの声のトーンが下がる。ロードライトは肩をすくめて、大人しく椅子から立ち上がった。
「警護は君たちに任せていいのかな」
「はい。……殿下がいらっしゃると分かっていれば、もう少し人数を増やしたのですが」
「わしゃあアホ伯爵の方の警護に回るぞい。ジグとかいうたか、おんしはこっち来い」
今一番襲われる危険が高いのは、犯罪人だが伯爵だ。そのあたりは心得たもので、ジグは王子に一礼してから、査問官について部屋の奥へと消えていく。
片手を挙げてそれを見送ってから、ロードライトは組んだ足を戻して、流れるような動きで立ち上がる。細身だが背も高い方に入るロードライトの横に並べば、ミランダはまだ随分あどけなく見える。
「……お兄ちゃんが一緒に眠ってあげようか?」
冗談半分だということが分かる調子でくすくす笑いながら、ロードライトがミランダにささやきかける。
「殿下」
溜め息混じりのたしなめる声さえ楽しいらしい。笑顔を崩さないまま、ロードライトは冗談だよと付け加えた。
王子を寝室まで送り届け、信の置ける騎士に警護を任せ、夜間の警備を指示する。襲われる確率が高いのは道中だ。ミランダ達もしっかり睡眠をとっておかなければ、不覚を取られる危険がある。それに、ミランダにはまだ雑務が残っている。伯爵が襲われた件については、また別件で書類を作らなくてはいけなかった。
「カーティス」
人気のない回廊に、二人分の足音が響いている。ミランダは、昼間の一件からずっとむすりとした顔をしているカーティスの方見上げてみた。廊下に面した地星宮の中庭は、噴水こそなかったが、人工の池が涼やかな空気を運んできている。
「どうしたの、機嫌悪いね」
足を止めて、ミランダがカーティスの方に向き直る。ただ不思議そうなミランダの顔には、昼間のことを気にしている様子は、微塵も感じられない。
「……いえ、腹が立っているだけですので」
「腹? ああ、昼間のあれ? ちゃんと洗ったし、大丈夫だよ」
頬を指差して、ミランダはこだわりなく笑う。カーティスの口の中に、苦いものが広がった。
「ですが」
(脈石、とは、あまりにも)
大切な者を侮辱されて、怒るなと言う方が無理だ。彼女が王子に向ける忠誠も、年に似合わない大人びた顔も、特別な力を与えられながらも、努力を決して怠ることのない姿勢も、ずっと側にいて見てきているから、なおのこと腹が立つ。
「気にしないの。なんでそういうところにこだわるかなあ。自分のことにはてんで無頓着なくせに」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しいたしますよ。……御身を大切になさらなくてはいけないのは、貴女も同じでしょう」
ふと、カーティスは手を伸ばして、ミランダの頬に触れた。柔らかな肌に、軽く指が沈みこむ。
ミランダの瞳には、警戒心がまるでない。年を重ねて十六になり、彼女の体つきは既に子供のそれから女性らしい柔らかなものへと変わりつつある。
無防備な顔、透き通った茶色の瞳。
背を少しだけかがめる。ミランダの顔の上に、カーティスの顔の影が落ちた。
「ミランダ様」
声をひそめる。ささやきかける吐息が、ミランダの前髪をわずかに揺らす。ミランダはきょとんとしたまま、カーティスの顔を見上げている。
警戒心がないのにも程がある。その気になれば、この距離ならば唇くらい、簡単に奪えてしまうのに。
「……もし、私が」
顔と顔が、さらに近づく。
その時だった。
「ミランダー? どこに居ますのー?」
「はいっあたっ!?」
ぐるりと首を回した瞬間に、カーティスの顎とミランダの側頭部が激突する。ごんという鈍い音と共に視界に火花が飛んで、二人は顎と側頭部を押さえながら、一歩ずつ後ろに下がった。
「うわ、ごめんカーティス、大丈夫!?」
ミランダの頭は俗に言う「石頭」だ。彼女の方はすぐに立ち直ったが、激突された方のカーティスは、身をかがめて顎を押さえたまま、体を痙攣させている。ミランダがおろおろしながら、彼の背に手を回してぽんぽんと叩いた。喉が詰まったわけでも背中が痛いわけでもないのに、そんなことをして何の効果があるのだろう。不思議に思いはしたが、ミランダも何かの効果を期待してやったわけではないのだろうと判断し、カーティスはよろよろと片手を挙げた。
「……だ、大丈夫です」
「ごっ、ごめん、ほんとにごめん!」
「いえ」
「ミラー?」
「はーい! え、えーと、とりあえず、話があるなら後で聞くよ。終わったら、カーティスの部屋に行くから。多分、そんなに遅くならないと思うし……」
カーティスは数瞬動きを止めて沈黙した後で、首を横に振った。
「いえ、結構です。大したことではありませんから」
「そう?」
「はい。カレン様がお待ちです。私は大丈夫ですから、行ってください」
空いた手を振って「行け」と促せば、背中に回された手が離れる。足音と共に、小柄な背が廊下の端に消えたのを確かめてから、カーティスは顔を上げた。大きく息を吐いて、廊下の壁にもたれかかり、前髪をかきあげる。
「……夜中に男の部屋に一人で来ることが、どれだけ危ないかくらい、いい加減自覚していただきたいものなんだけどなぁ。分かってやってるのか、あの人は」
「分かってないだろうね。ミランダはそういう所にはまるで無頓着だから」
横から唐突に聞こえてきた声に、カーティスの顔はさらに不機嫌になる。
「……部屋から出ないで下さいと、申し上げたはずですが? 王子殿下」
柱の影から、王子が姿を現した。寝巻きに着替えていないところを見ると、まだ眠るつもりはないらしい。この世のものではないような印象を受ける端正な容姿は、夜の闇の中にあれば、精霊か何かのような浮世場慣れした感さえある。
少々悪戯好きが過ぎる点を除けば、この王子は主として忠誠を捧げるのに何ら不都合はない。才気も、容姿も、慈悲深さも、冷酷さも。それでもカーティスは、この王子があまり好きではなかった。理由は単純、ミランダが何を置いても彼第一に過ぎるから、面白くないのだ。王子に忠誠を誓うのは、彼女の立場なら当然だ。だが、それがあまりにも一途過ぎて、なんだか納得がいかない。――昼間のあの件がいい例だ。
ロードライト自身は、それを分かった上で面白がってカーティスを観察している節がある。カーティスの不機嫌さを全開にした態度にも気分を害する様子は全く見せず、両腕を組んで、柱にもたれかかってにやりと笑んで見せる。
「妹が無防備すぎるのが心配でね。送り狼に襲われないか、監視させてもらったよ」
「さいですか」
投げやりに言って、カーティスは息をついた。別に、今すぐどうこうしようという気はないのだが。つくづく信用がない。
「……カーティス・バーナード。君は確かにミランダが思いつめすぎないように彼女を見守る『お目付け役』の任をまかされているけどね。さっきのあれは、従者の分を超えているとは思わないか」
「思いますよ」
即答しても、王子は微塵も動揺しない。先を促す空気を感じ取って、カーティスはさらにむっとしながらも、言葉を続けた。
「……仕方がないじゃないですか。あの方は私の忠誠を決して受け取ろうとはなさらないんですから。『近衛騎士の忠誠は、全て国王もしくは王子の下にあるべきだ』とかたくなに主張されて。ミランダ様が女性だったことに感謝しますよ。騎士は愛する女性にもまた、忠誠を捧げることが許されているんですから」
「落とす気でいるわけだ」
「ええ。分不相応だと言われようと、諦める気はありません」
きっぱり言い放って、カーティスはミランダの「兄」の表情を伺った。その目には相変わらず、面白がるような色しか見て取ることができない。
二人の間の距離はわずかに遠い。灯の光は頼りなく、細かな表情までは見て取ることが出来ない。それでも。
「不快ではないんですか。妹を落とす気だと断言した男が、目の前にいるのに」
ロードライトは確かにミランダを特に気にかけているように見える。それでもその態度が何となく信用できない、と思ってしまうのは、こういう時だ。あれほどの忠誠を捧げられていながら、恐らく、この王子はその気になれば、ミランダをあっさり切り捨てるに違いない。それは、多分ミランダ自身も望んでいることで、国を治めるものとしては正しいのだろうけど、それでも。
「いやあ。だってねえ」
ロードライトは耐え切れないようにふきだして、頭をこつんと柱につけた。
「ミランダはこういう方面には鈍いし。今現在、カーティスはアウトオブ眼中だろう? 僕が邪魔するのは、もうちょっと段階が進んでからでも遅くはないさ」
状況を冷静に分析した上で、邪魔してやると断言したロードライトに、カーティスは一瞬だけ、本気で殺意を抱きたくなった。