第一章 黒騎士の秘め事 5
「ようこそおいでくださいました」
迎えに出てきたダリアス伯爵――アドル・ダリアスの様子に、ミランダ達は意識しないうちに眉をしかめた。
贅肉のついた体。恰幅がいい、という表現さえ世辞になるのではないかというほど、その体の線は醜く崩れきっている。それまでどんな生活を送っていたかが、それだけで知れるというものだ。
部屋に置かれている調度品の数々は、質はたしかにいいものなのだろうが、調和がまるで取れていない。高いものをとにかく並べてみましたと言わんばかりの部屋の中は、秩序とはまるで無縁で、一歩間違えれば単なる高級品を仕舞っておく物置ではないかとさえ思えてくる。
「問題の書類はこちらに用意してあります。いや、全くお恥ずかしい限りです。管理が行き届かず……」
言いながら提出された書類を、老眼鏡をかけたマグダレクが受け取ってぺらぺらとめくっていく。老眼のせいか、時折腕を伸ばしたり縮めたりしては、目を細めている。
(――でも、あれ)
ふと、カーティスはおかしなことに気づいた。マグダレク査問官は、ここに来る前にカレンからも書類を渡され、それに目を通していた。その時には腕は若い人間と同じように適度に曲げられ、老眼鏡もかけていなかったように思うのだが。
ついで、どこかおどおどと落ち着かない様子で査問官の様子を伺っているダリアス伯爵に目をやって、カーティスはその服が微妙に乱れているのに気づいた。
(手入れがされていない……?)
微妙に皺の寄ったシャツ、上着とズボンはわずかに型が崩れている。それに。
「……失礼ですが、ダリアス伯爵」
「はっ、はいっ!?」
ハンカチで汗を拭きながら、半分ひっくり返った声で、ダリアスが返事をよこす。これが本当に「古狸」と呼ばれるほど巧妙に追及の手から逃れ続けた貴族なのか。疑いたくなるような気持ちになりながら、カーティスは疑問を口に出した。
「少し、お痩せになりましたか?」
ジグが視線だけで、「アレのどこが痩せてるように見えるんだ」と言っているのが分かる。同時にミランダの視線もちらりとカーティスの方に走った。そちらは「分かる?」と言わんばかりのものだったので、カーティスは自分の考えが間違っていないことを確信した。
確かにダリアスの体の線は、「中年だから」という言い訳が通らないほど無残に崩れてしまっている。
だが、顔色が悪く、わずかに頬がこけている。ここ数日は食事がろくに喉を通っていないのでは――という印象を受けたのだが、間違ってはいなかったらしい。
(堤が崩壊し、原因の追究が始まったのは二月前だ。そのころからこういう状況になっているのならば、逆にこの程度で済んでいるのはおかしい)
数日の間に何かがあったのだろうか。何か、事態を急変させるような――。
国王の査察が入ることは、ある程度予測がついた上でカモフラージュは完璧だと思い込んでいる――、と、カレンは言っていた。ならばこの不意打ち査察が原因ではないだろう。
質問を投げかけられたダリアス伯爵の方は、それが単純に自分の体調を尋ねるものだったことに安堵したのだろう。一気に全身の力を抜いて、「ええ」と頷いた。
「数日前から風邪気味でしてな。食事があまり喉を通らんのです」
「それはいけませんね。あまりご無理はなさらないよう」
「ええ、全くです。季節の変わり目はいけませんな。……ゴホッ、ゴホ」
さっきまで咳の「せ」の字も見せなかった伯爵の、わざとらしい咳き込み方にはあえて突っ込まず、カーティスは査問官の方に向き直った。
一通り目を通し、ぺらぺらと改めて枚数を確認した所で、マグダレクは眼鏡を外す。脇に控えていた侍女が、眼鏡を受け取って背後に下がった。
「ふーむ。あれか。鉱山を開発したことによって木々が減少、それによって山の保水性そのものが悪くなり、責任者がわずかに手を抜いた堤はそれに耐えられなかったようだ――と。ま、お主の監督が甘かったのが原因でもあるじゃろが」
「言葉もありませんな。責任者はすでに処罰も済んでおります。あとは私に然るべき罪を与えていただければ」
本当に、「鉱山の開発」が原因ならば、報告を受けた時点で国が軌道修正を行うべきだったのだ――という本音が、言外ににじみ出ている。国のほうに過失があるのならば、ダリアス伯爵へのお咎めは、せいぜい城内での一年程度の謹慎だろう。それを期待しているのだろうか。
「時におんし、この報告書によもや嘘は紛れておらんじゃろな? 虚偽の報告書を作成した場合、公文書の偽造罪が適用されるぞい」
文書をひらひらさせながらマグダレク査問官が口にした言葉に、ダリアス伯の眉が、不審げにひそめられる。わずかに不快そうな色さえ、その瞳には浮かんでいた。
「何の益があって、そんなことをする必要があるとおっしゃいますか? まさか、不正を疑っておいでで?」
「例えば――そうじゃの、この首飾りに見覚えはないかの」
ごそごそとマグダレクが胸元から取り出したのは、今流行の流線型のスズランのモチーフがあしらわれた、水晶の首飾りだ。繊細なカットによって氷の華のように見えるそれは、それ一つで小さな村が一年は暮らすことが出来るほどの価値を持っている。
ダリアス伯爵の肉に埋もれてしまいそうなほどに小さな目が、大きく見開かれた。
「おんしが受注したもんじゃの。ほ。領民が苦しんどる時に、こんなもん買う余裕があるとは結構なことじゃー」
「……それは」
「テラノードの関で抑えたもんじゃ。経路をたどっていくと……」
ぱちん、とマグダレクが指を鳴らすと、客間の扉が開かれる。そこにずらりと並んだ「経路」の途中にいた人間達に、ダリアス伯爵の顔色が変わる。
「おんしにたどり着く。その資金源が堤の工事のために国から支給されたもんだという証拠も抑えとる。同じようにして宝飾品に変えて、関所を通そうとしたもんがひのふのみの……わかっとるだけでも三十じゃ。これだけの総額でも国の支給費の一割。監督不行き届きにしちゃー、ちこっと規模が大きすぎやせんかの? しかもこりゃ、ここ二月の記録じゃぞ?」
「こちらが国側で堤の設計に携わった技術者の見積もりです。堤は元々、鉱山の開発が始まった事を見越して、余裕を持って設計されています。今年は雨も比較的少なかった。鉱山の開発で山の保水が悪くなったとはいえ、あの程度で崩壊することはまずないとの見解が出ています」
ミランダが査問官の横に進み出て、国側で用意した書類の束を報告書の上に重ねる。
ダリアスの顔色が、刻一刻と変わり、化けの皮がはがれていく様子を、カーティスは見世物の猿でも見るような心地で眺めた。
「で、これがトドメじゃな」
ぽいっと投げ出された書類には、地星宮の神殿章が捺印されている。
「地星宮側には、こちらで用意した書類で相違はないと、確認を」
あえぐように言われた言葉を、マグダレク査問官は
「あーほかー」
と一蹴した。
「そら一月前に『病で倒れた』神殿長の確認じゃー。今の責任者はすげかわっとる。そっちに確認を取らんと、意味があるわけなかろーがー」
「し、失礼ながら、臨時でいらした神殿長はまだ随分お若く、工事の概要についてもろくに理解していらっしゃらないようですが、そのような方に確認をお願いしろと」
「心配せんでもええ、カレンちゃんは首都の方でそもそも堤の設計にかかわっとる。工事についちゃ、設計士の次くらいに把握しとーる。こんな時期にんなドシロートを代理にすげるわけがなかろーが。ほ。ついでに『病で倒れた』神殿長は、今首都におって、おんしから賄賂をもらっとったことをだらだら吐いとるがの」
お前の仲間は更迭済みなのだと聞かされて、ダリアス伯爵の顔が、青から白に変わった。
「おんしが『小娘』と遠まわしに言いおった小娘な、フルネームはカレン・オゥ・カルセドニーというんじゃが」
ぶよぶよとした肉の中に埋もれかけていた目が、飛び出さんばかりに見開かれた。脂汗がダリアスの額に浮き、厚い唇がわなわなと震え出す。
「……それは、現大司祭の……!」
「一人娘で次期大司祭最有力候補じゃの。「オゥ」は、大司祭の家系のみに許されとる尊称だということくらいは、おんしも知っとろー? ちなみに国王陛下及び王子殿下からの信頼の厚さは、ここで数十年甘い汁を吸っとっただけの、寄生虫並のダリアス領の地星宮神殿長よりずーっと上じゃぞ。さて」
マグダレクの白い眉毛の下から、ぎろりと剣呑な光を孕んだ瞳が姿を現した。
「公金横領及び領地の治安維持の故意による放棄、さらに税金の不法搾取。はたけばまだまだ余罪はあるっぽいが、それは証拠が揃っとる法廷できりきり吐いてもらおうかの。じき正式な騎士団がおんしをひっとらえに来る。なんか文句があれば聞いとくから、カレンちゃん作成の『ほんまもんの』書類に目ぇでも通しとけ」
クク、と人のものとは思えない笑い声が聞こえた。
ミランダが剣の柄に手をかけ、マグダレクの前に進み出る。
「……なるほど、お見通しというわけだ」
「外に待機させている二十人ほどの武装した方々、下がらせていただければ助かるのですが」
落ち着き払った様子で言われた言葉に、カーティスとジグは顔を見合わせた。
「あー、やっぱ居ましたかー」
「三流ですね。ここで私達の口を封じても、カレン殿は他の証人もきっちり押さえていらっしゃいますし、公文書も全て控えがあるのに」
緊張感のまるでないやり取りに、ダリアスは血走った目を限界まで見開いて、口から泡を飛ばした。
「ふん、どうせ首都に行けば罪状は全て暴かれるだろうさ。お前たちを道連れにここで果てた方がいくらかましだ! 少なくともここにいる証人は消せるしな!」
「……お聞きになりましたか査問官」
「ばーっちり。ミラちゃんはー?」
「はい、聞きました。まあ、伯爵は秘密を胸に抱えたまま死ぬなんて殊勝な柄じゃなさそうですし、どさくさに紛れて逃げるつもりなんですかね?」
「多分なー」
にこやかに微笑みながら、ミランダは剣をするりと抜いた。戦闘前の構えに持ち込むことなく、柄の下にはめ込まれた宝石を、ダリアス伯爵に見せ付けるように掲げてみせる。
「……な……!」
「私の忠誠は現国王ではなく、第一王子、ロードライト・シン・レーベン・クラルテ様の下にあります。意味はお分かりですね?」
王の即位前に、王位継承者である王子が従えることが出来る騎士は限られている。
クラルテの王家は血筋が少々特殊で、王位継承権は国王の第一子にしか認められていない。第二子以降の子供は、第一王子に忠誠をささげ、その懐刀の筆頭となるべく定められているのだ。王位継承権を与えられず、一生王族とあかされることもない代わりに、彼らに授けられているのは、王を護るための突出した才能と、王からの絶対の信頼だ。表向き「一の騎士」と呼ばれる第二子以降の兄弟は、第一王位継承者の即位前に彼もしくは彼女に忠誠を誓える、唯一の存在だ。
開祖ダリア女王は、クラルテの神の祝福と引き換えに、自らの血族にそういう呪いをかけた。
ミランダの剣にはめ込まれているのは、ファセットカットのロードライト・ガーネット。赤紫色に輝くその貴石は、他の騎士達が今剣に戴いているダイオプサイトの黒とは違い、光をはじいてきらきらと色を変える。
「一の騎士に何かあれば、王子は独断で軍を動かせます。まあ、本当にここに書いてあること「だけ」ならば、せいぜいが爵位の剥奪程度だと思っていましたが、どうやらさらに余罪がありそうですね。それこそ、斬首も免れないほどの。……さて、反逆者として拷問にかけられるか、ここで大人しく裁きを待つか。どちらを選ばれますか?」
ミランダの剣が、すっと地面と平行に倒される。延長線上にあるのは、ダリアス伯爵の首だ。
伯爵の青ざめた顔が、奇妙に歪んだ。
ぷっ、と頬に吐きかけられたものに、ミランダがぴくりと眉を動かす。
「脈石が。飼いならされた犬風情が、偉そうな口をきくな!!」
「なにを……!!」
激昂したのは、言葉を投げつけられた当人ではなく、背後で控えていたカーティスだった。
「脈石」とは、価値のまるでない、クズ石をさす言葉だ。鉱石を重要視するこの国では、人を「脈石」扱いすることは、ひどい侮辱になる。この場合は無論、「貴石」であるロードライトに仕える、「影」の存在であるミランダを侮辱する言葉になる。
剣を抜いて切りかかろうと、カーティスが踏み出した所で、ミランダの鋭い制止が飛んだ。
「止めよ!」
今にも斬りかからんばかりの勢いのまま、カーティスは動きを止める。
視線をダリアス伯爵に固定したまま、ミランダはすぐにいつもの口調に戻った。
「……挑発に乗らないの。まだ吐いてもらわないといけない情報があるんだから、ダリアス伯に死なれちゃ困るんだよ?」
「随分冷静だな。お前には誇りがないのか? 一の騎士でありながら」
「殿下のためになるのであれば、私の矜持はいつでも折れるんですよ。例えば『殿下をお救いしたいのなら、ひざまづいて地面を嘗めろ』と言われたら、私は喜んでそうしますよ?」
あっさり言い切って、頬に飛ばされた唾液をぬぐうこともせず、ミランダはさらに優雅に微笑む。これをどうにかするために、今腕を不用意に動かせば隙が生じる。
「……ついでに」
光の線が走る。手刀でそれを叩き落としてから、ミランダはダリアスに一足飛びに近づき、その頭を抱えて引き倒した。先ほどまでダリアス伯爵が居た位置に、ビィンと音を立てて、矢が突き立った。
「証人を避難させて!」
鋭い怒号と同時に、連れてこられた証人達を、王子が引き連れてきた兵士達が取り囲む。
「ひっ」
潰されたカエルのような声を出して、ダリアスが地面に突き立った矢を凝視している。残された二人の騎士が、咄嗟に剣を抜く。だが。
「査問官!」
「動くな。ご老体の首が飛ぶぞ」
黒い衣装に、黒い覆面。くぐもった低い男の声で、あたりの動きは凍りついた。黒い影がいくつも部屋の中に降り立つ。
マグダレク査問官を後ろから羽交い絞めにし、首筋に剣を当てている男が、覆面から瞳だけをギロリと覗かせた。
「お、お前たち……ッ」
「騎士殿。査問官の解放と引き換えです。そこで無様に倒れている男を殺しなさい」
覆面の男とにらみ合ったまま、ミランダが動きを止める。男の方に向いていた剣の切っ先が、わずかに揺れた。
「雇い主を裏切りますか」
「さらに金を詰まれているのでね」
ダリアス伯爵の顔が、恐怖に歪んだ。
「いっ、いやだ、死にたくない!! 助けてくれ!」
背後で上がる情けない涙声にも表情ひとつ動かすことなく、ミランダは男とにらみ合いを続ける。
「私はそれほど気が長くない。あと、十数えるうちに、です。――おっと、背後のお二人も、妙な動きはなさいませんように。心配は要りません。そこにいる男さえ殺していただければ、私達は退きますので」
よほど驚いたのか、査問官は凍りついたように動かない。カーティスとジグも動くことができない。
ぴんと張り詰めた危うい緊張感が、部屋に満ちた。
「――十」
「だ、そうですが。査問官」
むしろ面白がるようなミランダの声に、男のカウントが止まった。
「何を……」
「んむ。嘗めとるな」
人質にとったはずの老人の、思いも寄らない呑気な声に、男はわずかに戸惑うような様子を見せる。それでも一応その道に通じてはいるのか、査問官の喉元に突きつけられた短剣は少しもぶれなかった。少しでも査問官が身動きをすれば、銀色の刃はたちまち血に染まることは、誰の目から見ても明らかだ。
だが、次の瞬間。
「ほいっと」
軽い掛け声と共に、老人を羽交い絞めにしていた男が、向かいの壁に衝突した。
「いっ!?」
「あー。ちょろい。なっとらん。これで職業暗殺者とか言われたら、鼻で笑うぞーい」
「て、え、査問官!?」
現状について行けていないのは、敵も味方も同じだ。ぱんぱんと手をはたきながら、マグダレク査問官は、横に転がって落ちた杖を持ち上げた。取っ手を持って引っ張れば、中から刃物の銀が現れる。
「「仕込み杖!?」」
カーティスとジグが、異口同音に叫んだ。なんで文官がそんな物騒なものを。
「現役は退いたがの。わしゃまだ、『ただの騎士』には不敗じゃあー」
査問官は、ぶんぶんと心なしか嬉しそうに仕込み杖を振り回している。
緊張感の欠けた様子で、ミランダが小首を傾げた。
「あれ、言ってなかったっけ。ロイド・マグダレク査問官は、先代の王の一の騎士でいらっしゃるよ」
先代の王の一の騎士。
と、いうことは。
「えーと、じゃあ、並外れて強かったり……?」
「じゃなきゃこんな危ない所に派遣するわけなかろうが。ふんっ」
ぶん、と振られた剣の圧力で、近場にあった椅子が粉砕される。ただの騎士では起こりえないその現象に、ジグとカーティスは顔を見合わせた。
「さーて、若造二人。ミラちゃんはそこの犬以下のアホゥを護らにゃならん。んで、こういう連中はの、生きて捕らえても絶対に情報は吐かん。逃がすと厄介じゃあー」
マグダレク査問官の周りの空気が、ビリリと震えて一変する。どこかボケていた声のトーンが、ガラリと低くなった。
「残さず仕留めろ」
戦場で命令を下してきたことが分かる、よく通る声だ。余計な事を考えるより先に、相手の体を反応させてしまうそれは、確かに武に長じた人間のものだった。
騎士団の若手の中でも一、二を争う腕の持ち主達は、迷うことなく剣を鞘から抜き放った。