番外編 花に薬と休息を1
カレンとジグのお話です。ジグの生い立ち諸々。
花街、とひとくくりにされる界隈にも、それなりの格の違いや序列というものがある。
一番格が上なのは、首都にある国営の娼館だ。
ここに勤める娼婦たちは、外見はもちろん、教養や立ち居振る舞いにおいても、宮廷にあがる貴婦人たちに何ら劣るところはない。客の方にも、財力だけでなく、それなりの品位を求められる。
実際、ここから貴族に身請けされる女たちは、その後宮廷のサロンにもぐりこみ、華やかな世界を一手に取り仕切ることも少なくなかった。立場は妾で終わることがほとんどだ。しかし、国で一番の女たちの中で生き抜いてきた娼婦達は、自分の武器の使い方を良く心得ている。
平民の女性が、貴族の世界にもぐりこむ、ほとんど唯一と言っていい門が、国営の娼館に入ることなのだ。
華やかな世界だと言われるが――。
実情は決してそうではないことを、ジグはよく知っていた。
国営の娼館のある一角から、喧騒のかけらが流れてくる。月はそろそろ中天に差し掛かろうかという頃だ。もうしばらくすれば、泊まりでない客はひきあげていく。
花街の夜は長い。男に夢と快楽と、わずかばかりの毒を与える街は、闇の中にあって初めて華やぐ。
日の光の下では、妙に疲れた風情の建物ばかりが並ぶ街だ。興ざめな現実を見たくないのか、それとも懐が夢から覚めるまでの時間、ここに滞在することを許さないのか。この街で朝を迎える男は、さほど多くはない。
「泊まるの?」
「んあ? ああ」
酒盃に注がれているのは、安物の酒だ。それを喉に流し込んで、ジグは寝台にどかりと腰を下ろした。
質のいいものではないが、この手触りは絹製のシーツだろう。眉をひそめ、ジグは寝台にしどけなく寝そべっている、若い女を見上げた。
体の形をあらわにする薄い衣、それに描き出される緩やかな曲線。むっと鼻をつくほど濃厚な匂いは、ランプに注がれている香油か、それとも香水か。
「なあ、お前……」
飾られている花を手にとって、ジグは女を見上げた。嫣然と微笑むその顔の奥に、疲れが見える。戯れにむき出しになっている女の腕に手をかけて、ジグはその手をすぐに離した。
「どうしたのぉ、景気の悪い顔しちゃって。泊まるんだったらこんなにのんびりしているのもうなずけるけどさ、あんたさっきからお酒ばっかり飲んでるじゃない。ここが何するとこだか、お忘れなのかしら」
くすくすという笑い混じりの声。肩から腰にかけて流れる、糸くずのような髪を眺めてから、ジグは女の体の上に毛布をかけてやった。
「ちょっと、何……」
一向に触れてこないばかりか、まるで子供をあやす父親のように、男は自分を寝かしつけてくる。女は抗議の声を上げた。
「……寝てろ」
馬鹿にしてるの、と女が頬を染めて眉を跳ね上げる。それに構うことなく、ジグは女の手に幾ばくかの金を握らせた。
「あんた」
「……贅沢品を買っている暇があるなら、薬のひとつも買って養生しろ。見栄ばかり張っていると、遠からず港か南部に売り飛ばされる羽目になるぞ」
絶句した女に頓着せずに、ジグは寝台から腰を上げた。
「どこいくの」
「便所」
短く答えて、ジグは部屋を後にした。
今ジグがいるような、いわゆる二流、三流の娼館は、国に税金とは別に金を納めて認可を受けているだけで、宿を経営しているのはごく普通の宿主だ。女も、部屋も、値段相応。華やかな世界にあこがれて身を売る女の大半は、こういう宿に落ち着く。現実などそんなものだ。
騎士の給金は、国営の娼館に入り浸るには少し辛い。たまに通う程度なら問題ない。しかし、高い金を払ってまでいたい場所かと問われれば、ジグは否、と答えるだろう。格式ばったやりとりも、優雅な噂話も、ジグの趣味には合わない。
どこからか、すえたような臭いがただよってくる。ふん、と鼻を鳴らして、ジグは鉄格子がはまった窓の外を見た。
粗末な飾り細工こそ施されているものの、国が目をかけている一流の娼館とは雲泥の差だ。ここで生計を立てている女達は、主人の許しがなくては外出さえもままならない。
「夢を売る場所も、裏側から見れば檻になる、か」
臭いを打ち消すために焚かれているのであろう、香油の匂い。安物のその匂いはきつい。慣れない者は頭痛がしてもおかしくないのだが、それを気にする男も、そう多くはあるまい。
閉め忘れたのであろう扉の隙間から、暖色の光が漏れ出している。高い嬌声に追われるようにしながら、ジグは建物の端に背を丸めて歩いていった。
「よほど下手な客らしいなあ。もろに演技じゃねえか」
何気なくつぶやき、頭を意味もなくかきまわしたジグの背を、ぽん、と叩く感触があった。
「!?」
飛び上がらんばかりに驚いて、ジグは後ろを振り返った。自分よりかなり低い位置にある頭を見つけると、跳ね上がった心臓は静まるどころかひっくり返りかけた。
「な」
叫びそうになったジグの口を、白い小さな手がふさぐ。空いた手を唇に当て、静かに、という動作をしてみせる女性を、ジグは大きく目を見開いて見下ろした。
「……こんなところでお会いするなんて、奇遇ですわねえ」
彼女の口から飛び出したのは、このような粗末な宿にはふさわしくない、完璧な敬語だった。まとう奉仕服はごく粗末なもので、洗われて清潔ではあるものの、神殿章の縫い取りさえない。
大声を出しませんわね、と確認され、ジグはこくこくと首を上下に振った。よし、と頷いて、女性はジグの口から手を外す。目を何度もこすり、弱い明かりに縁取られた輪郭をたしかめて、ジグは口を金魚のようにぱくぱくと動かした。
「カレン、様……?」
地星宮の若き主が、どうしてこんな所に。言葉はなかなか出てこなかったが、ジグの言いたいことにすぐ察しがついたのだろう。カレンは難しい顔をして、両腕を組んで見せた。
「少々事情がございましてね。娼婦として来たわけではありませんわよ」
「そりゃ見れば分かります。医者でしょう。……モグリっぽいですけど」
神殿章の縫い取りがない奉仕服。よく見ればその形は本来の「奉仕服」とは違っている。間近で彼女達を見る機会があるジグは、その違いを夜闇の中でも見逃さなかった。
「なんでこんな所に」
尋ねると、カレンはにこりと笑って、小さく肩をすくめた。
「見なかったことにしてくださいませ」
「はあ」
「ここにいるのは『もぐりの医者』ですわ。よろしいですわね。ついでに今から言うことも空耳だと思って聞き流してくださいませね?」
ジグの腕を引っ張って、便所の方に歩き出しながら、カレンは小さく息を吐いた。
「二の間にいる――今日あなたが『買った』女性ですけれど」
廊下には人気がない。それでも周囲を気遣いながら、カレンはジグのほうに身を寄せた。罪悪感と緊張がないまざった変な気持ちになりながら、ジグは神妙に彼女の半歩後ろをついていく。
「……既に『お世話していただいた』のでしたら、二週間以上経った後で、どこかの診療所で検査をお受けなさい」
「……」
ぽつんと落とされた言葉には、気負う様子はなかった。しかし、それが却って事態の重さを知らしめていた。
「やっぱりですか」
「本来なら忠告する義理ではありませんけれどね……って、分かってたんですの」
「まあ。ご親切に、どうも。買いましたけど、手はつけてませんよ」
カレンが足を止めて、ジグのほうを振り返った。こういう場所で、曲がりなりにも大司祭の名を持つ乙女に見つめられるのは、後ろめたくてたまらない。
「けれどお泊まりにはなられるんですのよね?」
意図が分からん、とカレンの顔には書いてある。ええと、と逡巡した末に、ジグは眉を八の字にした。
「ここで理由を口にするのは、気が進みません。場合によっちゃ、女が、その」
追い出されちまう、という言葉は飲み込んだが、カレンには伝わったようだった。心得た様子で頷くと、カレンはジグから体を離した。
それでは、と一礼を残して、娼館の入り口へと消えていく大司祭を、ジグは困惑しながら見送った。
結局女には手をつけないまま、ジグは娼館を後にした。釈然としないものが胸の中にわだかまったままだ。このまま仕事に戻るのもすっきりしない。
朝もやの中で、街は既に白けた様相を呈している。ジグは迷った末に、足を花街の一角に向けた。
花街の外れに、小さな保養所を兼ねた診療所がある。ジグはそこに顔を出した。
クラルテは他の近隣諸国に比べれば、医術は発達している方に入る。鉱石の大半に宿っているのは、文字通りの『薬効』なのだ。当然といえば当然だろう。
神殿と結びつきの強い職業は、この国ではとりわけ重要視される。
こざっぱりとした建物は、毒々しいきつい色で飾り立てられた花街の建物とは一線を画していた。ツタと燕の意匠の紋が、両門に刻まれている。風星宮以外にこの紋が刻まれるのは、正式な認可を受けた診療所だけだ。
花街の一角に設けられた建物。それが何のための診療所かは、聞かれずとも明らかだ。
顔なじみの世話役に挨拶をして、狭い廊下をそろそろと歩く。ここの空気は乾いていて清潔だ。薬草が焚かれるような一種独特の匂いはしているが、それは甘さとも毒々しさとも縁がない類のものだ。
建物の奥にたどり着くと、ジグは扉が開け放してある診療室をのぞきこんだ。
「爺さん、いるか?」
返事はなかったが、彼の視界には細い枝のような手足をした、色の黒い老人の姿がしっかり入った。
「患者の受付は、まだ始まっておらんが」
低い声は、およそ衰えというものとは無縁だった。老人は難しい顔をしている。紫色の粉が天秤の上にさらさら落とされ、両の皿がゆらゆらと揺れた。
「……今日は悪いところがあって来たわけじゃねえんだ」
「ふん」
老人はぎょろりと目を動かし、ジグを横目でにらんだ。なんとなくひるんで、ジグはその場から一歩下がる。
「坊主、用事は」
「……ええと」
考えてみれば、もぐりの医者のことを、正規の医者が正確に把握しているはずもない。それでもここに来たのは、他ならぬカレンが藪医者に扮して二流宿に潜り込んでいたからだ。目的こそ分からなかったが、おそらくどこかの神殿の息がかかった施設から来たのだろうと踏んだ。だから一番最初に思いついたところ、つまりこの病院に足を伸ばしたのだが……。
考えてみれば、「地星宮の大司祭が藪医者に扮してたんですが、あんた理由知りませんか」と正面切って問えるはずもない。もしこの医者が全く関係なかったとしたら、大騒ぎになるのは目に見えている。
言葉に詰まったジグに興味をなくしたように、老人は天秤に向き直った。
「酒の量を減らしておらんな」
「うっ」
「その年で肝臓が衰弱死しかけとるぞ。飲めなくなってもいいなら止めんが、少しは養生というもんを覚えんか」
「すんません」
背を縮めて、ジグは軽く体を傾けた。医者の言うことは分かるのだが、そうでもしなければ間が持たなかったのだ。
「本当にお酒を飲むだけで終わったんですの? でしたら普通の酒屋で飲めば、倍近い量が飲めたでしょうに」
涼やかな声が老人が座っている場所の奥、立てかけてあったついたての向こうから聞こえてきた。ジグはぎくりと体を硬直させた。
「あ」
「ご迷惑おかけしました先生。彼はおそらく、わたくしの客人でしょう。……ですわね?」
まず見えたのは、ついたてにかけられた指先だった。
白い服を着た女性が後ろから出てくる。質素な木綿で出来た奉仕服――今度は地星宮の神殿章が縫い取られた、正規の神官や巫女が羽織る奉仕服だ――に、くすんだ色の頭巾。肩のところで揃えられているつややかな黒髪が、彼女の動きに合わせてさらりと揺れる。
カレンがにこりと微笑んで同意を求めてくる。首をぎこちなく動かして、ジグは彼女の言葉を肯定した。
「客人? お前さん、この坊主と知り合いなのか」
「この方は近衛騎士ですから。……何度かお会いする機会がございましたの。昨夜、うっかりはちあわせてしまいまして」
口元に手をやって、ころころとカレンが声をたてる。老人は得心がいった様子で頷き、立ち上がってカレンに道を譲った。
カレンの腕には、今身につけているものよりさらに粗末な布がかかっている。昨日身につけていた服だろう。
「丁度いいですわ。よろしければ神殿まで送ってくださいな」
口を挟む間もなくお願いされる。ジグは困惑を隠さないまま、それを承諾した。




