第八章 守護者の約定 3
「――驚き、ましたね……」
彼女が身にまとっていたドレスは、鍵裂きが出来、血の赤でまだらに染まっていた。だが、血にまみれた剣を手にし、凄惨としか言いようのない姿になっているミランダの方が美しい、とマイルズは感じた。
細身の、一振りの剣。それだけで、二十人はくだらなかったはずの「同士」達を、ミランダは一人残らず切り伏せていた。血にまみれ、柄に巻かれた布の滑り止めが血を吸い込んでも尚、刀身だけはぎらぎらと輝いている。
はぁ、と肩で息をして、ミランダは目に入ってきた返り血を、ぐっと袖でぬぐった。
「……独断での暴走は、騎士にも、王の懐刀にも絶対に許されない……越権行為だ。城に戻れば、私もすぐに死を賜るだろうよ。私一人の暴走だと言われれば、ここで東照の人間を殺してしまっても、東照との関係が完全にこじれてしまうこともないはずだ。私一人の命で、問題の大部分は解決する」
「最初から、そのつもりでいらっしゃったのですか」
「覚えておいても、もうすぐ無駄な過去の知識になるだろうが。一の騎士には、毒の類は一切効かない。食事に仕込まれていたしびれ薬も、意識を混濁させていく、強い麻薬も……全くの徒労に終わっていたわけだな」
血が体から抜けているせいだろうか。マイルズは全身がひどく重く、冷たくなっているのを感じた。
変革のゆがみにはじき出された貴族達を、正統性というもっともらしい毒で誘い出し仲間に引き込んだ。もちろん、無駄に終わる可能性の方が圧倒的に高い賭けだった。
それでも、勝算はあると、マイルズは読んだ。
あの異国の姫君に、一の騎士もまた、はじき出されたように見えたから。彼女もあの愚かな貴族達と同じだと。囁きさえすればきっと、こちらに引き込むことが出来ると。
旗を得て、隙を上手くつくことが出来れば――あるいは。そう思ったのだったが。
「守護者の思考を、私は読み違えてしまったのですね」
マイルズはひどく穏やかな心地になっていた。全身を血で染め上げた天使に見送られるのは、ただ幽閉され、いつしか老いやつれてひっそりと死ぬよりも、よほど自分にふさわしい気がした。
貴石を害する旗として利用されるくらいなら、自ら罪をおかし、出来る限りの悪意を道連れにして死を選ぶ――。
何が、この少女をここまで突き動かすのだろう。
透き通った茶色の瞳に宿った意志の強さ。狂気と紙一重の位置にあるのではないかとさえ思えるその色の向こうに、マイルズはかつて王が見初めたという、父の想い人を重ねた。全てを投げ打ち、馬鹿な事をして、自分の、母の未来を奪った男。彼がそうせずにいられなかった理由の一端を、初めて垣間見た気がした。
銀色の光が、振り上げられるのが見えた。マイルズは目を閉じ、静かにその瞬間を待った。
爆風が二人を包んだのはその時だった。砂礫とも瓦礫ともつかないものが、凄まじい勢いで上空に吹き飛ばされていく。
「やりすぎです、命!」
男の絶叫が聞こえてきて、マイルズは意識を無理矢理引き戻された。
まず、空にぽっかりと浮かぶ月が見えた。
ここは地下室のはずなのに、何故、夜空が見えているのだろう。
「安心しろ。生き物の気配がしたところは破壊していない」
「そういう問題ではありません!! 一体、いつになったら加減というものを覚えてくださるんです!! ……三年前から少しも進歩していらっしゃらないではありませんか!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ声が耳につく。ミランダが剣の先を床につけて呆然としているのを、マイルズは何故だか気の毒だと思った。再び遠くなりつつある意識の中でも、その男と女性の声が非常に場違いで緊張感に欠けるものだということは、さすがに分かったからだ。
「ミランダ様!?」
若い男の声に、ミランダがびくりと肩を揺らした。
かつて壁だったものの端から、男が顔を覗かせた。
血の海と化した部屋の中で、剣を持ってたたずんでいるミランダを認め、男はさすがにひるんだようだった。大きく目を見開いて、口を覆って数歩後ろに下がり、短いうめき声を上げた。
男の反応を見た途端に、へらり、とミランダが笑った。
「……カーティスが、殺してくれるなら。嬉しい……かな」
彼女の両手から、剣が落ちた。血にまみれた銀色の光が軌跡を描きながら闇の中に静かに横たわるのを、マイルズは無意識に目の端で追った。血にまみれ、ロードライト・ガーネットの赤が、ひどく禍々しいものに見えた。
それを手放してしまった少女は、随分儚げに見える。今にも砕けて消えてしまいそうな様子に、マイルズの指先が、ぴくりと動いた。
「……馬鹿な事を、おっしゃらないで下さい!!」
一度ひるんで後ろに下がった男は、ミランダの言葉に血の海に対する恐怖以上の怒りを覚えたらしい。ためらうことなくミランダのいる場所まで飛び込むと、血だまりに膝と両手をついた。そのまま一足飛びにミランダの元に駆け寄ると、男はそのまま彼女を頭から抱え込む。抵抗を忘れてしまった人形のように、ミランダはくたりと男の腕の中におさまっている。虚ろな目が、大きく見開かれていることだけが、彼女の驚きを外の世界に示していた。
「お怪我はありませんか。この血は全て返り血ですね?」
「そこでそう断言できるのが、なんというか、さすがだな……。カーティス」
次いで聞こえてきた声は、マイルズにも覚えがあるものだった。カーティスの姿を認めてから、ぼんやりと視線を漂わせるばかりだったミランダの瞳に、再び光が戻った。
「で、んか……」
「まあ……派手にやったものだなぁ」
ずず、と幾分ずり落ちるような格好になって、王子がその場に降りてきた。あたりの惨状に、彼は形のいい眉をしかめたが、その光景から決して目を逸らそうとはしなかった。
「――カレン、生きているものには手当てを。いかなミランダといえども、これだけの人数を相手にして、全てに止めをさせているはずはない。彼らには正当な裁きを受けさせるべきだ。ミコト、将軍殿、強制できる立場でないことは重々承知しているが、協力していただければありがたい」
「殿下」
今度ははっきりと、ミランダが王子の名を呼んだ。ロードライトはミランダの声を完全に無視して、蒼白になっているカレンの背を支えている。茉莉と誠の方は、顔色を変えることもなく、それぞれ呼吸のある者の元へ駆けて行く。それを見て、ロードライトは小さく息をついた。
「戦乱の経験者は肝の据わり方が違う、か……。カレン、動けるかい」
「殿下」
「カーティス」
ロードライトは、ミランダを抱え込んだまま微動だにしないカーティスを呼んだ。二人に背を向けたまま、ロードライトは夜空にけぶるように浮かび上がっている金の髪を揺らした。
「僕がミランダを咎め、彼女に死を申しつける気だとしたら、お前はどうするんだい」
「今すぐこの場からミランダ様を抱えて、蒼麗にでも亡命しますよ」
間髪おかずにカーティスが切り返す。弾かれるようにカーティスを見上げたミランダを見返して、カーティスは思い切り不快そうに顔をしかめた。顔についた汚れを自分の袖でぬぐってやってから、カーティスはミランダの瞳をまっすぐに見つめた。
「あのですね、ミランダ様。言ってなかった気がしますから今言いますけど。私は『貴女が忠誠を誓っているから』殿下やこの国を護る騎士になったんです。貴女がいない国なんて、私にはその辺の石ころより価値がないんですよ」
「カーティス」
ミランダに名前を呼ばれ、カーティスはがりがりと頭をかいた。
「……てーか、勘弁してくださいこんな場所で、血まみれで。なんで俺こんな時にこんなこと言ってるんだ。ああもう、とにかく、ですね」
ぎゅっ、とミランダを抱えなおし、カーティスはミランダの耳元で、はっきりと言葉を紡いだ。
「殿下のために死ぬとおっしゃるんだったら、その命を俺に下さい。俺は貴女以外に欲しいものなんて何もないんです。貴女自身が自分を必要としていなくても、俺には、貴女がいるんです。どこかの国に高飛びして、誰の目も、手も届かないところで、名前も何もかもを捨てて暮らすなら、不都合はないでしょう。嫌だって言ってもかっさらいますからね、いいですね!?」
「……う、うん?」
肩をがくがくと揺さぶられて確認され、ミランダは目を白黒させながら首を縦に振った。明らかに勢いに押されての返事だったが、カーティスはよし、と鼻息も荒く頷いた。
「殿下、そういうことですので」
宣言を受けると、ロードライトは思い切り嫌そうに顔を歪めた。重々しく息を吐くと、人差し指でこめかみを神経質に叩き、カーティスを剣呑な表情で見やる。
「心配しなくてもミランダを処刑するつもりはないし、追放する気もないから勝手にかっさらう用意をしないように。あと、今のやりとりだが、僕は『ミランダがお前の告白を了承した』ものだとは認めないからな。なんだそれの情緒もへったくれもない脅迫みたいな口説き文句は。後でしっかりやり直せ」
カーティスの腕の中から身を乗り出し、ミランダは顔を歪ませて、叫び声をあげた。かすれた声で必死に言葉を紡ごうとする様は、ひどく痛々しく見えた。
「殿下……! 私情で罪を軽減されることは、為政者には許されない振る舞いです!!」
「もちろん然るべき沙汰は下す。それが死刑には行かないだけのことだよ。……次はない。そのつもりで覚悟しておけ。言っておくが、ミランダ。お前はこの件で周囲からの信頼をかなり落としたぞ。僕の名に泥を塗りたくなかったら、全力で信頼の回復に努めてくれ」
「そうじゃないんです、……違うんです!!」
強く首を左右に振って、ミランダは悲痛ささえ伺える顔を、ロードライトに向けた。カーティスの腕から身を乗り出すようにして、ミランダは子供のように首を振り続ける。
「……ちがうんです……」
か細い、頼りない声で言われ、ロードライトは眉をひそめた。
「やり方に感心出来ない点はあったけどね。このままいけば、彼らはいずれ処刑されていただろうよ。お前がやったことは、平たく言ってしまえば反乱軍の鎮圧だ。元々、極刑に処されるようなものではない。ミランダ。何をそれほど怯える?」
怯える、の一言に、ミランダがびくりと体を震わせた。
「……たし、は」
子供の告白に耳を傾ける母親のように、ロードライトはミランダの顔を覗きこんだ。一言一句聞き漏らすまいと、真剣な表情で妹姫を見つめる。
唇をかみしめて首を弱く振ってから、ミランダは口を開いた。
「私は、……マイルズの言に、心を揺さぶられたんです」
ぎょっとして、カーティスが腕の中のミランダを見た。ロードライトの方は、ぴくりとも表情を動かすことなく、ミランダの話の続きを待っている。
ぽろりと本心を漏らしたことで、つかえがとれたのだろう。せきを切ったように、ミランダは言葉を紡ぎ始めた。
「……一の騎士でいる資格を失うくらいなら、殿下に最も頼られる地位に相応しくなくなるくらいなら、いっそこの手で、と……どこかで、考えていたんです。マイルズはその心情を読み取って、私を仲間に招き入れました。だから、こんなに早く組織の要人達に会うことも出来た……」
ぎゅっ、と、ミランダの小さな拳が握り締められた。
「殿下。私は彼らを、国のために斬ったのではありません。彼らは私の醜くて、おぞましい闇、そのものだったのです。私は彼らを直視することで、常に自分の闇を見せ付けられていました。……少しでも油断すれば、その闇に飲み込まれてしまいそうで……恐ろしかったんです。だから、それを振り払おうとして剣を取りました。この心根は、いずれにせよ、殿下のお傍にお仕えするものとして、相応しいものではありません」
それでもなお、あなたは私に咎を求めないおつもりなのですか。そう尋ねてくるミランダの茶色の瞳を、ロードライトはしばし無言で見つめ続けた。
やがて。
「……それを馬鹿正直に口にする性格だから、僕がミランダを信用するんだって、なーんで分からないかなあ」
あっさり言って、ロードライトはミランダの頭をぺし、と軽くはたいた。王子らしくない振る舞いに、カーティスとミランダが同時に目を丸くする。
二人を半眼で見て、ロードライトはふんと鼻を鳴らして腕を組んだ。
「いやもうね、参っちゃうよね。二流の劇場で演じられる、恋人達がひたすらすれ違ってばかりの安っぽい話じゃあるまいし?」
「殿下?」
「……本来なら、言われずとも気持ちを汲んでやるのが、よく出来た主であり、兄なんだろうけどね。カレンや茉莉が渋い顔をするわけだ。思い込んだら暴走しがちな性格だろうとは思っていたから、推し量るのは本来なら難しくなかったはずなんだがなあ。どこで間違えたんだろう」
「あの、殿下」
「ああミランダ、ついでに何か言いたそうな顔をしてるカレン。言わなくていい。常ならぬ事態に僕が浮かれていたことは、認めるよ。何せ妹を妹として公表できる格好の機会を得たことにばかり、意識が行ってしまっていたからね。今思えば、ミランダのこれまでの十六年や、騎士として生きてきた誇りのことが、すっかり頭から抜け落ちていた」
夜空を仰いでそうぼやいてから、ロードライトは苦笑した。
「……ミランダ。『呪い』の束縛が解けてもなお、僕は君の主に相応しい、君に忠誠を誓われるにふさわしい器なのかな? 僕は、こういうポカをやってしまうような、未熟な王子なんだけど」
「そんな、ふさわしいなどと、恐れ多い」
「恐れ多いかろうとなんだろうと、騎士は自分の意志で仕える者を選べるんだよ、本来ならね。選択権がない唯一の騎士が、『一の騎士』なんだ。それを、理不尽と思わない王は、恐らくいなかったのではないかなと、思うんだけれど」
目を大きく見開き、ミランダはついで、泣き出すのをこらえようとするように、顔を歪めた。
「……他の方に忠誠を誓うことはできずとも、どうしても殿下にお仕えするのが嫌なのであれば、私が『一の騎士』を辞する方法はあります」
「自害だね。今回のこれを消極的な自殺と見なすなら、僕はミランダに相応しい主でなかったということになるのか」
「違います!! ふさわしくないのは……」
「部下に慕われる、決して驕らない人柄。判断の機を誤らない迅速さ。裏の組織と渡りをつける技能、細やかな気遣いが出来る性格。それに、自らの内部までもを常に見極める冷静さ。これは、呪いがあろうとなかろうと変わらないミランダの美点であり、一の騎士に何よりも求められる才覚であると思うけれどね」
絶句したミランダの足元に落ちている剣に、ロードライトは目をやった。かがんでそれを拾い上げると、血にまみれたロードライト・ガーネットを、懐から取り出したハンカチで綺麗にぬぐってしまう。
「殿下?」
「これを、お前以外の騎士に下すつもりはないよ。たとえミランダの『一の騎士』の任を解いて、王女だということを正式に公表したとしても、これをお前から取り上げるつもりは微塵もなかったんだけど」
ロードライトの言葉の意味を図りかねて、ミランダが何度もまばたきを繰り返した。
赤紫色に光るそれを、剣の柄から器用に外してしまうと、ロードライトはそれを軽く掌で転がした。
「チェスターがデリフェルに持っていかれて、ただでさえ人が足りないっていうのに、これ以上有能な人物を減らせるか。……僕の、掛け値なしの味方は、もうミランダ以外にいないんだぞ。王宮で味方もなしに、それぞれの思惑を持った大司祭や大臣達の相手をしろって言うのか。暗殺稼業からは足を洗わせたかったから、王女として、待遇を変えようかとは言ったけれど。そうなっても、ミランダには普通にこき使われてもらうつもりだったんだぞ」
「そ、れ、を、最初から言わないから! 『呪いの力さえなければ役立たずだから王女になれ』という風に、ミランダにはとられてしまうのですわよ! このスカタン!!」
両手を腰に当てて辛辣な言葉を吐くカレンに、負けじと笑みを返して、ロードライトは胸を張った。
「僕としたことが、ミランダの奥ゆかしさをすっかり忘れていてなあ。ははははは。いや、ミランダも、もう少しミランダ自身を高く買っていると思ってたものだから」
「殿下」
幼子が母を求める時のような、どうしようもない切実さをにじませた声。ロードライトはミランダの方を振り返って、カーティスに片手を軽く振って見せた。渋々、と言った様子でカーティスがミランダから離れる。風が吹くだけで今にも倒れてしまうのではないかという風情のミランダに歩み寄ると、ロードライトは彼女の左手を取った。
「―― 一の騎士として生きるか、王女として生きるかに関わらず、僕はこれをもう一度お前に受け取って欲しいと思っている。選ぶのは、お前の自由だけれどね。……だが、もし、この石を今一度手にして、これからも僕の信頼の証に相応しくありたいのなら、まずはその自分をとにかく犠牲にしようとする考えを改めろ。過ぎる謙遜はかえって周囲の足を引っ張る事を、覚えておけ」
どうする? と問いかけるように揺らされたロードライト・ガーネットを、ミランダはしばらくじっと見つめていた。王子の瞳とそれを交互に見比べたあとに、ミランダは赤紫の瑞々しい色をした貴石を頂いて、その場に膝をついた。
完全な騎士の礼に、ロードライトは苦笑する。
「それがお前の選択か」
「……王女として、私の身分が公になれば。また、こういった輩が現れないとも限らないでしょう。これからクラルテは今までにない変化期を迎えます。いらぬ面倒ごとに時間を割けば、国が弱る危険があります。それに」
「それに?」
「……私は、この仕事を誇りに思っております。殿下が『汚れ仕事だ』とお心を痛められる部分まで含めて、です。許されるのであれば……今一度、『一の騎士』として、殿下に忠誠をささげさせていただきたいと存じます」
茉莉たちが怪我人の手当てをする、わずかな気配だけが伝わってくる。
「……分かった」
肩から力を抜いて、ロードライトはミランダの両肩に手を置くしぐさをした。
最後にその頭に手をかざして、静かに息を吸い込む。
「改めて、そなたを我が一の騎士に叙す。いかなる時でも、何があろうと、どんな変化が起ころうと、常に私の側にあり、共に国を支える礎となるように」
ミランダが深く頭を垂れる。と、同時に嗚咽を漏らし始めた妹の右手を掴んで立たせると、ロードライトは体を傾けて、カーティスの方を振り返った。
「……胸を貸すのはもう、お前の仕事だろう? 僕がその役目をもらっても?」
どことなく憮然とした様子で歩み寄ってくるカーティスに、ロードライトは道を譲ってやる。カーティスがミランダの肩にそっと手をかけると、ミランダは素直に彼の腕の中に納まった。
申し訳ございません、と謝りながら、肩を大きく震わせて嗚咽を漏らすミランダを見て、ロードライトは苦く笑う。
「泣かせたのは、これで二度目か。……未熟な主で済まない」
首をぶんぶんと左右に振って、ミランダは顔を伏せた。伏せた先はカーティスの胸の中であったのだが、カーティスはどこか納得できない風情で、ロードライトを見た。
「……なんだかなあ、という気分なんですが。殿下」
「悔しかったら僕よりいい男になるんだな。努力を続ければ、いつかミランダの中で僕よりお前の方の地位が上がるかもしれないぞ?」
緊張の糸が切れたのか、ミランダの体が急に重くなる。
腕の中の姫君が確かに息をしているのを確認して、カーティスはミランダの体を抱え上げた。
腹に、鋭い針が何百本、何千本と差し込まれているようだ。
焼けるような痛みに、男はうめき声を上げようとした。だが、声を出そうと喉を動かすと、新たな激痛が全身を襲った。
「痛むか。腹を斬り付けられたのだから、当然といえば当然だが」
低い、地の底から響いてくるような声。岩のようなごつごつとした顔をぼやけた視界で認めて、男は自分達の計画が失敗した事を悟った。
「正式に国交がない国の人間を、公の場で処刑するわけにはいかないのだそうだ。……未遂で済んだことだからと、お前の処分は私に一任してくださった」
「左様、で……っ」
ぐっ、とうめき声をあげて、男が体を痙攣させる。蕾が、無理をするなと言わんばかりに、そっと彼の体を押し留めた。途端に痛みは潮がひくように消えていき、男は大きく胸を上下させた。
「司は……緑、は……どうなり、ました、か」
「東照側の人間で、助かったのはお前一人だ。……わが国の関与は、極秘のうちに処理していただけるそうだが。何も恩を返さないわけにはいくまいよ。お前は」
誠の唇がふるえ、いかつい眉が巌のように寄せられる。憤怒の形相を浮かべた将軍は、鬼と呼ばれた現役の頃の迫力を、今もなお緩めることがなかった。
「命のお立場までも危うくさせ、悪くすれば、今一度、東照を戦乱の渦に巻き込むところだったのだぞ」
「ですが、神樹のいとし子を、人にめあわせるなど……。許されることでは、ない……っ。本来ならば、王位も、あの方が継がれるべきだった、はずだ……っ」
「その声こそが命から故郷を奪ったのだと、お前達はまだ分かっておらぬのか!!」
部屋の窓枠がびりびり震えるほどの声で、誠が男を怒鳴りつける。怪我人なのですからと蕾が彼を押し留めようとしてもなお、怒りが収まらない様子の誠を、男は茫洋とした目で見上げた。
「――悟殿」
しなやかな両手を父親の胸からそっと外して、蕾は男の方に体を向けた。白いかんばせが夜の闇に浮かび上がるようだと、男は思った。
「命は、ここではいつも笑っていらっしゃいます。神樹の傍で、孤独に過ごされていた時分よりも、はるかにお幸せそうな顔で」
男がひゅ、と息を吸い込んだ。
「あのようなお顔を、命はここでは、灯様や翔様以外にもお見せになるのです……。それを奪い、あの方と故国の友を敵対させるような真似をすることが、誰に許されるというのでしょうか」
「……」
「東照の、あの冷たいばかりの場所に、再び生ける死人のように命を縛り付けることを、あなたは本当に望まれるのですか……?」
首を左右に振って、蕾は顔を伏せる。男の目に初めて悔恨の色が浮かぶのを見てとって、誠はようやく怒気を鎮めた。
「そりゃまたバカな事をお考えになられましたねえ」
心底呆れた風なジグの言葉に、ミランダは首をゆっくり傾けた。
体に傷を負ってはいなかったが、精神的な疲弊が、彼女の体をいまだに寝台に押し留めていた。反乱軍を抑えに行った際に負傷したのだという「公表」があってからは、彼女の屋敷に舞い込む見舞い品の数々は一層増えている。その中に甘い言葉で綴られた手紙が時折混じっているのは、まあ――先日の舞踏会が原因だろう。カーティスの事を知っている騎士達は、そんな恐ろしい真似は間違ってもしない。
機密事項の報告の最中だからと面会謝絶のお達しが出ていなければ、今頃は花束を手にした貴族達の列が屋敷の前に出来ているかもしれないなあと、ユーロパが面白そうにつぶやいていた。
「馬鹿なこと、って……?」
「ご自分に一の騎士の資格がなくなるとか、叛乱の旗印にされてしまう、とかいうお考えのことですよ。俺やカーティスは、間違ってもあの殿下の一の騎士はやっていけませんぜ。暇な時期は隙あらばほいほい色々な場所に顔を出しに行かれるその先を読んで、止めに回るなんて芸当が、他の誰に出来るっておっしゃるんです? ……第一、殿下の色仕掛けに動じないのは、騎士達の中ではミランダ様しかいらっしゃらないじゃねえですか」
「い、色仕掛け?」
顔を引きつらせるミランダに、しかしカーティスとジグは、真顔で重々しくうなずいた。
「殿下に真っ向から真顔で見つめられて、うろたえてる隙をつかれた同僚が、どれだけいることか」
「殿下は男性なのに、なんで騎士がうろたえるの……」
「や、だってあの方のあれは男とか女とか超越してますよ。あの殿下を遠慮なく追い立てられるのって、ミランダ様だけなんですよ。……まさか気づいていらっしゃらなかったんですか?」
腹の辺りで皺を作っている毛布を引き寄せて、ミランダは小さくうなった。
「そりゃ、確かにお綺麗だとは思うけど、でも……別に、うろたえるほどじゃ。それに、遠慮してたら殿下どこまでも暴走されていくし……」
「その辺が、ご兄妹でいらっしゃるから、という感覚なんじゃないかと、俺は思いますがね」
「どんなに名誉ある職でも、一の騎士をミランダ様と代わられたいと思う騎士が、この国にいるとは思えませんね。よしんばいたとしても、一週間持たずに音を上げますよ」
「あー、言えてるなそれ。ジェラルドも、今、ミランダ様の代わりに殿下の方の警護に回されてんだけどよ、『ミランダ様はいつ復帰してくださるんだ、一の騎士の任は私には手に余る』って真顔でこぼしてたぞ」
「そういえば、今朝、久々に顔を見たんだが、確かに顔色があまりよくなかったな」
ひょいと顔を出して、口をはさんだユーロパを見上げ、ジグが愛想良く相槌を打つ。
「やっぱりユーロパ様もそう思われましたか。色男台無しですよねえ。俺は愉快ですけど」
ぽんぽんぽんとかわされる会話に、ミランダはひたすら目を丸くしている。
「ですから早く元気になられて、早く皆に顔を見せてあげてください。でないとそのうち、城中の騎士が倒れます」
決して冗談とは言い切れない迫力で言われて、ミランダはぎこちなく首を上下に動かした。
一週間後、謹慎を解かれたミランダは、心なしかやつれた同僚に、熱狂的ともいえる勢いで迎えられた。
二人の論が正しかった事を目の前で証明され、ミランダは引きつった笑みを顔に浮かべた。――その肩を、ジグとカーティスはいたわるように叩いたのだった。
(第八章 守護者の約定 終わり)