第一章 黒騎士の秘め事 3
「冷静沈着」「凪いだ海のように穏やか」と評される、年齢に似合わない落ち着きを持っているミランダを唯一振り回せるのがこの王子だ。
金の髪、深い深い紺碧色の瞳。お伽話に出てくる「王子様」がそのまま現実に抜け出てきたかのようなその容姿に、ジグが呆然としたまま見惚れている。決してジグに「そういう趣味がある」わけではない。同性でも見ほれてしまうほどに、この王子の外見は非の打ち所がないというだけの話だ。
「ロードライト殿下、どうしてこのような場所に……」
うろたえきった声を出すミランダのところにツカツカと歩み寄ってくると、ロードライトはミランダを軽く抱きしめた。すぐに両手は離されたが、ミランダは渋い顔をした。今の動作は、身内に親愛の情を表すときに使うものだ。
「……殿下」
「やあミランダ、元気にしていたかい?」
思い切り不機嫌なミランダの顔を、ロードライトはにこにこと覗き込んでいる。どんなご婦人でも一発でとろけてしまうような極上の笑みに、しかしミランダは全く動じた様子を見せなかった。
「でーんーかー?」
「いやあ、しばらくミランダが留守にするって言うから、何があったかと思えば、いよいよあの古狸を捕まえに行くって言うじゃないか!! これは是非とも加勢しなくてはと思ってね!!」
「必要ありません。お帰り下さい!! 建国記念式典も近いのに! 今は休暇をお取りになられる季節ではないでしょう!?」
珍しくミランダの声が荒げられている。上司の常とは違う様子に、ようやく我に帰ったのだろう。ジグが図体に似合わない動作で、ちょんちょん、とカーティスの騎士服の袖を引いた。
「お、おい、いいのか!? あれ、本物の殿下だよな!?」
抑えられた声に、カーティスは苦笑して肩をすくめる。
「一の騎士、ってのは、お目付け役と同義なんだってさ」
一の騎士、つまり「王位継承者がもっとも信頼を置いている騎士」の称号を、ミランダは十六にして既にあの王子、ロードライトから賜っている。ロードライトは今年二十歳。まだまだ容姿にあどけなさを残しているミランダがロードライトに食って掛かっている光景は、子犬が人間の大人に一生懸命吠え付いているような微笑ましいものさえあるのだが、彼女の表情は真剣そのものだ。実際、ロードライトはミランダの説教がまったく答えていない様子で、嬉しそうにミランダを見下ろしていた。
「だから遊びじゃないって。極秘の視察だよ。とりあえずここに旅芸人に扮して入ってきたのは十人だけど、近くの町に分散させて百人ほど待機させている。鳩を飛ばせば、日が沈む前には城を包囲できると思うよ? これでも役にに立たない?」
穏やかに尋ねられ、ミランダは一瞬ひるみ、すぐに思い切り眉根を寄せた。低い声が、その喉から流れ出る。
「……査問官とその護衛一行が、そんなに信用なりませんか」
「いやあ、ミランダなら実際に手勢を動かすことはまずないと思うけどね?」
ミランダの詰問をさらりとかわして、ロードライトは両腕を胸の前で悠然と組む。真下から睨まれても、ロードライトは微塵も揺らぐ様子を見せなかった。微妙な緊張感が辺りに漂う。
その中で、査問官だけが呑気に三枚目のクッキーに手を伸ばしている。
「んーむ。このナッツはどこのものかのー。んまい」
「査問官」
王族がいらしているのに挨拶もしないなんて、と言いたげな顔で、カーティスがささやきかける。査問官は斜め上にある騎士の顔の目の前に、にゅっとクッキーを差し出した。
「ご挨拶はミラちゃんとの決着がついてからのがよかろー。腹が減っては戦はできんぞい。ほれ、カーチスも食え」
「そのナッツは西部で試作品として栽培されているものですわ。風味があっておいしゅうございましょ?」
カレンも呑気に籠を持ち出してきて、クッキーをカーティスに勧める。いや、しかしと困惑するカーティスの後ろで、ミランダがとにかく、と荒れた声を出した。
「殿下はすぐに王都にお戻りください。こちらは私達だけで大丈夫ですから」
彼女の渋面が少しも揺るがないのを見て取ったのか、ロードライトは片手を口もとにやって、ふーむとうなる。
「僕はミランダのプライドを傷つけてしまったのかな」
「私の矜持はどうでもいいんです! 即位前の大事なお体に何かあったらどうなさるおつもりなんですか!? もっとご自分を大切になさってくださいと申し上げているんです!」
「つまりミランダは、すぐにでも僕に帰って欲しいわけだ」
「そうです!」
力いっぱい頷くミランダに、ロードライトは再び笑顔になって、ふむふむと何度も首を縦に振る。
「そこまで言うなら僕としてもどうにかせざるを得ないよねえ」
ミランダがほっと息を吐いて、帰りの馬車を用意させようと走り出すのを、ロードライトは片腕で軽く押しとどめた。
「殿下?」
肩に手を押し当てられた形で止められたミランダの顔に、ロードライトは自分の顔を寄せた。至近距離で笑顔になってから、彼女の唇の前で、ぴっと人差し指を立てる。
「……『お兄ちゃん』って呼んでくれたら考えてあげよう」
ミランダが、みるみるうちに赤くなる。口をパクパクさせた後で、怒りたいのか泣きたいのかよく分からないミランダの顔を、期待に満ちた目でロードライトが見つめた。
「呼んでくれないんだったら僕はここに留まるよ?」
「な、なな、な」
「だーってこういうのはやっぱりそれなりの条件がなくちゃねえ。妹に可愛く『お兄ちゃん、お願い』とか言われれば、そりゃあ僕だって何でもお願い聞いてあげたくなっちゃうけど」
ミランダはたとえ素でも、そんなに可愛らしい台詞は口にしないと思う、という感想を、カーティスとジグは同時に胸に抱いた。
「ふ、ふ、ふ、ふざけないでくださいっ!! ご自分の立場を本当に分かっておいでなんですかっ!!」
案の定、ミランダは顔を真っ赤にしたまま怒り出した。
「えー。じゃあ僕はここに残るよ? 一の騎士が主人の下を離れるのはやっぱり体裁的によろしくないと思うし? たまにはその働き振りを確かめるのも、主の役目だと思うんだよねえ」
さらになにか言い募ろうとしたミランダを制したのは、ぷるぷる震える老査問官だった。クッキーを思う存分味わって満足したのか、両手をぱたぱたはたいている。
「ミーラちゃん、まあそうカッカせんと。よーするに、わしらがとっととダリちゃんを捕獲すりゃあええだけの話じゃろ。ほ、そろそろ行くかのー」
見習い巫女が、マグダレクの元に、さっと杖を持ってくる。彼女の手を借りながら床に下りると、老査問官はぷるぷる震えながら、ミランダの横に歩み寄ってきた。
「王子殿下、おひさしゅう。腰が曲がらん、というより曲がった腰がこれ以上動かんので、多少無礼になってしまいますが勘弁してくだされー」
「気にされることはない。突然押しかけたのはこちらなのだから」
片手を上げて鷹揚に応えるロードライトを見て、マグダレクはぷるぷる震えながら、頭をぺこりと下げる。
「ほんじゃ無礼ついでにー。殿下、分かってらっしゃると思うが、わしらが帰ってくるまでは、くれぐれも地星宮を出んでくだされ。この年で斬首台には上がりたくないですからの。わしゃ死ぬ時は老衰で、孫と子供に囲まれて、若返ったばーさんに迎えに来てもらうと決めとりますのじゃ。そいじゃ、行くぞー」
ぷるぷる震えてよろよろしている割には、老人の足は速かった。あっという間に遠ざかっていく査問官と、自分で椅子を引いている王子とを交互に見比べた後で、ミランダは査問官を追って走り出した。わずかに遅れて、二人の騎士がその後に続く。手を振って呑気に見送るロードライトは、いつの間にか椅子に座ってすっかりくつろぐ体勢になっていた。
全ての従者が部屋から出てしまったのを確認して、見習いの巫女たちが、巨大な白蓮の間の扉を閉めた。
がらんとした部屋の中で、カレンがすっと王子の方に茶器を差し出した。湯気がふわりと流れ、気を落ち着かせる匂いが、ロードライトの鼻をくすぐった。
「……わたくしが釘を刺すまでもないと思いますけれど」
「査問官の一行が帰ってくるまでは、この部屋からは出るな、だろ? いかなカレンでも、この短期間に地星宮の人員すべてを抱き込めるはずはないからね」
「言ってくれますわね。……ええ、でも確かに、不確定要素が一割ほど残っておますわ。この近辺は全て護衛で固めて、信用できる鉱術師を控えさせておりますので、万一の事態も起こらないはずですが。……それに、不確定要素は今のところ、ダリアス伯の方に気を取られているはずですから、まあ心配はないでしょうけれども」
「査問官一行とダリアス伯をおとりに使ったわけだ?」
「ひどい言い方をなさいますのね」
差し出された紅茶を受け取って、ロードライトはそれをためらうことなく口もとに運んだ。それで、と促され、カレンは静かに目を伏せ、話を続けた。
「少々泳がせすぎた感もありますわね。ま、これでこの地星宮の司祭は更迭確定ですし、この件を持って、父も大司祭の座から追われるでしょう。貴方が即位なさるまであと二年。地星宮の政権交代は、ぎりぎり間に合いましてよ?」
顔色一つ変えずに言い切って、カレンは自分のカップにも紅茶を注ぐ。ふと、ロードライトの口もとが歪んだ。さきほどまでのご機嫌な様子を全開にしている爽やかな笑みではなく、どこか不穏なものを含んだ光が、その目に宿った。
「……何があった? まさか本当にダリアスを捕らえるだけのために、王子を名指しで呼んだりはしないだろう」
「ええ、だから申しましたでしょう。ダリアスはあくまで囮だと。今捕らえてしまう必要がありますから、完全に撒き餌というわけでもないのですけれど」
クッキーをロードライトに勧めるふりをしながら、カレンはその上に、ひとかけらの鉱石を落とす。ルビーよりもなお赤く、刻一刻と姿を変えるその石に、ロードライトが動きを止めた。
「火炎石の違法採掘が行われておりますわ」
その言葉は、奇妙な余韻を引きながら空気の中に溶けていった。