第六章 来訪者の献言 1
「そりゃ公衆の面前で妃に迎えたいって断言しちゃったのはちょっと軽率だったと思うよ! だけどこれはないんじゃないか!?」
辟易しながら、ロードライトはやつれ気味の顔で愚痴をこぼした。
デリフェルの王女を精鋭と共に国に戻し、クーデターの後押しをする。根回しも調整も最終段階に入った。彼が表立って動くことは勿論ないが、国家間の交渉と駆け引きは上役の仕事だ。今、エレノーラとチェスターは国に密かに戻って国内での反国王勢力を集めにかかっているはずだ。
国王が病に倒れ、戦争推進派は弱体化するまではいかなくても足並みが乱れているのだという。王子が二人いることが災いし、後継者争いの火種もくすぶり出しているらしい。『ホントに協調性がございませんのね』とは、カレンの言だ。
彼女もまた、ダリアス領民の移住手続きと、と内紛終結後のデリフェルへの支援の準備に奔走している。この冬にはカレンは正式に大司祭に任命される。その準備をこなしながらテキパキと仕事を片付けていく様はいっそ圧巻でもある。
難民の保護、鉱毒の病に倒れたダリアス領の労働者を施療院に迎え入れる用意、新しい職の斡旋。方針を出して西部の公爵を通じて指示を出せば、一応それらはロードライト達の手を離れ、多少は楽になる。普通は。
今回は肝心の公爵が斬首台にかけられ、さらに連座で西部の有力貴族たちの幾人かも絞首台に消えたために、西部の方の混乱も鎮圧する必要があった。デリフェルとローオールに隙を見せるわけにはいかないのだ。後継者争いをさっさと片付けるように厳重に指示を出し、監視をつけ、西部の公爵の仕事は、期間を限定して、マグダレク査問官が率いるクラルテ直属の監査機関が代行している。王位継承者の暗殺未遂を起こした家系は、爵位を半永久的に剥奪される。公爵の座におさまるめぼしい人物を、仕事をこなしながら今監査機関が選定しているところだ。しばらくは国が直接見張った方が都合がいいだろうということで、反対らしい反対もなく可決された案だったが、ロードライト達の負担はおかげさまで桁違いに跳ね上がることになった。
税の徴収がひと段落し、国家予算の振り分けを考える大会議を控え、さらに隣国のクーデターの後押し、西部の厄介ごとの始末に街道整備そのほか毎年湧き上がってくる諸々の問題の片付けに、クラルテ王宮は官僚が全員倒れかねないほどの忙しさに走り回る羽目になっている。無論二年後に即位が決まっているロードライトも、「労働要員」に数えられる。
ただでさえ異様なほどの厄介ごとのオンパレードに倒れそうだというのに、さらに彼にはもう一つ厄介ごとが余計にくっついていた。
「今月入って何回目だっけ!?」
「十回目……ですね」
乱れたタイを倒しながら、ロードライトは自棄気味にソファに腰を下ろした。背もたれにぐったりと上半身を預けると、グラスに注がれた冷たい水が差し出される。
「先ほどカーティスと私が同じ水差しから水を口にしています。何も入っておりませんよ」
ミランダが差し出した水をぐいっと喉に流し込んで、ロードライトは深く息をついた。
「ひっきりなしに宴に呼び出されて、その度に媚薬入りの食べ物や飲み物振舞われたり無理矢理寝室に引きずり込まれて脱がされかけたり……僕はどこの国のお姫様だ」
異国の女に王子がプロポーズした。しかも彼女は天涯孤独で後ろ盾が一切ない。係累がないということは、親や親戚を人質に取って身を引けと脅しをかけることができないということである。しかも鉱術師から伝えられた話によれば、「異国の女」に下手に手を出せば、未知の術で砂のように体を崩され消されてしまうのだという。
どうやら噂には盛大に尾ひれがついたらしく、茉莉の食事に毒が盛られたり、彼女に暗殺者が差し向けられるようなことは一切なかった。その代わりに、ロードライトがやたらあちこちの宴に呼び出され、睡眠薬と媚薬のダブルコンボを食らわされかけたり、物陰や休憩室に引きずり込まれかけたりするようになったのだ。無論、彼の周りには常にミランダか彼女が特に信頼を置いている騎士が常に配置されているので、どの事件も未遂で終わって事なきを得ているが。
「暗殺が目的ではありませんから、法廷に引きずり出すわけにも処罰を与えるわけにも参りません。どなたも娘を王妃にしたいというお気持ちは一緒なのでしょう。わざわざ娘を東部に留学させたり、養子に出したりするくらいですし」
「確かに僕を押し倒すなりなんなりして子供さえ作っちゃえば、その母親がなし崩しに正妃になるさ。ダリア様はそういう呪いを子孫にかけてくださったからね! でもなあ、別に強硬手段を取ってでもむりやり王妃になろうとする姫を作り出すための呪いじゃないだろこれは!?」
ほんの半刻前に、思いつめた目で自分を見つめ、あられもない姿で自分の服を脱がしにかかった姫君の顔を思い出し、ロードライトは恐怖に顔をゆがめた。女性は嫌いではないが、あれほど鬼気迫った様子で迫られれば、はっきり言って誘惑される前にトラウマになる。
「不能になったらどうしてくれる」
「……殿下」
カーティスが微妙に顔を引きつらせる。女性の前でそういうことは、と言いたいらしい。しかしミランダは赤面することもなく、真剣な顔で溜め息をついた。
「殿下が不能になられると、やはり国はいずれ滅びますので、由々しき事態ではありますね」
「ミランダ様も平然とそういうことを口になさらないで下さい」
「大体この時期に僕だけ名指しで舞踏会だの宴会だの連日連日開かれちゃたまんないよ。過労死するってホントに。いっそ体調崩して引きこもってやろうかと思っちゃうよ。したらしたで今度はまた大騒ぎになって、いらん薬まで飲まされて本当に体調崩しそうだからやらないけどさ」
「断れるものは全部断ってこれですからね。ミコト様が早く正式なテーブルマナーもダンスも身につけてくださればいいのですが。彼女が横にいればさすがに姫君がたもひるむでしょうし……」
「他の立ち居振る舞いはほぼ完璧でいらっしゃいますのに、お食事とダンスだけはどうも下手なんですのよねあの方。アンバランスで不思議ですわ」
休憩室に入ってきたのは、有力貴族に招かれていたカレンだ。彼女も権力を持つ独り者であるために、さまざまな男たちから言い寄られているらしい。しかし、さすがに神につかえるものに不埒な真似を働こうとする輩は少ないので、今のところ貞操の危機に晒されたことはないのだという。それでも人並み以上に仕事に忙殺されているはずなのに、彼女からは連日の激務の疲れは全く感じられなかった。
「カレンもお疲れ」
ねぎらいの言葉を膝を折ってありがたく受け取り、カレンはほう、と息をつく。
「さっさと押し倒して子供をお作りになれば話は早いんですのよ。いつもの調子でほいほいっと口説き落としてしまわないのはどうしてですの……と、言いたいところですけれど」
「通じそうにないだろ? そういうのは」
カレンは結界の強化のために、茉莉とはほぼ毎日顔をつき合わせている。ついでとばかりに国史やマナーなど、王妃候補に必要なことも教えているので、彼女の性格もほぼ把握できているはずだ。
ええ、とあっさり同意して、カレンは肩を軽くすくめた。
「通じそうにありませんわね。厄介な相手を選んだと思って頑張っていただくしかありませんわ」
「ミコトはどう、素直に王妃教育は受けてくれてるの?」
「王妃になるにしてもならないにしても損にはなりませんわよと申し上げたらあっさりと。飲み込みも早くて頭の回転も文句のつけようがございませんわ。閉鎖された国だったというのに、クラルテ語も流暢に話されますし」
彼女が平民であることはありえない、というのは、カレンとロードライトの一致した見解だった。いかに東照が閉鎖された国だと言っても、平民の暮らしというのは茉莉から聞いた限りではさほどクラルテと――生活習慣などの違いはかなりあるが――変わらないように思えたし、彼女は人に仕えられ、多くの人の視線に晒されることに慣れているように見えた。
「元政治犯……とか、追放された異端のものだとか。そういう線はありえないのですか? 迷惑をかけてしまうから、殿下の申し出をはぐらかしているとも考えられるのでは」
おずおずと口に出したのはカーティスだった。ありえる線だとは思われ、実際ロードライトも何度もその疑いは耳にしている。だが。
「東照の国情がまず分からないからね。それはなんとも判断がつかない。まず蒼麗の使節にお尋ねしてみるしかないんだろうけど」
あと一月ほど――新年の慶賀と重なる頃に、使節は到着するのだという。それで手がかりが得られればいいのだが。今のままでは彼女の立場は半端すぎる。出来れば東照での彼女の身分を把握しておきたい、というのは、ロードライトの偽らざる本音でもあった。
「やつれているな、平気か?」
「駄目。癒して」
三日ぶりに顔をあわせた茉莉に、ロードライトは顔を近づけて囁きかけてみた。だが茉莉は数回まばたきを繰り返したあとで、やはり動揺した様子は欠片も見せずに真っ直ぐにロードライトの蒼い瞳を見返してくる。軽口を叩けるくらいに慣れては来たが、茉莉との距離は一向に縮まった感触がない。動揺してもいないが、不快感を覚えているのでもないことくらいは分かるようになった。それだけでもたいした進歩ではないかと思う。
「癒す……?」
真面目に考え込むために、茉莉が瞳を伏せる。長いまつ毛がけぶるような影を肌に落としている。癒してくれる気ではいるらしい。きゅっと引き結ばれた唇にキスさせてくれるだけでいいんだけどなあと思いながら、ロードライトは茉莉が「答え」を出すのを待った。
呼吸する息が近い。柔らかな水の匂いがする。何気なく手を伸ばして、輪郭に触れるかいなかのところで、ロードライトは指先をさ迷わせた。それはそのまま、彼女の背中に流れ落ちている髪にたどり着いた。
森の中にいるような、あの空気が密度を増した気がした。
喧騒や、王宮での出来事や陰謀から、はるかに離れた別世界にいるような気分になる。
(見せびらかしたいんだけど、勿体無い気もするんだよね)
誰にも見せずに、時折疲れたときにこうして寄り添わせてもらうだけでも、充分なのではないかと思えてくるのが不思議だ。茉莉がゆっくり目を開き、ロードライトを見つめかえした。
「疲れてはいるようだが、癒さなければいけないほど、悪い所はないようだぞ。もう少しよく眠った方がいいとは思うが、それで回復はするだろう」
やはりどこかずれた答えを返して、茉莉は自分の髪をからめ取っているロードライトの指に目をやる。
「どうかしたか」
「ん? 手触りがいいなあと思ってね。……ね、抱きしめみてもいいかな」
「抱きしめる?」
「うん、茉莉いい匂いがするから、抱きしめたら癒されそう」
しばらく間があったが、それは恥ずかしいだのなんだのというよりは、茉莉がロードライトに抱きしめられることにどんな効果があるのか、真剣に考え込んでいるように見えた。変な所の常識が、すこんと抜け落ちていると思うのはこんな時だ。箱入り娘だったのかなと思わせる行動はそこここで取っているが、それにしては人を殺すのには容赦がなかった。そういう奇妙なアンバランスさも、ロードライトの好奇心をくすぐる一面であることは確かだ。考え込んでもらちが明かないと判断したのか、茉莉はやがてあっさり頷いた。
「構わないぞ。効果のほどは疑問だが」
「大丈夫、絶対効くから。……ではお言葉に甘えて」
髪に絡めた指を引けば、黒の絹糸は肌に心地よい感触を残して離れていく。小さな肩をゆっくりたどって背中に手を回し、ロードライトは茉莉を腕の中に抱き寄せた。ぬくもりと質感が、腕の中にしっかり感じられる。彼女の髪に顎を埋め、ロードライトはさらに頬をぎゅっと押し付けてみた。黒い髪に、金色の光の筋が落ちるのが見える。
緩やかな呼吸に合わせて、茉莉の体が動いているのを感じる。かみ締めるように彼女を抱きしめていると、ささくれ立っていらついていた頭の中が、すっきりと整理されていくのを感じた。
「効いているか?」
「うん、効く」
「そうか」
こてん、と、ロードライトの胸に茉莉が頭を落とす。上半身をゆっくり折り曲げて、彼女の後頭部に顎を軽く乗せ、完全に茉莉を抱え込む体制になって、ロードライトは深く息を吸い込んだ。
「よく分からないものが疲れに効くんだな、お前は」
「僕以外の人間には効かないからね。他の人にこういうのやっちゃ駄目だよ」
変わり者の女性のことだ、ひょっとすると手当たり次第にやらかすかもしれない。
先回りして釘を刺したロードライトの言葉に、彼に抱きかかえられた形になった茉莉は、そうか、と返事をした。分かったかわかっていないのか微妙だなあと不安になり、ロードライトは少しだけ腕に力を込める。
「……も、そういえば同じ事を……に」
「え?」
「いや、……東照の友人も、そういえば相方にこういうことをしていたな、と思って」
くぐもった声。ロードライトは今聞いた言葉を確かめたくなって、茉莉から少しだけ体を離した。茉莉は真剣に「友人」のことを思い出そうとしているらしく、難しい顔をしていた。彼女が個人的な東照での思い出を口にしたのは、そういえば初めてのことだ。
友人というのは男なのだろうかと考え、そこで何故かざわりと心が波を立てた。自分の心の思わぬ反応に、ロードライトはわずかに動揺した。
「どんな人だったの。その友達って」
「どんな……と言われても。相方を大事にしていて、奴が傷つけられると烈火のごとく怒り狂っていたな。相方が自分の全てだと言ってはばからなくて、それ以外のことにはまるで頓着しない奴なのに」
懐かしみながら言ったせいだろうか。茉莉の表情が、普段より数倍彩を帯びて見える。ロードライトは息を呑んだ。神聖に見えたわけではない。むしろ馴染みやすい、茉莉がたしかに人間なのだと分かる気安さがある顔だった。
こういう顔を、彼女もきちんと持っていたのだ。
「大事な人……だった?」
「親友だと言われたな。相方は自分の『半分』で、友という枠には収まらない。だからお前は唯一の親友だ、と。あれに友人と認めさせるのは、そうそう出来ることではないからな。それなりに光栄だとは思っているが」
そこで口をつぐんで、茉莉は苦笑した。頬がほんの少し、赤くなっている。照れ隠しだ、と気づくまでに、時間はかからなかった。
「大事な人、か。言われて見ればそうかもしれないな。そいつも相方も、私にとってはかけがえのない人間だよ。……もう、会うことはないだろうが」
「好きだったの、その……」
一瞬躊躇してから、ロードライトは茉莉から視線を外した。
「……男の人、だよね。今茉莉が言ったの。相方がいた、ってことは」
確認するのは、あるいは失礼なことなのかもしれない。そっとしておくべきだ、踏み込むなと理性は言っているのに、口にしなければずっとわだかまりを抱え続けるような気がして、口にのぼらせるのをやめることが出来なかった。
「嫌いな奴を友人と言ったりはしないが」
いつも通りのずれた答えが、今はもどかしいと感じた。そうではなく、自分が聞きたいのは。
茉莉の唇が、形を変える。彼女の唇からこぼれてくる言葉に、ロードライトは全神経を集中させる。
「今でもあいつらは私にとって大事な人間だ。いろいろな事を教えてくれた。生きている人間の愛しさや、生活を営む民の温かさ、……悲しみも喜びも、あのままだったら私はきっと、知らないまま一生を終えていた」
「……?」
どう取ればいいのか分からない言葉に、ロードライトは戸惑う。
懐かしむように、寂しさをわずかににじませた笑みを、茉莉は口の端にのぼらせた。
ロードライトの指がぴくりと動く。力任せに彼女を抱き潰してしまいたいという衝動が駆け上がってきて、思わぬところでロードライトは散々使い慣れ、強度に自身を持っている自制心を引っ張り出す羽目になった。
「……いや、話がずれている。私が言いたいのはそこではなくて」
回想から現実に戻ってきた茉莉が、あっという間に真顔に戻ってロードライトを見上げた。ロードライトの腕に、茉莉の華奢な両手が添えられた。
「そいつがな、所構わず相方にこういうことをして、その度に相方がぎゃーぎゃー騒いでいたのだが。疲れたからこうさせろとか、そういうようなことを言っていたなと思って。相方の方がうるさくてよく聞こえなかったんだが。そういえば、そいつはその相方以外には絶対にそういうことはしなかった」
「うん」
「つまりお前は私に、『私の友人が相方にしていたのと同じ事』をしているのか?」
他人の経験則を当てはめて、ようやく事態が理解できたらしい。真顔で聞いてくる茉莉に、脱力感と安心感を覚えながら、ロードライトは彼女をもう一度胸の中に抱き寄せた。
「……多分、それで間違ってないと思うよ」
「では私は騒いだ方がいいのか。やめなさーい、とか、場をわきまえんかアホーとか言いながら」
分かったらしいがやはりなんだか微妙に違う。ロードライトは静かに茉莉を抱きしめる腕に力を込める。
「茉莉がそうしたいなら、ご自由に」
茶化すことも気取ることもせず、静かに静かに言葉を落とすと、茉莉は頭をわずかに動かした。
いつまで待っても、彼女が暴れ出す気配はなかった。
「……暴れようとは、思わないな」
「逃げ出したい?」
「いや、別に……」
もぞもぞ、と茉莉が身動きをする気配がする。長い袖が、ロードライトの体の横を滑っていく感触がする。茉莉の足が半歩だけ前に進み、ロードライトの背に彼女の腕が回された。ロードライトの真似をしてみたらしい。
深く呼吸をする気配がした。
「……なるほど。確かに温かくて安心するな」
その言葉は、本当に単純に感心している風なものだったけれど。
ロードライトは温かなもので胸が一杯になるのを感じた。