第一章 黒騎士の秘め事 1
「理不尽だと思うんだ」
「じゃあやめればいいじゃねえか」
あっさり言われたその言葉に、カーティスはパンを口もとに運ぶ手を止めて、目の前で昼間から骨付き肉にかぶりついているジグを見た。
安い上に、量だけはあって味もそこそこいけると評判のこの店は、昼飯時には、見るからにたくましい男たちで溢れかえる。夏場は汗の臭いと料理の臭いが混じりあって、なかなかすさまじいことになる。しかし、食欲の塊と化した男たちが、それを気にすることはあまりない。
「でも可愛いんだよなあ」
溜め息をついてはいるが、その口もとはほんの少しだけだらしなく緩んでいる。十数年、カーティスの同僚をやっているジグにはすぐに分かる。これはいわゆるあれだ。ノロケというやつだ。
「三十六回」
「へ?」
「そのノロケ。今月に入ってから、三十六回は聞いた」
「ノロケじゃない」
騎士服を着ていなければ山賊とも間違われかねない、野性味のある顔を盛大にしかめながら、ジグは肉に歯を立てた。適度に焦がして焼き壁を作り、肉汁を中に閉じ込めた骨付き肉は、噛めば熱い油と共に肉汁とスパイスが口の中に広がる。給料日の唯一の楽しみを、他人のノロケで邪魔される道理はどこにもないはずだ。
「聞けよジグ。俺は真剣に悩んでるんだぞ!」
「ひふか。はいはいはひへんほおはひほほうひうひうひうひうひうへへんはよ」
噛み切った肉の汁が向かいまで飛んでくる。カーティスは「うわ、きたね!」と小さく叫んでそれを避け、ジグをじろりと睨んだ。こんな大衆食堂でも、カーティスはパンを手でいちいち千切り、そこそこ上品に口もとに運んでいる。ジグとて近衛騎士の端くれだから、正式な場でのテーブルマナーというものを一通り身に着けてはいる。しかし、こんな場所でそれを守る気にはなれない。
要は育ちの違いだ。ジグは庶民の身から騎士の従者になり、実力のみでここまで這い上がってきたが、カーティスの実家は代々騎士を輩出している中流貴族だ。だから、こうした場面ではおのずと差が出てくる。もっとも、騎士団に一旦入ってしまえば家柄にこだわることなく盛大にしごかれるので、カーティスの動作も、街中では完全に上品とも言えないのだが。
噛み千切った肉をもぐもぐやってごくりと飲み下してから、ジグは片眉を上げて顔をしかめた。
「聞かされるほうの身にもなれ」
「さっきの言葉を俺が理解してないんじゃないかとか、そういうことは考えないのか、お前。唯一無二の盟友に向かって、心遣いが足りんぞ」
「じゃあ言いなおすがな。同じこと八年もうだうだうだうだ繰り返してんじゃねぇよ、ウゼェったらありゃしねえ。お前それ、もう病気だぞ、病気」
「病気か、そうかもな……」
カーティスはスープに浸したパンを持ち上げる手をふと止めて、哀愁を漂わせながら窓の外を眺めた。ジグとは対照的に、比較的端正な顔つきをしているカーティスがそういう顔をしてみせれば、それだけで貴婦人は頬を薔薇色に紅潮させるに違いない。
だが、あいにくとそこに同席していたのは、美というものを全く解さない男だった。
嫌そうに視線を逸らして、くつろげた襟元を閉めなおすジグを見て、カーティスは不審げに眉根を寄せた。
「どうした」
「いや、鳥肌がな」
「はぁ?」
分かってない風情だったが、とにかく早く食っちまえと促され、カーティスは大人しく昼食を再開した。桁違いに大食いのジグには劣るが、カーティスが頼んだ昼食もかなりの量がある。結構なスピードでそれを胃の中に納めているので、自然と互いに無口になる。午後からは王都警備隊の訓練がある。下手をしなくても市街地の巡回よりずっと体力を使うので、しっかり昼食を取っておかなくてはいけない。特に今日は、夕方から実地訓練も入っているのだ。
平和な国だから、近衛騎士と言っても名ばかりという感じがするというのが、実際に騎士になった二人の感想だった。特別な行事以外は、彼らの仕事は王都警備隊の内容とほとんど変わるところがない。そもそも、近衛騎士自体が王都の警備隊から選出されるので、カーティス達にしてみれば、王都警備隊の中で出世したのと、そう感覚的な違いはないのである。後輩の稽古を見てやるのもまた、先輩の重要な仕事のひとつだった。
ジグに引けをとらないほどかさのある食堂の女将が、盛大に食い散らかされた後の骨やら野菜かすやらソースやらがこびりついた大皿を、前が見えなくなるほど抱えて横を通り過ぎていく。
その揺れる尻に向かって、ジグは大声を出した。手にしたジョッキが軽く掲げられる。
「おねえさーん、ビール一杯頼むー!」
「やめないか、勤務中だぞ」
いつまでたっても生真面目な同僚を、ジグは肩をそびやかしてやり過ごす。
「ちっとハイになっとかねぇとさすがにきついだろー?」
「何かにつけて酒を飲みたがるのは悪い癖だぞ。この間医者に注意を受けたのを、もう忘れたのか」
「けっ、医者の言うこと一から十まで守ってたら、この世に楽しいことなんてなーんにもなくなっちまうだろうが」
言っても聞かないのは分かりきっている。カーティスはせめてプレッシャーだけでもかけておくために、大仰に溜め息をついてみせた。カミさんの小言程度には効くらしく、ジグはおっかなそうに、その大きな体を少しだけ縮めた。
「あー、食った食った」
うーん、と大きく伸びをするジグの横で、カーティスはハンカチで手を拭いて、白い手袋を両手に嵌めなおしている。略式の騎士服では、必ずしもつける必要はないのだが、カーティスはこういうところは妙に生真面目だ。手袋をつけて、数回指を握って開き、付け心地を確かめた後、カーティスはふとジグと反対側に視線を走らせ、そこで動きを止めた。黒い目がかすかに見開かれる。
「ん?」
カチリと剣の鞘が鳴ったのに気づいて、ジグが横に立つカーティスの方を振り返った。
その視線の先に良く見知った姿を認めて、ジグは相好を崩す。通りの向こうから、見覚えのある人影かこちらに走ってくる。
「ミランダ様!」
「ジグ、カーティス! 良かった、やっぱりここに居た!」
通りを駆けてきたのは、一人の少女だった。練絹色の髪を青いリボンでまとめ、騎士服を身に着けている。
薄氷色の騎士服は、濃い群青色のそれとは違って、平時でも王族の警護につく『正真正銘の近衛騎士』のものだった。この国の騎士服は王城の外と中で使い分けるのが普通だ。少女が身につけているものを、二人も勿論所持してはいるが、それを使う頻度は、彼女よりずっと低い。若手の騎士の大半は、この国の王子が即位するのと同時に、常時城につく騎士に叙せられる。カーティス達は、いわば修行期間の最中なのだ。
「どうなさいました。今日は一日王城にいらっしゃる予定だったのでは?」
飛ぶように走ってきたミランダに、カーティスが不思議そうに尋ねる。物腰は同僚のジグに対するものより格段に穏やかで、ついでに言えば表情までもが柔らかい。瞬時に激変したその態度に、ジグは内心で苦笑する。
カーティスは夜会に集まる高貴な淑女達には、礼儀正しい態度を取りながらも、必ず一定の距離を保っている。周囲からは「生真面目で不器用」と好意をもって評されているが、この男は本当に貴婦人方に興味がないのだ。
(何せ頭の八割は『ミランダ様』だからなぁ)
ちなみに残りの二割は仕事だ、とジグは勝手に結論付ける。
勿論、年に似合わず落ち着いていて、頭も切れる少女を、ジグも好ましく思ってはいる。思ってはいるが、それとこれとは話が別だ。
敬愛すべき上司。ジグにとってのミランダはせいぜいそのレベルで、目の前にいる男のように、盲目的な信仰心までは抱いていない。
カーティスの態度が意味するものは、傍から見れば露骨過ぎるほどに明らかだ。だが、ミランダはその様子を気に留める素振りも見せず、二人をかわるがわる見やった。
「急な仕事が入っちゃって。カーティス、ジグ、悪いけど午後の予定は全部キャンセルして、来てもらえるかな」
申し訳なさそうに言われて、カーティスとジグは互いに顔を見合わせた。
「午後の予定は王都警備隊の訓練だけですので、構いはしませんが……」
「俺たちは一体どなたの警護をして、どこに行く予定なんですかね?」
「マグダレク査問官の警護で、ダリアス領に」
朗らかな表情を崩さないまま、世間話をするようにミランダはさらりと要人と土地の名前を口にしたが、二人の騎士はその瞬間に顔色を変えた。
杖を突きながらぷるぷる震えている、腰の曲がった老人を、ジグは半ば抱えるようにして馬車に積み込んだ。外から襲撃を受ける可能性を考慮して、近衛の一人が女官と共に、老人のあとに続いた。
「ほれじゃ、やってくれるかのー。いざ、ダふぃアスにー」
へそから気が抜けるような呑気な声を合図に、御者が馬車を引く馬に鞭を振るった。一声高くいなないて走り出した馬車を、騎乗した十数人の近衛騎士たちが囲んで警護する。
「奇襲と言うわりには、のんびりした出発ですねえ」
最前列を走っているのは、近衛騎士の中でも比較的見栄えがするミランダとカーティスだった。ジグは最後尾を護っている。ミランダがカーティスの言葉に軽く頷いて、手綱を握りなおした。
「今回ダリアス伯をシメるのは、うちだけじゃないからね。主要な証拠はもう全部押さえてあるから、こっちは予告もなくいきなり査問官が出発したっていう情報をあっちに送って、混乱を起こすのに一役買うのが役目なんだ」
シメる、という物騒な単語に、カーティスは顔をわずかに引きつらせた。ミランダの表情は柔和なままで、それが逆に恐ろしい気がする。
「えーと、うちだけじゃない、っていうのは……」
「うん。地星宮も動くから。さすがに黙ってられなくなったらしいよ」
「あー、まあ、時間の問題のような気もしてましたがねえ……五十年は持つといわれた堤が二年で崩壊すれば、さすがに……」
「そうだね。近々査問が入ることは向こうも予測してるだろうから。まあ、証拠隠滅はほとんど出来てないと思うけど」
笑いを含んだその言葉に違和感を覚えて、カーティスは横にいる、馬を並足で進めている少女を見た。
練絹色の髪、赤みがかった茶色の瞳。飛びぬけた美人でもなく、特別不細工というわけでもない、一言で言えば「どこにでも居るような、印象に残らない顔」をしている。カーティスと並んでも見劣りはしないが、輝くような美しさで、人目を奪うこともない。
(それでもよく見ればまつ毛は結構長いし、髪は真っ直ぐで艶があるし)
なかなかお可愛らしい、と結論付けて悦に浸り、すぐにカーティスは我に帰った。今、気にしているのはそこではなく。
「ダリアス伯は、立ち回りがうまいことで有名ですよ。なかなか尻尾が掴めなかったのは、その証拠隠滅術がとんでもない一級品だったからだと聞き及んでおりますが……。それに、たしか、あの地方の地星宮の司祭は、ダリアス伯に抱き込まれていたのでは」
公然の秘密と化しているが、それでも口にする内容がお世辞にも上品とは言えないので、カーティスは声を少しだけ潜めた。彼よりもずっと国の中枢に近い位置に居るミランダが、それを知らないはずはないのだが、何故だか彼女は楽しそうな表情を、少しも変えなかった。
「うん。でも地星宮には、今、次期大司祭が豊穣祭の準備に行ってるから」
「……あー」
なーんだ、という顔をして、カーティスは全身から力を抜く。
「そりゃ逃げられませんね。最強じゃないですか」
カーティスがしみじみと言うのを耳にして、ミランダはたまらずといった様子でふきだした。