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ハルと異世界の地下迷宮  作者: ツマビラカズジ
第一章 始まり
3/169

#003 異世界の言葉

 レンからこの世界の言語と日本語との辞書、言うなれば”和異辞書”を手に入れた俺は食堂の片隅へと移った。

 食堂なら十分な灯りがある。

 その下でなら、辞書を読むことが出来るからだ。

 灯りの魔法に習熟すれば読書灯代りに小さな灯りを灯せるらしい。

 が、俺にはまだ出来ない。

 それに、今の俺にとって魔法の習熟よりも言葉を覚える方が最優先だった。

 

 辞書を開くと最初に平仮名とこの世界の文字との対応表が書かれている。

 それも、随分と小さく綺麗な字で。

 これを書いた人物は几帳面な人だったのだろうか?

 何となくだが字面に人柄が表れているように感じる。

 

 読み進めてみると、意外な事が分かった。

 どうやらこの世界の文字は平仮名と同じ音節文字が使われているようだ。

 一つ一つの文字が音節となっているのだ。

 これであれば読むだけなら直ぐに何とかなりそうだった。

 

 次のページを開くと同じように数字とこの世界の文字が表になっていた。

 ちゃんと零に対応する文字もあるようだ。

 

 その次のページから文法に関する説明が書かれていた。

 それによると、この世界の言語は日本語と同じ語順をとる事が分かった。

 要するに、主語、目的語、動詞の並びが基本的な語順となっている。

「私は肉を食べる」の「私は」主語、「肉を」が目的語、「食べる」が動詞である。

 これはドイツ語やオランダ語、琉球語、アイヌ語、チベット語、バスク語などと同じらしい。

 日本語と同じ語順であれば簡単に覚える事が出来る! ……とは思わないが、助けになる事は確実だ。

 

 更に辞書を読み進めると状況毎の例文が書かれていた。

 朝起きた場合、食事時の会話、買い物、食堂など日常表現に関する事だ。

 勿論、探索時の例文もある。

 それらが十ページ程続き、その後に単語表があった。

 この世界の言葉と意味が書き連ねてある。

 それは数十ページに及んだ。

 

 それらを読み進めると次にこの世界の通貨の説明書きがあった。

 この世界の通貨は価値の低い順で、小銅貨、銅貨、大銅貨、銀貨、金貨で構成されているようだ。

 比率は、250,000:25,000:2,500:50:1である。

 仮に大銅貨を1,000円だとすると、

 金貨は250万円。

 銀貨は5万円。

 銅貨は100円。

 小銅貨は10円と言う事になる。

 金にはかなりの希少価値がある様だな。

 滅多な事ではお目にかかれないのだろう。

 

 俺は最後の一ページを捲った。

 そこにはこれまでの綺麗な字とは異なる字体で書かれていた。

 ひどい……一言で言えばがさつな字だ。

 落書きのようにも思える。

 他人が読める字ではないな。

 これを書いた人はきっと粗野で自分勝手な人間なのだろう。

 探索者ギルドの書庫にあったとレンが言っていたので、誰かが悪戯したのかもしれない。

 

 一通り辞書を読んだ俺は部屋に戻る事にした。

 階段を登り、部屋の前に立つ。

 革袋から部屋の鍵を取りだし、扉を開け部屋に入った。

 寝台に横になっていたロンが眠たげに俺を見つめる。

 そのロンに向って俺は恐る恐る口を開いた。

 

「タ……タダイマ……」

 

 俺の言葉は通じたのだろうか? 発音は日本語英語ジャパニーズイングリッシュ程の出来だとは思うが、イントネーションが大きく異なれば通じない場合もある。

 俺は自身の鼓動が高鳴るのを感じた。

 

 ロンは姿勢を変えなかったが、目を見開いていた。

 そして俺に向って言う。

 

「お帰りなさい」

 

 それを聞いた俺は嬉しさと、えもいわれぬ気恥ずかしさで顔を赤らめてしまった。

 俺の顔を見ていたロンは若干引いている。

 まて! 俺もその気は無い……そんな冷たい目で見ないで!

 

 室内の空気が若干気まづくなってしまったが、俺は取り敢えず寝台に座った。

 そして、今日一日起きた事を改めて思い出す。

 

 エミの誕生日である大晦日、愛し合う直前に足元が光り輝いた。

 そこに現れたのは……現代ではテレビや御伽噺の中でしか見られない魔法円。

 エミとの悲しい別れ。

 

 ……エミ……会いたいよ……

 俺の目尻から冷たいものが流れ出る。

 

 一時(いっとき)、暗闇と喪失感に襲われた。

 その刹那、眩いばかりの光に包まれたかと思うと体が落ちる感覚。

 俺はその恐ろしさに息を呑むが、次の瞬間には地面に打ち付けられていた。

 ありえない方向に曲がる足。

 ひどく傷む頭。

 流れ出す血。

 死を覚悟した俺にレンが駆け付け、回復魔法を掛けてくれた。

 一瞬で治る傷。

 そしてレンの現代ではあり得ない服装。

 

 俺はその時に異世界にいると、おぼろげに理解した。

 

 言葉は理解できず。

 衣服も無かった。

 それどころか、姿形まで変わってしまったようだ。

 ロンやレンの瞳に映る俺はまるで十六、七の青年のようであった。

 

 レンの魔法により、辛うじて意思疎通がとれた。

 御蔭で罪人や鉱山送りにはならず、探索者となれた。

 言葉も分からない、身元も確かでない、全裸な俺。

 明らかな不審者だ。

 

 その俺をレンは救ってくれた。

 本当に有り難い事だ。

 もし俺が現代でレンと同じ立場に立ったとしても、見ず知らずの不審な男を助けるだろうか?

 否! 決して助けたりはしないだろう。

 警察に通報して終わりだ。

 レンはそう言う意味で、俺の本当の命の恩人と言っていいだろう。

 例えどの様な事があっても、もし俺に出来る事があれば、俺はレンの力になろう。

 

 そして地下迷宮。

 レンに誘われるまま、魔法を習得する。

 そのまま地下迷宮の一階に下り、大ナメクジを駆除した。

 証拠部位と魔力結晶を得るために大ナメクジを短剣で捌いた。

 あの時の臭いとぬっちょりとした感触は出来るだけ早く忘れたい……

 

 そう言えば、地下迷宮から出てから風呂に入ってない。

 槍を振り回したのだ。

 汗は結構掻いた。

 俺は恐る恐る自分の臭いを嗅いでみる。

 

 ……臭い。

 

 このまま寝るのは酷く気持ち悪い。

 俺は風呂に無性に入りたくなった。

 だが、ここは中世ヨーロッパを彷彿とさせる世界だ。

 多分だが、風呂は王侯貴族だけに許される贅沢ではないだろうか?

 俺が思案に暮れていると、広場の鐘楼から鐘の鳴る音がした。

 鐘が鳴った回数は都合四回。

 あの辞書には”四度なる場合は九時”と書いてあった。

 

 ……と、そんな事よりせめて水で汗を流したい。

 ロンに聞いてみるか。

 

「ロン、オレ、カラダ、キタナイ。オレ、カラダ、クサイ」

 

 俺は辞書を開きながら、たどたどしくロンに話し掛けた。

 するとロンは、(すぐ)に理解してくれたようだ。

 

「風呂、行く?」

 

 ロンは俺にも分かり易い様に言葉を区切って答えてくれた。

 俺は急いでそれを辞書で調べ意味を理解する。

 風呂あるのか! 俺は嬉しくなり大きく頷いた。

 するとロンは自分の革袋から大銅貨を一枚取り出し、俺に見せた。

 次にロンの背嚢から布きれを二枚取り出し、その一枚を俺に渡した。

 

「風呂、大銅貨一枚。これで、体、拭く」

 

 入浴料は大銅貨一枚か……地味に高いな。

 風呂に使うと残り大銅貨三枚。

 明日の三食に使うと無一文になってしまう。

 節約の為、一日二食にするべきだろうか?

 風呂を諦める選択肢は……今の俺には考えられない。

 

 取り敢えず、俺はロンに対して了解の意を込めて頷いた。

 ロンは俺に革袋を忘れない様に指摘した。

 如何(どう)やら部屋に置きっぱなしは危ないようだ。

 俺は布きれと財布代わりに使っている革袋を持ってロンと一緒に部屋を出た。

 

 風呂はギルドの簡易宿泊施設に隣接していた建物にあるらしい。

 その建物の前には呼び掛け人が客引きをしている。

 俺とロンはその男の側にある扉を開け、中に入った。

 刹那、熱気と共に、酒の匂いが俺の鼻を強かに襲う。

 

 中は風呂上りなのか、顔を赤らめた男女が美味そうに葡萄酒をあおっていた。

 よく見ると奥にある小さな出入り口から出てきた人が葡萄酒の入った杯を貰っている。

 金を払っている所を見ないので、入浴料に含まれているのだろう。

 

 俺はロンに従い、奥に進んだ。

 小さな出入り口を屈んで通ると、そこは物凄い熱気に溢れていた。

 次に俺は中にいる人に目を奪われた。

 出入り口が一つしか無く、男女が共に出て来ていた為もしやと考えていたが……

 

 そこは男女が共同で使う蒸し風呂であった。

 教室よりやや広い程度の室内に、大きな石組みのストーブのような物が等間隔で置かれている。

 床は街路より深い切れ込のある石造りで出来ていた。

 

 炎の焚かれている石組みストーブから天井に向けて管が伸びている。

 その周囲は腰ぐらいの高さの柵で囲われている。

 謝って触らぬ様にしているのだろう。

 火傷を防ぐ為に。 

 その囲いの(そば)には水瓶と灰汁の入った瓶が置いてある。

 

 俺より先に入っていた女が服を脱ぎ、腰に布を巻き始めた。

 足には革で編まれたサンダルブーツを履いている。

 俺がレンから貰ったものと同じ物のようだ。

 

 彼女は水瓶から水を掬い、脱いだ服に掛ける。

 次に隣の瓶から灰汁を掬い、同じように服に掛け、しごき出した。

 どうやら洗濯をしているようであった。

 しかし、乾くのだろうか?

 

 よくよく周囲を見ると、どの柵に衣服が掛かっている。

 なるほど。

 石組みストーブの熱で乾かしているのだ。

 今着ている薄い衣服なら短時間で乾くのかもしれないな。

 

「ハル!」

 

 ロンに呼ばれた俺は、慌ててロンの方へ急いだ。

 ロンは既に衣服を脱いでいた。

 思わず尻尾の付け根に視線を向けるが、それに気付いたロンが隠すように体の向きを変えた。

 俺が残念そうにしていると、ロンが早く脱ぐようにと急かすのか俺の服を引っ張る。

 衣服を脱ぎ、腰に布を巻くとロンが洗濯を始めた。

 ロンは衣服を痛めない様に、丁寧に洗っていた。

 俺はそれを真似て、衣服を洗う。

 灰汁は意外にも良い香りがした。

 何かの花や香料を混ぜているのだろうか? 不思議な香りだ。

 

 ロンは服を洗い、水を絞ると石組みストーブの柵に衣服を掛けた。

 そして、また灰汁を掬い、頭と体に掛ける。

 髪と尻尾を服と同じように丁寧に洗い出した。

 俺は灰汁で頭や体を洗う事に戸惑ったが、他に石鹸がある訳でも無いので仕方なく真似た。

 灰汁から花の香りがするのが救いだ。

 良く汗の掻いた頭と体を念入りに洗い、水瓶の水を掬って灰汁を流した。

 

 身綺麗になるだけで生きた心地がする。

 蒸し風呂でやる事を一通り終えた俺は再び周りを見渡した。

 良く見るとロンのような犬の亜人の他に猫や角のある亜人がいる。

 また、ギルドで見たのとは別のエルフ女や髭が生え、樽のような体格のドワーフと思わしき者もいる。

 

 するとロンが俺の視線を遮る様に前に立った。

 その顔が見た事も無い程に険しくなっている。

 

 ロンは自身の目を指し、次に胸や股間、尻尾を指さし、遠くを見るように手で庇を作るボーズを取った後、首を切るような仕草をした。

 ……言わんとしていることが分かった。浴場で不躾に人を見ると、死ぬ? と言う事だろう。

 俺は慌てて視線を石組みストーブに移した。

 

 暫くすると衣服が乾いた。

 衣服を着る前に布で新たに湧き出た汗を拭う。

 

 蒸し風呂の部屋を出ると、ロンがカウンターで杯を二つ受け取っていた。

 一つを俺に渡し、腰に手を当てて一気に飲み干している。

 酒の匂いがきついのに、アルコール度数はそれ程高くないのだろうか?

 俺はそれを見たが、一気に飲む気にはなれなかったので少しずつ飲むことにした。

 

 一口飲み、俺が思ったのは、薄い! だ。

 葡萄酒を水で割った物だろうか? 酒の匂いがきついのに、不思議と味は薄い。

 正直、余り飲みたい味ではない。

 

 だが、中世ヨーロッパでは水が貴重で水代わりに葡萄酒を飲んでいた時代もあったと聞く。

 それに風呂上がりだ。水分の補給も重要だろう。

 俺は我慢して薄い葡萄酒を飲み干した。

 

 部屋に戻った俺達は直に寝台で横になった。

 ものの五分も経たない内から、ロンの寝台から寝息が聞こえる。

 流石に疲れたのだろう。

 何と言っても、重い槍を担いで半日も地下迷宮を彷徨い歩いたのだ。

 

 だが、俺は不思議と眠くない。

 一体どうしたのだろうか?

 ……今日は分からない事が多すぎる。

 地下迷宮……本当に元の世界に戻る為の魔法があるのだろうか?

 この世界に俺を呼び寄せたのは誰か? その目的は?

 俺の姿形が変わった理由は何だ?

 

 ……俺は答えの出ない問いに時間を割くのを止め、少しでも早く言葉を覚える事にした。

 

 

 

 遠くで鐘の音がなっている。

 どうやら俺はいつの間にか寝ていたようだ。

 空の明るさと鐘の鳴る回数を鑑みると今は朝六時なのだろう。

 

 今日は地下迷宮には入らないらしい。

 入るのは明日だ。

 俺がレンに言われたのは、少しでも言葉を覚えること。

 その為には何をすべきだろうか?

 まず挙げられるのは字を覚える事だが、これは大丈夫だ。昨日の内におおよそ理解した。

 次は基本単語を覚える事。

 それとその正しい発音だろうか?

 後は基本的な会話だ。

 これは実際に意思疎通を図っていないと駄目だろう。

 

 つまり、正午までは座学。

 午後からは商店を巡り、簡単な会話を試みてみよう。

 ついでに、背嚢(はいのう)や生活必需品の価格を調べておきたい。

 特に歯ブラシ、コップが欲しい。

 

 ……そう言えば、衣服代はレンに徴収されたが槍と短剣は支給品なのだろうか?

 有料だとしても徴収された大銅貨十五枚に含まれていて欲しい……

 

「ハル、おはよう」

「オ、オハヨウ、ロン」

 

 びっくりした。いつの間にかロンが起きていた。

 ロンが布を取り出し、顔を洗う仕草をする。

 俺はそれに頷き、ロンに貰った布を手に取る。

 蒸し風呂から帰る途中に返そうとしたのだが、

 

「あげる」

 

 と言われた。

 布はそれ程貴重では無いのだろうか? それとも何も持ってない俺に憐れみを感じたのか……

 まぁ、兎に角、猫糞(ねこばば)を決め込んだ訳では無い。

 一階の中庭に連れられると、そこには井戸があった。

 既に数名、井戸水を汲み上げ顔や体を湿らした布で洗っていた。

 なる程、蒸し風呂に入らなくても、ここで体に着いた汚れを洗い流せるのか。

 男も女も上半身だけ服を脱いでいる。

 魅力的な体だ……

 俺は余りジロジロ見ない様に視線を彷徨わせながら、顔を洗った。

 決してチラチラと覗き見てはいない。

 

「冷たっ!」

 

 水は驚くほど冷たかった。

 だが、その水を顔に掛ければ不思議と心地良く感じる。

 それはこの街が亜熱帯を彷彿とさせる気候の所為なのかもしれない。

 街を行き交う人の大半が半袖と膝丈のズボンを穿いている事からも分かる事であった。

 

 顔を洗った俺達は食堂に向かった。

 大銅貨一枚を出し、出された料理は昨晩の物と同じ献立だった。

 ……残り物?

 大銅貨一枚も出すのだから、違う物を食べたいと思うのだが、ロンは不満そうな顔をしていない。

 これはこの世界では普通なのだろう。

 俺はこの世界に慣れなくてはいけない。

 受け入れよう。食べれるだけいいじゃないか。

 そう自己暗示を掛けた俺は、黙々と食べ進めた。

 

 部屋に戻るとロンは槍を持ち、俺に話し掛けて来た。

 

「槍、練習」

 

 槍の練習? 大ナメクジ相手だが、それ程槍の技量を問われる状況にはならなかった。

 将来的には必要になるかもしれない。

 だが、俺には言葉を覚える事こそが急務であった。

 俺は申し訳なさそうに答えた。

 

「言葉、練習、したい」

 

 おお! 今のは結構いい発音が出来た気がする。

 これなら意外と早く流暢に話せるようになれるのでは!

 一人盛り上がる俺を他所に、ロンは寂しそうに部屋を後にした。

 ……許せ、ロン。お前の好意は無にしない。

 俺は正午の鐘が鳴るまで、一人言葉を学び続けた。

 

 

 

 正午を知らせる鐘が一度鳴ると、俺は街に出掛けた。

 広場から東西南北に大通りが延びている。

 各々幅が五十メートルはあるだろうか?

 北に延びる大通りの先には大きな白亜の城が見え、逆の南には大きな門が見える。

 城に向かう北大通りには高級店が立ち並んでいるだろう。

 ならば俺の向かうのは南大通りだ。

 辞書を片手に南大通りを進む。

 すると分かったのだが、南大通りには宿屋が多い。

 宿屋と言っても、一階は大衆食堂兼パブ兼受付。

 二階から上が宿泊施設になっているようだ。

 食事は大銅貨一枚だが、宿泊費が別途大銅貨五枚必要になるらしい。

 今の俺の収入ではとてもではないが暮らしていけないな。

 

 暫く行くと、雑貨屋と思われる店を見つけた。

 俺はその店に入り、背嚢を探した。

 

「ハル!」

 

 背後から俺の名前を呼ぶ声がする。

 その声から誰だか直に分かった。

 レンだ。

 俺が辞書を持っているのを見て、満足そうに頷いている。

 

「何を探しているんですか?」

 

 レンが思考転写を使わず、普通に話してきた。

 

「背嚢、杯……」

 

 歯ブラシが分からない。

 辞書にも書いてなかった気がする。

 仕方なく歯を磨く仕草をすると、

 

「あぁ! 房楊枝ですね」

 

 房楊枝と言うのか。

 後で辞書に追加しておこう……駄目だ。

 筆記用具も無い……

 

「私の使わなくなった背嚢や杯と余っている房楊枝などの日用品で良ければお譲りしますよ」

 

 長文はさっぱり分からん。

 だが、何となくニュアンスは掴めた。

 多分、背嚢と房楊枝を貰えるようだ。

 

「あ、ありがとう」

 

 俺の言葉にレンは優しく微笑んでくれた。

 そして、夕方六時の鐘が鳴った後ならギルドにいるので寄って欲しいと言っている気がする。

 俺が頷くと、レンは颯爽と店を後にした。

 そう言えば、レンは何でこの店に来ていたんだろうか?

 

「お客さん、何をお探しですか?」

 

 俺に話し掛けた声は心地良く響く笛の音色を思わせた。

 その声の主を見る為、俺は振り返る。

 そこには細長い耳を持つ、美しいエルフ女が佇んでいた。

 思わず見惚れる程の美しさだ。

 絹の様に艶やかな薄黄緑色の髪、透き通る様な白い肌。瞳の色はエメラルドグリーンであった。

 背は今の俺より僅かに高く、体の線は細く、だがしなやかに感じる。

 胸は十分な大きさを誇っていた。

 何よりも驚く事は、体の線がはっきりと表れるタイトなワンピースと思わしき衣服を身に纏っている事だ。

 ……眼福です。どうもありがとうございます。

 

「……背嚢、いくら?」

 

「新品ですので……百ガルです」

 

 高い! いや、現代で言えば一万円だ。

 革加工品だし、むしろ安いのかもしれん。

 だが、大銅貨十枚はちょっと……

 俺の沈み込んだ顔を見た美人エルフ店員は申し訳なさそうに言葉を紡いだ。

 

「……と、特別ですよ、八十ガルではどうですか?」

 

 なんと、二割も引いてくれた。

 ありがとう、美人エルフ店員。

 だが、俺の全財産は二十ガルだ。

 大銅貨二枚。

 しかも、今日の夕食と明日の朝食で一枚ずつ使う。

 俺は首を横に振り、その店を後にした。

 所詮、冷やかしだ。

 美人エルフ店員の時間を無駄にするのも気が引けるからな……

 ……しかし、レンの目的はあの美人エルフ店員だったのだろうか? ギルドのエルフ女といい、レンはもてるのだな。羨ましい限りだ。

 

 その後も、幾つかの道具屋、雑貨屋、もしくは古着屋と思われる店に入り簡単な意思疎通に挑戦した。

 その結果、意外と言葉が通じる事が分かった。

 ただ、相手の言っている事が理解しずらいのが難点だ。

 長文で無く、単語や短文であれば何とかなるのだが。

 それは少しずつ慣れていくしかないか……

 そうこうしている内に、鐘楼の鐘が三度鳴る。

 六時だ。

 

 俺は南大通りを北に進み、探索者ギルドへと向かった。

 ギルドに入った俺は、前回同様閉じられたカウンターを目指す。

 案の定、エルフ女が俺に気付きレンを連れて来てくれた。

 レンの手には使い古された背嚢が下げられている。

 カウンターに着いたレンが、鉄格子越しに背嚢を俺に渡した。

 

「見ての通り使い古しの背嚢ですが、新しく買うよりはいいでしょう?」

 

 勿論だ。

 今の俺に大銅貨十枚は大金だ。

 今後探索者を続けるにあたって何が必要となるのか、皆目見当もつかない。

 お金は大切にしなくては。

 手に持つと意外と重い。

 どうやら中には何かが入っているようだ。

 

 俺が中を覗くと、背嚢には金属製のマグカップ? に布きれ、木の棒? などが入っていた。

 木の棒? 以外の使い道は分かるが……

 レンに聞いてみるとこれが房楊枝と言う物らしい。

 使い方を聞くと、端を噛み潰して繊維状にし、それを歯ブラシの様に使うとのこと。

 

「ありがとう、レン。助かる」

 

「どういたしまして。ハルには何としても地下十階層まで行って貰いたいですから」

 

 また長文。

 だが、多分地下十階まで行けと言っていたのだろう。

 何故だろうか?

 分からない事は聞くしかない。

 

「何故?」

 

 俺は端的に質問した。

 だが、返ってきた答えは、

 

「内緒です」

 

 だった。

 ……大丈夫だ。レンは命の恩人だ。

 俺に不利益がある事をする理由が無い。

 信じろ。

 レンを信じろ、俺。

 

「あっ、深刻に考えないでください。ここだけの話ですが、私に報奨金が出るだけです。額は秘密ですけど」

 

 なんだ、そんな事か。

 人材をスカウトした成果報酬みたいな物だろうか?

 

「それに地下十階層まで行ける実力があれば、探索者として一人前ですからね」

 

 地下十階層の魔物を駆除出来れば、探索者用宿泊施設を出ても困らないほどは稼げるとの事であった。

 ならば何としても地下十階層までは到達しなくてはいけない。

 その為にはどうすればいいのだろうか? 武器を買い替えるか? 防具を買うか?

 分からないなら聞けばいい。

 

「槍で大丈夫? 剣いらない?」

 

 俺の言葉にレンは首を曲げた。

 

「剣だと簡単に反撃を受けます。短いですからね。それよりも、槍と魔法の扱いを学んだ方が良いと思います」

 

 今の長文は分かった! この世界に来てから物覚えが良くなったのだろうか?

 元いた世界ではあり得ないスピードで言葉を習得している気がする。

 しかし、ファンタジーと言えば剣で魔物を薙ぎ払うのが定番だがこの世界では違うらしい。

 であれば、槍と魔法を上手く扱えるようにするしかない。

 

「槍、魔法、学びたい」

 

 俺はレンに伝えた。

 生き残る為にも。

 レンは分かりましたと頷いた。

 

「探索の無い日の午前に槍の講習があります。勿論、無料です。ただ、魔法は地下迷宮で使える魔法を増やす必要がありますね」

 

 槍の講習か。

 今朝、ロンが言っていたのはこれの事だったのだろう。

 出た方が良かったのだろうか? いや、あの時の判断に間違いはない。

 言葉こそ最重要だった。

 

「ありがとう。明後日出てみる。魔法はどうして?」

 

「複数の魔法円を同時に出せないと魔法の講習に参加できないからです」

 

 レンの説明によると、魔法円を組み合わせて威力を増す事を学ぶらしい。

 また、最低限覚えるなければいけない魔法もある。

 

 しかも、魔法の融合っぽい。

 なんだが、胸に熱い物が込み上げてくるな。

 俺は再度レンに礼を言い、ギルドを後にした。

 

 部屋に戻るとロンが夕食に行くと言う。

 どうやら俺を待ってくれていたようだ。

 食べながら会話する事により、言葉の練習にもなるだろう。

 俺は喜んでロンと夕食を共にした。

 ちなみに、夕食のメニューは肉の種類は違えど同じ内容であった。

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