#121 地下九十九階
「ほぼ一昼夜に渡る戦闘の後ゆえに仮眠を取る! 休め!」
地下九十九階の転移部屋。
その中心でオネシマス団長が声高に命じた。
そして俺は知る。
先の戦いが二十四時間にも及んでいた事実を。
……幾ら何でも長すぎる……
俺がそう考えた直後、様々な生理現象を伴う欲求が津波の如く押し寄せて来た。
それは眠気、空腹、排尿、排便などであった。
……残念ながら俺には性欲が無い。
いや、あるにはあるのだが……完遂出来ない。
レンによる魔法”言語理解向上魔法(永久)”の所為で、妻以外の女に反応しなくなったが為に。
ああ、一刻も早くエミに会いたい。
そして我が体の奥底に溜め込んだ、十年にも及ぶ期間に熟成された、エミへの愛情を迸らせたい。
俺はその事だけを考えてこの一年間、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできた。
だがその前に……出すべきものがあった。
俺はそれを果たす為に”転移門”の魔法円を描く。
その先に、同じ地下迷宮とは言え人気のない場所に、俺の求める”心のオアシス”があるのだから。
生理現象の一部を処理した俺は食事の支度をする。
それは他の者達も同じだ。
めいめいすっきりした表情を浮かべつつ、準備を進めていた。
いや、ただ一人異なる事をしている者が。
それはエグバート。
彼は何故か、転移部屋の奥、俺達から最も離れた場所で野外用の天幕を張っている。
……周りが明るいと眠れない……とか? まるでノエルとジョエルだな。
俺はその時、深く考えもせず、自らの食欲を満たすために勤しんだ。
何時しか、俺を除く討伐隊の面々が寝息を立てだす。
いや、俺もほんの僅か前にはウトウトし始め、横になっていたのだ。
ところが、体を横たえた直後に異変を俺の耳が捕らえた。
それは、何かを強く吸う音と、
「んっ……はぁ……あっ……」
それに応える”女の声”であった。
……いや……そんな馬鹿な……奴にとって”処女性”は何よりも大切な筈。
出来る訳が無い。
しかも他人が近くに居るというのに。
そもそもだ。
如何に魅了の支配下とは言え、抗えないものだろうか?
アリスは俺に思いを寄せて……
だがしかし?
俺は半年以上もの間、アリスをないがしろにしていた。
新月の夜に会おうと約束していたにもかかわらず。
その所為で、吸血鬼の魅了により深く支配されてしまったのだろうか?
心無い相手に、自身の身体を弄ばれても平気なほどに。
……であるならば、尚更許すまじ!! 吸血鬼め! 必ず成敗してくれるわ!
それでも……あぁ、俺のアリス。
初めて出会った時は、勝気な、そこがまた可愛いウサギちゃんだった。
彼女からその熱い気持ちをぶつけられた時は嬉しかったと同時に……困惑もした。
なんせ”エミ”の名前をチラつかせられたからな。
何でアリスがその名を知っているのかと。
その直後、俺はアリスと夜を共にした。
無論、俺はEDだ。
最後の一線は超えられない。
それでもその時の俺達は二人は……いや、リリィもいたか……
俺達三人は心を通わせた筈。
……あれ? 俺なんか変な事言ってるな。
そんな状況で一人の女を愛せるか……
答えは勿論……ノーだ。
そもそもあの時はただ、マンドラゴラを基にした秘薬の為、快楽を追い求めていただけなのだから。
それにだ。
俺とアリスの関係はその日限りの、思い出づくり? であった。
主にアリスのな。
俺は友人として仕方なく? 抱いた。
いや、これは語弊がある。
抱く事を前提に、マンドラゴラの秘薬を飲んだのだから。
アリスを抱きたいと確かに思ったのだから。
だが……やはり、愛し合っていたかと問われれば……ノーだな。
俺の心は今でもエミと共にある。
つまり……遊びだった?
ありていに言えばそうだ。
リリィ達と同じだ。
言い方は悪いが……余りの肌寂しさに近くにいた女で間に合わせたのだから。
それでも、俺の情はアリスに僅かに残る。
それは肌を激しく重ねたが故の必然であった。
だからこそ、俺はアリスの事が気にかかっていた。
極稀に会うアリスに求められれば応じていた。
最後の一線を越えぬ限り、俺はエミに対しても操を立てていると信じていたからだ。
次第に俺はアリスを女として見る様になった……か?
まぁ、女としては確かに見ていたが……それだけだ。
やはり、俺の周りにいる……俺から見れば都合の良い女の一人でしか無かった。
騎士団の同僚であり、従士時代からの同期であり、共にパーン先生からの薫陶を受ける剣士仲間としてのな。
それでも、彼女が吸血鬼に魅入られ、”城”の了解の下彼女を差し出す事になったと聞いた時は怒りに我を忘れそうになった。
あの時の気持ちに偽りは無かった……
俺が悶々とする気持ちを抑えつつ、決意を更に強固なものへとしていると、
『ハル、何を気持ちを高ぶらせているのですか?』
突如レンの声が頭に響く。
俺は余りの事に驚き、
『えっ!? いや……ちょっと妙な音が気になって……』
と上手く誤魔化せたとは言い辛い返答をした。
何と言うか……実の息子に知り合いがお楽しみ中だと知って……とは言えない……よな?
だが、レンは言った。
『あれはそう言う事をしている訳では有りません。吸血鬼はその血を得る時、対象を快楽の海に落とすのです』
事もなげに。
……そうなの? 聞いた事ないけど……
それを聞いた俺は何故だか気恥ずかしくなる。
故に、俺は返す言葉に詰まっていた。
すると、
『いいですか、ハル? 明日はこの、”クノスの地下迷宮”最強の魔物、”古代竜レギオン”と相対します。少しでも魔力の回復や英気を養ってください』
俺を諭す。
そして、再び寝息を立て始めた。
しかし、俺はレンに続く事がままならなかった。
EDな俺に昂った気持ちを散らす術が無かったからだ。
「よく眠れなかった様じゃな」
俺の体調が優れない事にすぐさま気付いた師匠。
何故分かったのかと俺が問うと、
「わからいでか! お主の顔に全て書いておるわ!」
師匠は言い放った。
そりゃあ、そうだろうな。
俺は十分な仮眠を取る事が叶わなかったからだ。
あの……アリスの声が耳を離れ無くて……
だが、それを言い訳には出来ない。
騎士たる者、探索者たる者、如何なる状況、如何なる心境であっても休むべき時は休むべし。
そう教えられてきたからだ。
「まったくだらしのない……そんな事だから母さん以外の女性に目移りしてしまうんですよ。そもそも、あんな事を良く出来ますよね」
「え!?」
な、何を言っているのか分からない……いや、レンが言いたい事は分かるが、アレが汚らしい? 事の様に言う。
俺にはそれが理解できなかった。
この世界に来て既に六百年を経過している、”勇者レン”の言葉とも思えない。
彼ほどになれば幾らでも女から言い寄って来ただろうに……
これが所謂……潔癖症というやつだろうか?
だが、俺はそれ以上口を開かない。
これ以上レンに嫌われる事を恐れたからだ。
また、それだけで無く、転移部屋の奥に設けられた天幕、そこから二人が現れたが故に。
二人の、充実した顔が俺の心に更なる影を落とす。
おまけにエグバートの奴は俺の顔を見てはニヤつきを返してきた。
それどころか、
「言ったでしょう? 私は種族柄耳が良いと」
と音を出さずに口だけパクパクと動かす。
それを見た瞬間、俺の頭に血が上った。
奴を地獄に落とす夢を、この手で首を締める幻影を垣間見る。
しかし、その陰鬱な考えは中断を余儀なくされた。
オネシマス団長が声高に話し始めたからだ。
「うむ、全員揃った様だな。では地下九十九階の攻略へと向かう。その前にレン!」
「はい、オネシマス団長。この階層の魔物に関して話します。それは”古代竜レギオン”。且つては”竜王”とも呼ばれた存在です」
……それが何故地下迷宮に? とは愚問だ。
それを言ってしまえばフェンリルやヨルムンガンド、世界樹、巨人兵器も例に漏れず、どの様な経緯でここにいるのかがさっぱり分からないのだから。
考えるだけ無駄と言うものだった。
レンは淀みなく、過去に知り得た情報を俺達に伝えている。
「……と言うように、非常に力が強いだけでなく、強固な鱗でその身体を覆っているので防御力も高い。にもかかわらず、その巨体をまったく感じさせない素早い動きをします。苦戦は必至ですね」
彼は一度、古代竜レギオンと戦った事があるしな。
数百年前……”管理者”を倒す際に。
その次にエミがレンを倒し管理者となった。
次は俺の番……か。
あぁ、こればかりはやりたくは無い。
だが、他に方法は無いとレンは言っていた。
他の者では地下迷宮を制御するには適わない、と。
しかしだ。
何故俺達が、俺達家族がその役目を担わなくてはならんのだ?
ありていに言えば異世界の事など知った事では無い。
この世界の事は、この世界の者達に委ねれば良いではないか。
それが、俺の率直な気持ちだ。
家族三人揃った所で、さっさと元の世界に戻る方法を探し出し、おさらばする。
そうるすのが普通だろう。
俺達家族は……控えめに言っても、この世界の者に”拉致”されたも同然なのだから。
それでも俺は、エミによってこの世界に召喚された事実を知る前は、この世界に溶け込もうと努力した。
少なくない人々とも交友関係を築いた。
不本意ながらも騎士団という為政者の側に入った。
これは後から考えれば良かった。
何と言っても、巨大な力を持つ俺が、結果的にとは言え、領主様と懇意な存在となったからだ。
それが無ければ……もしかしたら暗殺されていたかもしれない。
時の為政者を力でねじ伏せる事が可能な存在など、在ってはならないのだから。
……話がそれた。
つまるところ……本当に如何にもならないんだろうか?
このままでは完全に詰んでしまう。
三人が順番に管理者をするとなれば……例え元の世界に戻る方法を発見したとしても帰れなくなる。
だってそうだろう?
地下迷宮を安定化させるためには俺達しかいないのだから。
……はぁ……本当に……何とかならないのだろうか?
「ハル!? 聞こえてないんですか? 先のヘカトンケイル、その事もあってここの魔物が変態するか否かを話し合っているのですよ? ハルはどう思っているのですか?」
俺の思考は唐突に打ち切られた。
そして、俺にとってもどうでも良い事を問うレン。
だからだろう。
俺は適当に答えてしまった。
「するんじゃね?」
と。
「なっ! 何ですかその他人事な返答は! 誰の所為でこんな事に頭を悩ませていると思っているんですか!」
え? いや、俺の所為じゃないし。
よくよく考えれば、アレクシスがやった事だし。
……まぁ、アレクシスはアレクシスで俺の事を思ってやったわけだが……あれ? やっぱり俺の所為?
「まぁまぁ、レン殿。落ち着くのじゃ。いずれにしても魔物が変態する事を前提に策を練るしかあるまいて。じゃから言うておく。我が大盾の神器。それが内包する力は後二回しか使えぬ。故に、倒した直後に異変を感じた時にしか使えぬと思うて欲しい」
「うむ、仕方があるまい。多重大障壁などで堪えよ。レン……他に何かあるか?」
「……ありません」
「他の者も相違無いか?」
「ええ、私達には特に……ドゥガルドを除く者で竜の周囲を包囲し、何方かの光る槍で倒す。力押しには変わりありませんから」
エグバートのその言葉で、俺は作戦のあらましを初めて知った。
俺は相当に集中を欠いていたようだ。
そしてまた、俺は魔槍スコーピオンに魔力を限界まで込めるらしい。
まぁ、今ではそれが一番計算しやすい戦い方なのだろう。
何でも斬れるようだからな。
それにしてもだ。
魔力の回復具合が芳しくない。
よく眠れなかった為か、何となくだが……半分にも満たない感じだ。
良くて四割ほどだろうか。
一度”魔槍スコーピオン”が白銀色に輝くまで込めると、後はカツカツだな。
下手すればその直後に気絶するかもだ。
古代竜が変態して、俺の槍でなくば倒せないとなると不味い。
しかし、俺の懸念を他所に彼らは準備を整えていた。
師匠ドゥガルドによる”祝福”を俺達に施して。
「良いかな? ではこれより地下九十九階、守護者の下に参る。進発!」
オネシマス団長の猛々しい声が転移部屋の中に木霊した。
”古代竜レギオン”。
遥か昔、”竜王”とも呼ばれていた。
俺はかの者の姿を直接見る前は、緑色をした鱗に覆われた、所謂ところの”ドラゴン”を想像していた。
だが違った。
古代竜は王者に相応しい風格と姿形を伴って現れたのだ。
それはレンの漏れ出た声にも含まれていた。
「なっ……水晶に覆われたドラゴン……」
その言葉に、レンが以前見た物と違う事がようと知れる。
それと同時に、先程行った作戦が何処まで生きるのかと思い巡らせた。
刹那、
『作戦に変更は無い! 進め!』
オネシマス団長の声が心に響く。
しかし、この直後、もう一つの声が届いた。
それは聞いた事も無い声色で俺達に聞こえてくる。
『矮小で脆弱な人間よ。我が寝床に押し入りし虫けらよ。且つて我が心を、我が誇りを傷つけし者よ。我こそは”超古代竜レギオン”。今こそその罪を償え! 苦痛にもがき苦しみ、愚行を悔やみながら死ぬがよい!』
……最後の言葉はレンに向けられた物だろう。
それに……超?
だが、そんな事はどうでも良い。
俺達はその余りに強大な”力”の片鱗と底が見えぬ程の勘気に触れ、その為に一歩も進めないでいた。