#112 贄を捧げよ! 罪から解き放て!
火帝歴 三二〇年九月某日
地獄。
生ある時に大罪を犯した者が堕ちる場所。
一つの大罪を許される為には一万年に及ぶ責苦を耐えねばならない。
その時に発する悲鳴は空気を震わせ、踏み鳴らす脚は地を揺らし、流した血は河を形作る。
ここ、地下九十五階もそうであった。
止む事の無い悲鳴や叫び声、目に映りしは厚く垂れ込めた雲、鼻をうつは硫黄を中心とする悪臭。
血の様に赤い、溶岩の川。
空を見上げれば、その大翼を伸ばし、旋回している
「怪鳥ジズ……」
が俺や、俺に襲い掛かろうとしている魔物を遥か高見より狙っていた。
「ふっ、誰が貴様にくれてやるかよ……」
俺の心は際限なく荒んでいる。
それが独り言にも表れていた。
俺は魔槍スコーピオンをさり気無く構える。
槍先は真上を向いていた。
そこに、怪鳥ジズの影が俺を覆うように差し掛かる。
その刹那、俺は魔槍スコーピオンの槍先を伸ばした。
刃先は間違いなく魔物を捕らえ、その重みが手に届く。
俺は間髪入れずに、魔槍スコーピオンの刃を巨大化させた。
その為、怪鳥ジズは内部から切り裂かれる。
溢れ出た血は雨の如く空から降り注いできた。
それだけで無く、つい先程まで怪鳥ジズであった巨体も堕ちて来る。
それらは俺のいる場所から百メートル程離れた場所に、大音と共に落着した。
それと同時に、何処からともなく新たに現れたのが、
「今度は……悪魔の口……か……」
であった。
人で言う頭部の無い身体には、黒く、ヒトデの様な足が四つ付いていた。
それを器用に動かし、時には羽ばたかせながら移動する。
それだけでも十二分におぞましい姿ではあったが、それ以上にその口が気持ち悪かった。
黒くて丸い胴体の中心には巨大な、赤く腫れぼったい唇が一つ。
その周囲にも、大きさこそ小さいが、同じ形をした口が何十、何百と付いているのだ。
その”悪魔の口”が”怪鳥ジズ”であった物に群がり、覆い隠さんとしていた。
無数の口が付いた表面を怪鳥ジズの体表に押し付け、無数の口が一斉に咀嚼を始める。
すると俺は”悪魔の口”の背をどうしても見る事になる。
そこには握り拳一つ分もあろうかと思われる大きな”目”が一つ、付いているのであった。
当然、その”目”は俺の姿を捉える。
束の間、奴等は咀嚼を止めたかと思うと、口の中の物を素早く飲み込み、口を裂けるかと思わんばかりに口角を押し上げ、
「ヒィーッ!」
と声を発しながら、俺に向かって一斉に襲い掛かって来た。
「ああ、そうだろうよ!」
それを見た俺は、散開して襲おうとしている”悪魔の口”に対し、
「十光輪!」
を投げつけ、その行動範囲を狭める。
次に、魔槍スコーピオンを中段に構え、
「乱れ真空突き!」
を放った。
この技を端的に表すと、真空斬りの突きバージョンだ。
それによって狭い範囲に纏まった”悪魔の口”が衝撃波によって次々に貫かれていく。
それでも近寄る物には、
「光剣全斬!」
「光剣全貫!」
で、魔物を紙の様に斬り伏せていった。
やがて”これは敵わじ”と見たのか”悪魔の口”は一斉に逃げ出す。
だが、奴等を生かしても俺の不利益にしかならない。
何時ぞやなぞ、後をつけられ、ほんの一瞬気を抜いたところを来襲してきたからだ。
「逃すか!」
俺は逃げ惑う魔物の位置を”魔物感知”魔法にて正確に把握し、その背に向けて回避不可能な”魔法の矢”を幾筋も放った。
「クッソーッ! よりによって……”悪魔の目”の後にこいつ等の相手を……」
俺はつい先ほど、”悪魔の目”によって石化され、回復したばかりの左腕を摩りつつ愚痴を零す。
その目にはこの”地獄”において、”ドラゴン”や”イフリート”、”ディジニ”に並ぶ強敵が一体映っていた。
赤い目は六つあり、それぞれがカメレオンの目の如く、互いがあらぬ方向に向いている。
口は閉じていても巨大な犬歯が四本外に出ていた。
背にはワイバーンの如き翼、薄灰色の肌には無数のイボができ膿んでいる。
その為か、マスク越しにも酷い悪臭が俺の鼻に届いていた。
体は筋肉で満ち溢れ、四肢は丸太の様に太い。
その先にある鋭い爪が黒い光を放っていた。
城の蔵書室で知り得たこの魔物の名前。
それは、
「……グレーターディモン」
であった。
その強固な肌は剣等による攻撃を弾き返し、魔法による攻撃を霧散させる。
更には、恐るべき特性を持っていた。
その事を考えると、
「畜生! 転移部屋は目と鼻の先に有ると言うのによ!」
流石の俺も、この魔物相手では死を覚悟しなくてはならなかった。
こいつ等はそれ程の”化け物”なのだから。
俺は、
「思考知覚向上! 素早さ向上! 蘇生付与! 素早さ向上付与!」
とこのクラスの魔物を相手にする時の基本セットを出す。
それから、
「死ね!」
と百メートル近い距離を一瞬で縮め、魔槍スコーピオンの一振りでその身体を真っ二つに切り裂いた。
しかし、
「チッ! 遅かったか……」
であった。
俺を中心に四方の空には無数の黒点が浮かぶ。
そう、グレーターディモンは自身の種族を含む、悪魔族を呼び寄せる事が出来るのであった。
空を覆い尽す黒点。
その一つ一つが、俺との距離を徐々に詰めている。
「……相変わらず、多いねぇー……」
そう言っている側から、俺の魔法障壁には無数の魔法が当たっていた。
いかな悪魔が放つ魔法であっても、数発で砕かれることは無い。
何故ならば”アイギス”と呼ばれる融合魔法を使っているからだ。
その間に尚も近づく悪魔達の群れ。
それらに対し、俺は”逃れられぬ光雨”を幾度も放つ。
次に、自身の佩く二振りの魔法結晶剣には”聖属性付与”と”石化付与”を込めた。
暗い空が一瞬輝き、無数の黒点が地面へと落ちていく。
それでも、その残った大半は動ずる様子を見せることなく迫り来るのであった。
「いいぜ! やってやんよ!」
俺がそう叫んだ次の瞬間、俺の周囲を四体のグレーターディモンが音も無く取り囲んでいた。
「あはーっ! やったぜ! 生き残ったぜ! ザマアミロ! 俺には勝利の女神が、天使が付いているんだよ!」
俺は満身創痍となりながらも、転移部屋に辿り着いていた。
右目は潰れ、左腕はもぎ取られ、右脚は切り落とされた。
それでも、それでも俺は生きている。
腹部にも内臓にまで到達している傷が少なくとも一つはあった。
それでも、俺は生きて転移部屋にまで辿り着いたのだ。
これを、喜ばずして何を喜ぶのか?
俺は嬉しさのあまり、潰れた右目からも涙を零していた。
傷と魔力の回復待つ事数時間、俺はいよいよ地下九十六階へと降りる転移魔法円に足を踏み入れた。
周囲は一瞬、眩いばかりに白く輝く。
束の間、俺はこれまでに幾度も通り抜けて来た、見慣れた転移部屋の中に佇んでいた。
「あれ?」
だが、おかしい。何かが違う。
それが分からぬまま、俺は数歩足を進める。
そして、俺は気付いた。それは
「は……花の香りがする……」
であった。
これまでの地下迷宮では決して嗅げなかった匂い。
それがこの部屋には充満していたのだ。
何故か?
その問いに答えるのは簡単だ。
この目の前にある、美しい扉の外に花畑が広がっているのだろう。
そう、俺の目の前には象牙を使ったと思われる、見事な意匠を施された扉があった。
その図柄はありていに言えば、天使や乙女、美丈夫やユニコーンが笑い、唄い、称え、躍動している。
俺がその扉に更に近づくと、先の事を認めるかの様に一際豊かな合唱が聞こえ始めた。
その歌声の美しさに、俺は涙を流す。
これまでの罪、その全てが許され、ここまでの苦労が労われたと感じたからだ。
俺は思わず、
「うっ、うっ……」
と嗚咽を漏らす。
それでも尚、心を奮い立たせて、俺は大きな扉を押し開いた。
刹那、強い光を浴び目を逸らす。
だが、俺は見た。
そこは……俺が目にしたのは、正しく”天国”の如き光景だった。
春のような麗らかな日差し。
頬を撫でる心地良い風。
鼻をくすぐる香り。
耳をそばだてれば小鳥の囀りに混じりし聖歌の音色。
見渡す限り、春の日向に咲くシロツメクサやポピー、コスモスなどあらゆる花や木がその色を競い合っている。
「ひょっとして……ここか? ここにエミがいるのか?」
俺がそう錯覚するのも無理はない。
それ程までにこの、地下九十六階の景色はこれまでの階層と一線を画していた。
特に……俺は直前まで”地獄”にいたからな。
尚更そう感じるのだろう。
ただ……気になる事が一つ。
地面は兎も角、天井から下が白色に輝いているのだ。
その所為で、ここがまるで階層の主が守る部屋の様にも見えた。
「まぁ、いっか」
それでも俺はその様な些細な事は直ぐに忘れる。
俺にはこの階層を今すぐにでも彷徨う事が至極当然に思えたからだ。
小一時間ほど経過しただろうか?
小高い丘を越えた先に小さな人影が見えた。
それも都合六つ。
俺はその姿形を目にするや、居ても立っても居られなくなり、思わず
「おーい! ……」
と手を振り、大声を出してしまった。
すると、彼らは初め驚いたのか顔を見合わせるも、やがて俺がしたように手を振り答える。
更にはその内の一体がその背にある羽を広げ、羽ばたく事無く浮かび上がると、俺の近くにまで飛んで来たのであった。
その姿をはっきりと目にすることが出来た俺は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。
上等な絹で織られたかに見える白い衣装が光を受け輝いていた。
明るい栗色の髪はカールし、肌の白さ、瞳の愛らしさは画人ブーシェの描く天使そのものに見える。
否! 誰が何と言おうとも、俺の目を奪ったこの美しい生き物は天使でしか有り得なかった。
それは、頭の上に輝く光輪を見ても分かる事だ。
近づく天使が微笑みながら俺をまじまじと見る。
やがて、ひとしきり見て満足したのか、その天使は五人の仲間を残して遠くへと飛び去ってしまった。
「ああ……」
もっと側で見たかった。
俺は思わずため息を吐く。
続いて残された五人の天使に目を遣ると、彼らは愛らしい嬌声を上げながら、手をせわしなく動かし始めていた。
「……なんだろうか?」
俺はその手元に注意を向けていると、それは直ぐに分かった。
天使達は辺り一面に咲いている花々を使って花冠や首飾りを作っていたのだ。
やがて彼らは作り終えた花冠等を手にし、ふわりと俺の側に飛んで来る。
そして、その手にした物を俺の頭や手足に我先にと競うように着け始めた。
何時しか俺の四肢と頭部は花にまみれる。
すると、天使の一人が俺の頭を指差して、
「乗せて!」
と身振りで示しだした。
それはまるで、乳幼児が親に抱っこをせがむかの様であった。
俺はその愛くるしさに堪らなくなった。
実際に抱き上げてしまうと、もう俺の全てを彼らに捧げたくなる程、愛おしく感じた。
花の香りに混じる、天使の甘い匂い。
肩車をしてやると、無邪気に笑う声。
俺の肌に触れる柔らかい感触。
どれもが俺の荒んだ心を癒してくれる。
俺はこの瞬間、この世界に来てから且つて無い程の、心の平安を得ていた。
それはまるで、俺自身が幼子であった際、眠気に負けて父や母に抱き上げられた時の様でもあり、怖い夢を見て泣き叫んだ俺を慰める両親に挟まれた時の様でもあった。
「ああ、本当なら……俺はエミやレンと一緒にこの至福の時を共に過ごしていたのか……」
驚いた事にそう呟いた瞬間、俺の双眸から涙が零れ出た。
束の間、その当時の俺やエミの面影が脳裏によぎる。
その刹那、肩車をされた天使が、
「良い子、良い子」
と言わんばかりに俺の頭を撫で始めた。
すると、他の天使達までがそれに続いたのであった。
二人の天使が俺の腕を抱き込み、肩に頭を乗せている。
残る二人は俺の膝を抱え、太腿に顔を擦り付けていた。
俺は思わず魔槍スコーピオンを地面に突き刺し、開いた両手で彼らの頭を優しく撫で上げた。
それが、思いの外気持ちが良かったのか、目を細める天使達。
彼らは嬉しそうに転がる様な笑い声を上げ、互いの顔を見合わせていた。
刹那、俺の最も恐れていたことが起きた。
肩車をしてあげている天使が遥か彼方を指し示しながら、何かを喚きだしたのだ。
俺は瞬時に危険を悟る。
当然だろう、無垢な天使達が驚く程取り乱しているのだ。
彼らに何らかの、危害を与え得る存在が現れたと、考えて然るべきだった。
俺は素早く”遠視”魔法を行使する。
次の瞬間、俺の目には見覚えのある姿が映った。
それは先程飛んで行ったもう一人の天使。
それともう二つ。
俺の良く知った人物の幼き姿を模した、四翼を持った天使であった。
エミとレンの……
厳密に言うと、俺はレンの幼児期を知らんのだがな。
ただ、彼の顔を幼くすればあの様になるのだろう。
「えっ?」
俺は思わず驚きの声を発する。
しかし、それは天使の姿形を見た所為では無かった。
いや、勿論驚いた。
何と言ってもエミやレンに似た天使が現れたのだから。
しかし、俺の注意を引いたのはその事よりも、俺の身に異変を感じたからだ。
それは”遠視”魔法を行使した直後に始まった。
天使のつかまっている身体の部位が突如重くなり、更にはきつく締まりだしたのだ。
それだけで無く、足が地を離れ、五体があらん限りに引っ張られ始めた。
「ちょっ、何? い、イテテテテテテテテーッ!」
俺の悲鳴が一面の花畑に響く。
だが、それを無視して俺の手足と首がこれでもかと引き伸ばされていた。
俺は事ここに至って漸く理解する。
この天使の如き存在は地下迷宮が生み出した魔物なのだと。
故に俺は魔法円を描き、エセ天使共を屠ろうと試みる。
しかし、それはどうしても為されなかった。
何時の間にか、浮かぶ俺を挟む様に”魔法封印”の魔法円が描かれていたからだ。
「なっ! 何時の間に!?」
それは愚問だった。
俺が”遠視”魔法を行使した際に為されたと予想されていたからだ。
エセ天使共は俺の注意を逸らした隙に準備を整えた。
何の?
無論、俺の自由を奪い、殺す為だ。
だが、幸いにして、奴等は得物を手にしていない。
俺を瞬時に殺す事は出来ないようであった。
「ならば……」
魔力で創りし腕で奴等の首を締め上げるなり、掻き切ってくれるわ!
俺は瞬時に顕現した二本の腕で、俺の首を締め、引き千切ろうとしているエセ天使を絞め落とす。
次に、手足を引く奴等に取り掛かろうとした刹那、
「ぐはっ……いって―……」
俺の胸部を激痛が襲った。
その余りの痛さに、言葉を表すのにも苦労する。
いや、言葉を口にすることが出来ない。
何故ならば……口からは血が溢れ出ていたからだ。
唯一自由になる首を動かすと、見慣れた”柄”が俺の胸から生えていた。
「ま、魔槍……スコー……ピオ……ン……」
それが胸を貫き、俺を大地へと縫い付けていた。
その見事な刺さり具合に、俺は自身がまるで、百舌の速贄になったのかと錯覚する。
それもエミに似せた、エセ天使如きに……
「しか……も、……よ……く……見た……ら……」
全然……似て……ねぇ……。
エミ……はそん……な下品な……顔を……して笑わ……ない……
あいつは……俺……の……最高の……女だ。
……俺が……死……ぬほど……つら……い思いを……して……いる時に、……笑っ……た……りは……し……な……い……
俺の霞む瞳に、最後に映ったのは空を覆う程に現れたエセ天使共。
奴等が、光る弓にこれまた光る矢をつがえ、俺に向かって引き絞る、見るも汚らわしい光景だった。
その全ての顔が、エミやレンに似て異なる、厭らしい微笑みを湛えていたのだから……