#110 大地の杖
火帝歴 三二〇年四月一〇日
「何だこれは……」
俺がこの世界に来て早くも九年が経とうとしている。
その間、俺はこの地下迷宮に挑み続け、元の世界ではおよそあり得ない事を幾度も経験していた。
その俺が、だ。
思わず先の台詞を吐かざるを得ない事態。
今まさに、俺はそれに直面していた。
地下八十九階。
主の住まう部屋。
部屋は一面、床から天井に掛けて全てが白色に淡く輝いている。
討つべき魔物を、主を倒さねば決して先に進む事が叶わぬ階層。
そこに俺が足を踏み入れたのは僅か十数分前の事であった。
俺はそれを目にした瞬間、思考を止めてしまった。
否! 考えはした。
絶えず続けていた。
それが何なのか一見して分かるからだ。
それは恐らく、主が体の一部。
とある部位が転移部屋へと続く扉の前に横たわっていた。
ただ……その部位は酷く大きく見えた。
これまで見た何者よりも大きく見えた。
それは、高さだけでも十メートルを優に超え、長さに至っては……先を見る事が叶わない……
俺はそれが何か、本当に何なのか、と考える事を止めてしまった。
ただ一つだけの事を考えていた。
それは、
「先、なげーな……」
だった。
そして、今一度目の前にある、とある部位を眺める。
それは黒々と輝く鱗に覆われた”尻尾”に見えた。
トカゲや蛇が代表する爬虫類の尻尾の様であった。
遥か彼方を見ても足は見当たらない。
恐らくは蛇の類なのだろう。
ただ……驚くほど長い事は別にして。
それから暫く、俺は地面に横たわり、考える事を放棄した。
「さて……」
ほんの少しだけやる気を出した俺は床の上で胡坐をかく。
膝の上に右ひじを置き、右手には顎を乗せた。
そのまま、”石柱”を組んだ足下からせり上がらせた。
それは遥か高くまで伸び上がる。
天井がまるで無いかのように。
その高さは”距離測定”魔法によると、一キロメートルに達しようとしていた。
俺はその高みから、更に”遠視”魔法を使って”蛇の頭”を探す。
しかし、それは”全くの先に在るだろう”と言う事しか分からなかった。
俺は思わず、
「何なんだよこれは……」
と独り言ちる。
すると、
『これはの”大地の杖”という異名を持つ魔物じゃ』
と答える声が響いた。
俺は突然の事に驚くも、その声の主は尚も言葉を紡ぎ続けた。
それは、
『正しくは”ヨルムンガンド”という』
であった。
それは世界を一周出来る程長い蛇とも、その背を辿れば神のいる天界へと続いているとも言われていた。
但し、その背から落ちれば”地獄”が待っているとも。
そう、古の神の一柱。
その名であった。
俺は転移門を使って、下へと降りる。
そこには、案の定、師匠が立っていた。
森人族の長老然とした男。
我が魔法の師にして、娼館に連れ立って行く仲間。
魔法ギルドの前代表 ドゥガルドが。
その男は今では二児の父となっていた。
……恐ろしい事に三百とうん十年も生きていて初めて所帯を持ったらしい。
「ほっとけ!」
顔を真っ赤に染め上げながら師匠は俺に抗議の声を上げる。
だが、問題はそんな事では無かった。
「師匠、何故ここに?」
と俺が問い掛けると、彼は
「うむ、少々気掛りな事が起きてな。その為、お主の仕上がり具合を見に来たのじゃ」
と答える。
俺にはその意味がようと知れなかった。
師匠はただ俺の傍らで佇んでいた。
あれ以来何一つ、助言らしい言葉を発しない。
ただ、俺が魔槍スコーピオンで尻尾を輪切りにしては、
「まぁ、最初はそうするじゃろうな」
と言い、切り落とされた尻尾の傷口が瞬く間に癒えるのを見ては、
「そうなんじゃよ、九頭竜と同様彼奴は超回復を持っておるのじゃ」
と言う。
しかも、切り落とされた尻尾は一瞬にして土塊へと還る。
蛇肉を俺が食す事も、蛇皮を地上に持ち帰る事も叶わない様であった。
「あほう、余計な事を考えずにサッサと頭に向けて走れ!」
師匠はそう言うが、俺の気は乗らない。
当然だろう、どれ程先に在るか分からないのだ。
”遠視”魔法を使って見える範囲の距離を測定しても、数千キロはある。
見える範囲で転移門の魔法円を描くも、それは瞬く間に霧散する。
石柱から降りる際には問題無かった。
転移門が使えるのは転移部屋の近く、限られた範囲のみであった。
つまり、蛇の頭に辿り着きたいのであれば、走るしか無いようなのである。
ただ、今の俺が全速力で走ったとしても何日掛かるのやら……
いや、事によっては十何日、もしくは何十日と走らねばならないかもしれない。
それだけは……願い下げであった。
俺は魔力結晶剣に魔法を付与する。
それは”猛毒付与”魔法。
膨大な魔力と共に込められた剣は禍々しい色合いを帯びていた。
俺は徐にそれを魔物の尻尾に突き刺す。
猛毒が全身に回れば、如何に全長数千キロを超える大蛇と言えども倒せるのでは無いか?
そう思っての事だった。
しかし、それは無残にも否定される。
俺の剣が突き刺さった個所は瞬時に壊死こそすれども、その先で突如切り落とされ、新たな尻尾が生えて来たからだ。
「……じゃから言うたじゃろう? 早く走れと」
年寄りの賢しい声が俺を苛む。
いや、賢しいと聞こえるのは俺の心が焦っている証拠だ。
彼が俺の為にならない事を一度だって言った事は無いのだから。
それでも、俺は試さずにはいられない。
俺は今一度、魔力結晶剣に魔法を付与する。
今度は”石化付与”魔法。
だが、その結果は先の”猛毒”と大差は無かった。
俺は仕方なく走る事を決意する。
故に、
「師匠、忘れ物を取ってきます。ここで待たれますか?」
俺は師匠に声掛けをした。
すると彼は言った。
「勿論じゃ。今回は一部始終を見るつもりじゃからな」
それを聞いた俺は小さく頷く。
そして、転移門の魔法円を描き、此度に最適な物を取りに向かった。
そこは探索ギルドの車庫。
俺の試案した”びっくりドッキリマシーン”が格納されている場所だった。
車庫に入った俺が最初に目にしたのは、オネシマス団長が駆る”シールドマシン付雪上車”であった。
そのシールドは白銀色に輝き、汚れ一つ付いていない。
ただし、その車体は惨憺たる様相を呈していた。
外壁や屋根は凹み、所々に木々が突き刺さっている。
それどころか、無限軌道も何枚か外れているようだった。
俺は思わず唸った。
”防御力向上”をミスリルコーティングした部位に重ね掛ければそうそうこうは成らない。
余程、荒々しく使った証左であった。
……もしかして、追いつかれた?
俺はそう思い、背筋を震わせる。
すると、目を横に遣ると俺が取りに来たマシーンの横に、全く同じ物が並んでいた。
それは一見すると車のように見える。
ただし、大きく異なる点が一つ。
それは車体後部に取り付けられた大きな”プロペラ”であった。
そこに、それら整備をしていると思われるモンタギューが現れる。
彼は俺からの問い掛けを制して、
「分かっている。これも領主様の依頼の元、オネシマス団長が使う奴だ。何と言ったかな? そう、”回転翼車《プロペラカー》”だ」
と言った。
そう、車体の大部分を拾って来たミスリルで作ったプロペラカーであった。
今だ耐久力の高いゴムが見当たらない俺は、雪上車では無い、一般的な車を作るのは諦めていた。
だって、タイヤが無いとねぇ? 木や鉄で作った車輪じゃ、幾ら動力が有ったとしても前に進む事も難しそうだし……
だが、それを一変させたのが地下八十階から八十八階で採取できるミスリルであった。
この際、大フナムシの糞である事は忘れ、俺はそれをふんだんに使った”プロペラカー”の制作をモンタギューに依頼していた。
車輪も当然、ミスリル製だ。
これなら悪路が続いても、タイヤがツルツルになる事も、パンクする事も無い。
それが、偶然にも? 二台並んでいる。
恐らくはだが、
「悪いな。お前が依頼したら同じものを作れと言われているんでな。ただ……文句は無いよな?」
であった。
……まぁ、無いな。
俺も儲かる、エメリナも儲かる、モンタギューも儲かる。
約定通りであれば何の問題も無い。
「そう言う事だ。そうそう、オネシマス団長は少なくとも数日、御屋敷で過ごし、騎士団のお役目を務めるらしいぞ」
俺はその言葉に小さく礼する。
そして、慌てて踵を返し、地下迷宮へと戻った。
勿論、”回転翼車《プロペラカー》”を駆ってだ。
「それで持って来た物がこの乗り物か! 何ともけたたましい音じゃのう! まるで竜の、咆哮の如しじゃ!」
「仕方ないでしょう! モンタギューが今作れる、一番大きな”源動機”で動かしているんですから!」
そう、この”回転翼車《プロペラカー》”のプロペラ部はV型十二気筒エンジンで動かされていた。
その為、腹の底から恐ろしくなるような、身の毛もよだつ大音を発しながら、プロペラを回している。
車内は鉄や板切れで覆われ、窓ガラスも填め込まれてはいるが、その音は少しも軽減されていないかのようであった。
その代り、”回転翼車《プロペラカー》”は時速二百キロメートルを超える速度で前に進んでいる。
凄まじい風が車内に吹きすさばないだけでもありがたいのだ。
それでも、一日に進める距離は休憩を入れても僅か四千キロメートルに及ばない。
ヨルムンガンドの頭部に辿り着くのが何時になるのか、見当も付かない有様であった。
その夜、俺と師匠は地下迷宮で夕餉を共に摂っていた。
大羊のラム肉を甘辛いタレに漬け置き、それを火球であぶる。
それを新鮮な葉物野菜などで包んで食う。
無論、その全ての食材は収納庫から取り出して。
師匠は何も言わず、俺の手際を眺めていた。
思えば、おかしなものだ。
互いに、帰ろうと思えば地上に帰れるのにここに残っている。
この階層であれば、転移門の出口で魔物の待ち伏せを考えなくても良いだろう。
何と言っても、魔物はヨルムンガンドただ一匹。
それに、当の魔物は今のところ一度だって、動いていないのだから。
……いや、この階層に限って転移門は使えなかったな。
恐らく、ヨルムンガンドの仕業だろう。
この分では他にも何かしてきそうだ。
故に、俺は最小限の警戒をしつつ、肉にかぶりついている師匠に気になる事を問うてみた。
「時に師匠、朝方言っておられた”私の仕上がり具合”とはどう言う事でしょうか?」
何故なら、俺はその言葉を酷く気にしていたからだ。
すると、師匠は
「その様な事言ったかの? それより先の収納庫は中々面白いのう。召喚杖を取り出したのもそこからじゃの?」
とあからさまに話題を代えた。
更には、
「思えば城の”召喚杖”は盗まれてはおらなんだ。故に、お主の”召喚杖”はお主の物で良い。ただし……」
腑に落ちない、と彼は呟く。
あれ程の魔道具、正しく二つとこの世に無い程の逸品。
それが偶然にしろ、必然にしろ、このクノスに二つ現れた。
俺は師匠のその大層な物言いに思わずのかってしまった。
「師匠、魔道具とはそれほど珍しい物なのでしょうか?」
「然り。魔道具とはそもそも、古代の神々より下賜された”神器”だったと言い伝えられておる」
それが何時しか、神に我等人の、力の上底を示す為に魔道具を奉納し始めた。
時の巫子にその技を治めるという方法で。
「巫子……にですか……」
「左様、巫子様にじゃ。あの方々は当時の儂の及びもつかぬことを、それも様々に司っておられた。その一見してか弱そうな双肩に幾百万もの民の命、願いを担いながら、じゃ」
……確かに彼女の顔は物悲しげであった。
ただ、とてもでは無いがそれ程の重責を背負っているとは見えなかったな。
だがそれ以上に、
「もしかして、師匠は巫女コレット様以外の、クノスの巫子以外の方々とも交友があったのですか?」
俺は師匠の物言いが気になった。
俺がその事を形にすると、彼は大笑いをした後に、
「儂はそれ程長く生きておらぬ。知らぬが道理じゃ……」
と答えた。
その時の師匠は、何時になく寂しげな顔をしていた。
翌早朝、俺は頭を抱えて唸っていた。
朝食もそこそこに、この酷く無駄に思える行いを、苦行を止める手立ては無い物だろうかと考えていた。
ヨルムンガンドの全長は数万キロメートルを超えるかもしれない。
先ほど、天高く上り、先を見渡しても頭は未だに見えなかったからだ。
仮にその全長が三万キロメートルあるとしよう。
今のペースで”回転翼車《プロペラカー》”を走らせたとしても十日は掛かる計算だ。
ただひたすら、俺が運転する事になる。
師匠は
「一切手伝いはせん!」
と言っていたからな。
……ファリスを連れてこれば良かった。
今更だがな。
そうすれば、俺は後部座席で本を読みながら過ごせた。
無為に時が過ぎる事を悔やまなくて済んだ。
本当に今更だ。
今から戻ると二日無駄にする。
それもまた、耐えられない事だった。
であるからこそ、俺は一発逆転の、起死回生の一手が無いかと熟考を重ねている。
こういう時こそ、奇跡の御業”魔法”に縋るべきなのだと。
俺は自身が行使できる魔法の数々を頭の奥から引っ張り出しては即興の融合魔法を創り出す。
「魔弾、鳥籠、聖枷、鎌風、落とし穴、火焔石槍、グレイプニル……」
傷を与えたり、拘束する類のものが多い。
……俺の性格が出ているのかしらん。
または、深淵にて新たに得た魔法が使えないかと考えていた。
「思考知覚向上、思考知覚向上付与、思考知覚下降、思考知覚下降付与、空中跳躍、運向上……」
どれも自分や相手の状態を上下するものばかりだ。
空中跳躍を除いてな。
ただ……偶然とは思えない。
この地下迷宮、まるで手を差し伸べるかの様に難所において効果的な魔法を配置しているからだ。
俺がその事に気が付いたのは……何時の事だが思い出せないがな。
そもそも、ヨルムンガンドは傷を瞬時に癒すし、直接死に至る猛毒が体に入った場合は尻尾を切り落としてしまう。
故にそれらは意味の無い行為なのだ。
であれば、どうするか?
俺の目的は魔物の首を斬り落とす事。
九頭竜の様に核となる魔力結晶が無ければそれで滅するだろう。
ただそれは首を落としてみない事には分からない。
要するに、魔物の頭がこちらに来るように仕向ければ良い。
では……如何にして?
……分からん、さっぱり分からん。
伝承によればヨルムンガンドは大地を食べて生きているらしい。
それが本当であるならば、大羊を捕まえ、囮としても意味は無いと言う事だ。
それに、魔物とは言え神の名を関する化け物。
知性も高いと見える。
それはフェンリルと戦ってみても明らかであった。
……フェンリルは狼。
ヨルムンガンドは蛇。
共通点は、元となる生き物の特性を引き継いでいること。
フェンリルは遠吠えで仲間を呼んだからな。
であれば、蛇の特性とは何か?
目はほとんで見えていないらしい。
その代り、舌で相手の位置を知ると聞く。
「舌かぁ……やっぱり長いのかな?」
俺は独り言ちる。
次に、傍らに置いた魔槍スコーピオンを手に握りしめる。
「なんじゃ? 漸く出発するのかの?」
と師匠が話してくるも、俺は
「いえ、今しばらく足掻いてみようかと……」
と答え、大蛇の背へと飛び乗った。
俺は徐に魔槍をそこに突き刺す。
そして、槍先の鋭さを増す為に魔力を込めた。
更に俺は魔力を込め、槍先を伸ばし続けた。
その槍先は大蛇の胴を貫き、更には地面を穿ち、地中奥深くへと楔の如く打ち込まれる。
次に、槍の柄にも魔力を込め、太く、大きくした。
それらは魔槍スコーピオンだからこそ、出来る芸当であった。
「……何をしたいのかさっぱりじゃ」
俺も半ば、師匠の呟きに同感であった。
この様な事で上手くいくとは思えなかった。
それこそ、奇跡に縋るようなものだ。
そう、”奇跡”に。
俺は”運向上”魔法を描く。
それに且つて無い程、膨大な魔力を込めて。
それは優に三十分を掛けて行われた。
無論、掛ける対象は俺自身。
俺はその魔法を浴びた後、腰に佩いた長い方の魔力結晶剣を抜いた。
それに、とある魔法を付与する。
当然ながら、この時も桁違いの魔力を込めた。
その大きさには思わず師匠も
「ぬうう……これ程までに成長していようとは……」
と声を漏らしていた。
後はその魔力結晶剣をヨルムンガンドの腹へと突き入れるのみ。
俺は全ての刃先がその鱗の奥へと消え入るまで、剣をあらん限りの力で押し入れた。
それから数十分が経過した頃、遥か彼方から奇妙な音が届いた。
それは、
「ドンッ!」
とまるで花火の如き音だった。
それに続いて、雷の様な音もし始める。
それらは徐々に近づいて来ていた。
やがて、
「いかん! 衝撃波じゃ!」
と師匠の叫び声が上がる。
俺達は咄嗟に障壁を張り巡らせた。
刹那、空気を切り裂いたが為に起こった衝撃波が俺達を襲う。
それが過ぎ去ると同時に、奴は現れた。
ヨルムンガンド、世界最大の蛇にして太古の神。
大地の杖、世界を絞めることが出来る大蛇の”鎌首”が……
「お、お、お、お……」
大きい。
俺はその一言すら言葉に出来なかった。
それも道理。
山ほどもある蛇の頭が巨大な牙を剥き出しにして辺りを威嚇していたからだ。
「師匠、下がって!」
俺が大音声を発すると、
『既に下がっておる』
と”思考転写”で冷静な答えが届く。
”俯瞰視”魔法で彼の居場所を探ると、何時の間にやら、遥か彼方で佇んでいた。
「……何時の間に」
俺が愚痴交じりに零すも、大蛇には関係の無い事。
魔物は現れた時と同様に、衝撃波をまき散らしながら、俺へ噛みつかんばかりに襲い掛かってきた。
それは、思わず顔を顰めるほどに厄介な攻撃だった。
一撃を躱すも、その直後に衝撃波が襲い来る。
それを堪えていると、また、大きな咢が目の前に迫り来る。
剣を揮い、その首を落とそうにも、その余裕が皆無であった。
正に、攻守一体の攻めと言わざるを得ない。
だが、全く隙が無い訳でも無かった。
俺は大蛇の鎌首とすれ違う瞬間に何度か剣を揮った。
しかし、その効果は何一つ見えない。
それは無理もない事、山に剣を刺した所で、人が蚊に食われた程でもないのだから。
「ならば!」
俺は剣を揮う手を休め、魔法での攻撃を主体へと移る。
次の瞬間には、赤々と燃える”火焔石槍”を顕現し、ヨルムンガンドの鎌首へと俺は放った。
「シャッー!」
火焔石槍の何本かがヨルムンガンドの目に突き刺さる。
堪らず、大蛇は山が崩れるかと思う程の大音で叫び声の如き音を発した。
その所為か、先程までの目まぐるしい動きがパタリと止まる。
ヨルムンガンドは意表を突かれたかのように、鎌首を擡げ、顔を左右に振り始めた。
「チャーーーーンスッ!」
この瞬間に、魔槍スコーピオンで首を切り落とせれば……
だが、俺は失念していた。
魔槍スコーピオンは狂ったヨルムンガンドが体を固定する為、大地に深く、ヨルムンガンドの身体ごと突き刺している事を。
「な、ならば……光剣全斬!」
それはパーン先生から習いし奥義が一つ、魔力を纏った剣の事。
魔力を一時でも物質化する、如何にここが異世界とはいえ、教えを受けるまで想像だにしたことも無い技であった。
魔力結晶剣の刀身を俺の魔力が覆い尽す。
その色は、黒味を帯びた赤色をしていた。
エミならば凝固しかけた血の色と言うだろう。
決して、華やかな色では無かった。
それが見る間に長く伸びていく。
まるで、魔力を込めた魔槍スコーピオンの様に。
後は俺がそれを揮うだけだった。
ヨルムンガンドの首元に……
俺は完勝だ。
そう信じて疑っていなかった。
気を緩ましていた訳でも無かった。
だが、それは起きた。
いや、俺の放った一振りは間違いなく奴の首を捕らえた。
しかし、待ち受けていた結果はそうでは無かった。
深々と刺さった鈍い光を放つ光剣は、次の瞬間には木端微塵となる。
刹那、俺が確かに与えた傷は癒えていた。
『良い手じゃった。しかし……力が及ばなかったの』
その通りだった。
俺の膂力が足りなかった。
今少し、力があれば押し切れただろう。
その所為か、ヨルムンガンドは鎌首を高く、高く、なお一層高く擡げている。
俺の光剣が届かぬ距離を一瞬で悟ったかのように。
「チッ!」
もう、如何する事も出来ない。
大蛇は完全に警戒している。
後俺に出来る事は……奴を拘束系の魔法で縛り、その首を刎ね落とすしか無い。
あれ程強大な魔物に効くか不明だがな。
「なっ!」
だが、それも遅かった。
ヨルムンガンドの頭は更に高く空へと上がっていった。
それも、遥か数キロメートル先の高みへと……
「……為す術無しか?」
残された胴体を切断しても一瞬後には新たに生える。
そうなってしまっては、魔槍スコーピオンで動けぬようにした意味は無くなるな。
では、登るか? 土柱魔法で……数キロメートルの高みにまで。
……流石に折れるな。
それは石柱であっても変わらない。
ミスリルコーティング出来れば話は別だが、そんな魔法は無い。
正に、
「打つ手なし、お手上げだな……」
であった。
折角、”混乱付与”を込めた剣を突き刺したと言うのに、奴が飽きて首を降ろすまで待つか……
俺がそう考えていると、
『むふふ、気を抜いておると手痛い一撃を喰らうぞ』
と師匠が囁く。
その言葉を受け、俺はヨルムンガンドに再び視線を移す。
その鎌首は”遠視”魔法で無くては捕らえる事も出来なくなっていた。
「およそ……十キロメートルかぁ」
”距離測定”魔法で返って来た値が如何に常軌を逸していても驚かないでいられる俺がいる。
まぁ、そんな事は置いといてだ。
一体、何をするつもりなのだろう?
俺が疑問に思っていると、それは突如昇るのを止め、緩やかに降下し始めた。
無論、俺に向かって。
「……山が……上空十キロメートルから落ちて来るのか……」
俺はその危険性に直ぐ様気付く。
故に、”思考知覚向上”魔法を瞬時に行使した。
その瞬間、辺りの時がまるで止まったかのように感じる。
だが、俺は理解していた。
思いの外、残された時間は少ないと言う事を。
「えーっと、自由落下を初めて地表に衝突するまでの時間は……」
うろ覚えだが、高校時代に習った。やはり、受験勉強は偉大だ。
「地上十キロメートルの場合は……約四十五秒か」
そして、その威力だが、重さ十トンとしても
「九十八億ジュールか……」
……良く分からんな。
小型の核爆弾よりは遥かに小さいが……TNT火薬一トンよりは遥かに大きい。
何で計算したんだろ?
そもそも、山の様に大きい鎌首が十トンって事も無いか……重さ測定魔法が欲しいところだ。
兎に角、とてつもない破壊を俺のいる場所周辺に及ぼすと言う事だな。
ならば、
「回転翼車で逃げるか?」
も一つの案だ。
しかし、俺はその案を採用しなかった。
なぜならば、今の俺の頭は冴えわたっているからだ。
それはまるで”超集中力状態”に入った時の如し。
つーか、そう言う魔法であった。
俺は素早く鎌首の正確な落下地点を導き出す。
しかし、よくよく考えれば俺のいる場所に落ちて来るのが道理であった。
更に”遠視”魔法を使い空を見上げる。
その場所に膨大な魔力を糧にとある魔法を描いた。
続けて俺の側にも同じ魔法を描く。
また、それとは別に幾つかの魔法円を出す。
無論、その全ては”魔法円不可視化”によって隠蔽されていた。
その間にもヨルムンガンドの巨体はまるで空気抵抗を無視するかの勢いて落ちて来ている。
「ドンッ!」
突如、上空から大音が響く。
恐らくだが……落下速度が音速を超えたのだろう……
やはり……逃げるべきであったか。
まさか、それ程の……
そう考えていた次の瞬間、それは肉眼で目視出来る様になり、その瞳が俺を捕らえているのを知る。
「今だ!」
俺は発動を控えていた魔法を一つを除いて一斉に行使する。
辺りは突如、冷たい霧に覆われ俺の姿を覆い隠した。
続いて、巨大な石刃が地面からせり上がる。
その石刃全てが顕現する前に、俺はその場所を
「カタパルト!」
を使って、飛び出していた。
霧から飛び出した俺を、すれ違いざま、その巨大な双眸が追う。
霧は一瞬にして打ち払われた。
刹那、鼓膜を破らんほどの音が発生する。
それも、都合二度に渡って。
続いて、空を飛ぶ俺を衝撃波が追いかけてきた。
「うぁああああー!」
俺の体は綿ぼこりの如く更に吹き飛ばされる。
その余りの衝撃に皮膚は裂け、爪が剥ぎ取られそうになるも、その度に傷は瞬く間に癒えていった。
それは魔力結晶鎧に付与された”回復付与”魔法の効果だ。
『全く、無茶をするのう……もう少し手際よく倒せぬものかのう……』
師匠の呆れたかのような、それでいて、どことなく嬉しそうな声が響く。
「なんだかんだいって、応援してくれているんだな……」
すると、空を舞っていた俺の体が止まり、ゆっくり地表へと向かった。
そこには師匠ドゥガルドと回転翼車。
運転席にはハンドルを握り、嬉しそうに回している老人がいた。
ヨルムンガンドの落ちて来た場所に戻ると、そこには虫の息となっている大蛇がいた。
二つの大きな石刃に挟まれて。
如何に回復が為されようとも、巨大な石刃が傷口に残ったままでは叶わぬらしい。
そう、俺は地上と上空に重さ千トンを超える石刃を作りだし、それでヨルムンガンドを挟むことにしたのだ。
あわよくば、首を切り落とせればと考えて。
「しかしまぁ、大層な魔法じゃのう……」
師匠が俺を小馬鹿にする。
しかし、俺は気にしない。
何と言ってもこの階層を僅か数日で抜ける事が出来るからだ。
当初は何日掛かるかも分からなかったからな。
そして、魔槍スコーピオンを手にする。
そして、魔力を込めた一閃を放った。
その時こそ、俺が大蛇ヨルムンガンドを打ち倒した瞬間であった。
ヨルムンガンドを倒した直後、その側で綺羅びやかな光の明滅が起きた。
そここそが転移魔法円が現れし場所。
地下九十階へと降りる”道”であった。
俺達は再び回転翼車に乗る。
そして、その光に誘われるまま、地下九十階へと降りていった。
俺は降りてすぐに異変を感じる。
そこは、
「師匠……妙な臭い……硫黄の香りがします。それに……空気が随分と薄いですね……」
であった。
師匠は何も答えず、ただ”照明”を上げる。
その瞬間、その光の下に俺は目を釘付けにされた。
それは、
「これは”地獄の門”じゃ……」
と呼ばれるに相応しい門に見えた。
その大きさは言うに及ばず、その禍々しい装飾、色合いどれをとってもその名に相応しい物と感じる。
その門柱には見た事も無い文字で何かが記されていた。
「神聖文字じゃ……儂にも読めぬ……」
ただ、読めなくとも分かった。
いや、俺でなくとも、誰にでも分かる事だ。
この扉の先には”地獄”が待ち構えていることを。