#106 深淵のはじまり
火帝歴 三一九年一〇月一日
俺はいよいよ地下迷宮の”深淵”へと足を踏み入れる。
そこは”魔界”があるとも”この世の地獄”が続くとも言われている階層だ。
城の蔵書にも僅かにだがその事が記されていた。
”生きて帰る事が出来ない場所”、”決して戻れぬ死地”と。
何故ならば、そこには多くの”悪魔”が跋扈するからだ。
生ける人ですら喰らう種族。
赤い瞳、蛇の如く先端が三角に尖った尾、コウモリの如き翼。
そして、何よりも強大な魔力を誇っているらしい。
願わくば、彼らとの間に無益な争いが起きませんように。
俺はそう願わずにはいられなかった。
俺は地下八十階へと続く扉の前に立つ。
そして、念入りに装備を確認した。
魔槍スコーピオン、二振りの魔力結晶剣は言うに及ばす、魔力結晶鎧一式および道具類。
その全てを検めてから俺は扉に手を伸ばす。
「さぁ、行こうか……」
”深淵”に。
”魔界”に。
”地獄”に。
且つてレンやエミが挑み、踏破した道のり。
今度は俺が挑む番だ。
例え如何なる問題や危険が俺の前に立ちはだかろうとも、必ずそれを乗り越えてみせる。
俺は固く決意する。
続いて、扉を強く押し開いた。
軋む音が鳴り響く。
その刹那、俺の顔には強い光が差した。
それは初夏の如き光。
日中のクノスほど強くはなく、春の太陽よりは明るく感じる。
そして、音が耳に溢れた。
それは大きな広場に犇めく人々の喧噪。
暫くして光に目が慣れ、辺りを伺えるようになった俺の目に、褐色の肌と流れる様に綺麗な黒髪をした美男美女が映る。
彼らは一様に黒くエナメル質なホットパンツとタンクトップの様な物を身に纏っていた。
尻から生えた尾を除けば、魔人族とさして変わらないように見える。
どうやら地下八十階は”クノスの中のクノス”と同じく、街中に転移部屋が通じているようだ。
ただ、あの時と些か趣が異なる。
あそこでは誰一人扉から現れた俺達に注意を向けなかった。
しかし、ここでは違う。
敏感に俺を見つけては、たいそう興味深そうに俺を眺めている。
それどころか……何やら物欲しそうな顔をして……
まさか……いきなり捕食対象に認定された? それを裏付けるかの様に人々は俺ににじり寄ってきた。
その眦は大きく開き、鼻息は荒く、口は大きく歪んで開け放たれている。
最も間近にいる者は、涎を垂らさんばかりにしていた。
彼らは腕を広げ、今にも飛び掛からんばかりに構えている。
「い、いかん……喰われる……」
俺は前言を撤回し、一旦引き下がる事を決意した。
そう、踵を返し逃げ帰る事にしたのだ。
転移部屋の中へと。
使い慣れた”素早さ向上”魔法と”素早さ向上付与”魔法を重ね掛ける。
次に、自身の周りに霧を出した。
だが、俺の心はそれらをしても落ち着かない。
……なんだ? これでも対応が不十分だと言うのか? それほど”悪魔”に臆していると言うのか!?
俺は更に土柱魔法で”鳥籠”を造り出す。
額からはとめどなく汗が流れ落ち始めた。
「こ、これ以上ここに止まるのは危険! それに後退する準備はととのっ……」
その刹那、俺の前方から破壊音が轟く。
それは”鳥籠”が崩されし音。
それは直後、視認で来た。
一陣の風が吹き、霧を散らす。
俺の目には見る影も無くなった”鳥籠”と荒い鼻息をし、狂喜に顔を歪ませた美男美女が見えた。
「遅かったか!」
だが、諦める事は出来ない。
俺は咄嗟に身体を浮かし、自身の前に”爆発”魔法を行使する。
その爆風を自身の盾とし、また、距離を取るための推進力とする為に。
眼前に光が溢れ、それと当時に身体を後ろへと押す力が加わる。
俺の体が強く押され、転移部屋の扉を潜ろうとした瞬間、
「痛っ! 足に有刺鉄線が!」
激痛に見舞われた。
黒光りする棘が足首に巻きつき、俺を離そうとしない。
それどころか、俺を力任せに引き寄せ始めた。
俺は咄嗟に魔槍スコーピオンを床に突き刺す。
意地でも引き戻されない様に。
足はさらなる激痛を訴える。
しかし、それに負けてはいられない。
怪我は後で治せるからだ。
しかし……殺される訳には……
無情にも槍の柄を持つ手は強力な衝撃で離され、俺の体は地面を引きずられながらもと来た道を戻る。
やがて、彼らの姿が目に入ったかと思うと、俺はすぐさま襲われた。
喰うのに邪魔となる鎧は外され、その下に着ていた鎧下は剥ぎ取られる。
それだけで無く、ブーツや手袋まで。
そこに、奴等が殺到した。
俺の腕や足をもぎ取る為か、それらを全身で抱えだす。
何が嬉しいのか匂いを嗅ぎ、頬ずりを始めた。
女が上四方固めの如く上になり、自身の股間を俺に押し付け、本人は俺の下腹部を食い千切らんとする。
そこが、生暖かいものに包まれた。
最後には一人の男が、俺の腰を抱え、自身の下腹部を押し当てようと……
「ふ、ふはへふー!!」
性的な意味で……俺は遅まきながら、そう確信した。
俺の蕾が蹂躙される。
そう涙ながらに自身の未来を垣間見た時、辺りを埋め尽くす光が起きた。
「ギャーッ!」
俺を抑えつけていた者達を含む、周囲の悪魔が叫ぶ。
それは俺も同じだった。
体は極度に痺れ、皮膚は激痛に襲われた。
目は暗転し、何も見えない。
何が起きたのかが分からない。
俺の心を恐怖が支配した。
そこに、俺の耳に何者かが叫ぶ声が届く。
それは女の声色をしていた。
「この者は太守アビゲイル様が預かる! 文句がある者は然るべき場所に訴えよ!」
”この者”とは……俺の事だろう。
それは間違いない。
その女は俺の上にのしかかったまま気を失った者を自身の従者に取り除けさせる。
それから、俺の手を取って立ち上がらせたからだ。
彼女は俺の体に付いた泥や埃を手で払う。
これでもかと、入念に自身の手で、しつこい程丹念に行ってから、
「ハル……で間違いなくって?」
と俺に問うた。
俺は小さく頷く。
すると、彼女は言った。
「私の名はベアトリス。ここ”魔都エーリュシオン”で治安を司る者の長を務めていてよ?」
俺はその言葉に驚く。
俺の目にベアトリスは大学生くらいの年齢にしか見えなかったからだ。
そう、バイトでモデルやってます! みたいな。
そして、俺の顔と目と鼻の先でしゃべっていると言う事実に、尚、驚かされた。
「ああなった原因は貴方にあってよ?」
俺はその言葉を、代えの下着を穿きながら聞く。
何故か、衣服は勿論のこと、鎧下や鎧すら持ち去られていた。
無論、槍や剣も。
幸いにして背嚢はその場に残されていたがな。
「お、俺に? 一体、どう言う事だっ」
……てばよ? いかん……変な口調がうつった。
俺は頭を振り、先の話し方を振り払おうとした。
そして、背嚢の奥に念の為入れておいた普段着を着る。
その最中、ベアトリスは俺の背中を右手で絶えず摩っていた。
もう一方の左手で俺の胸に付いた二つのボタンをコリコリと弄りながら。
尖っているかの様に見える尻尾が絶えず俺の尻の辺りを彷徨っている。
すると、彼女は衝撃的な事を言った。
「貴方の身体の匂い、とても酷くってよ?」
ガーン! 何? 俺、クサイの!? でも、地下迷宮に入る前に朝風呂浴びて来たよ? 香りが付くから石鹸は控えてけど……昨夜はしっかりと石鹸使って洗ったしー。
まさか……加齢臭? いやいやいや、それないわー。
無理だわー。
まだ二十代前半なのに加齢臭はきついわー……
しかし、彼女はそうでは無いと言う。
汗や汚れの匂いでは無いと。
私達”悪魔”だからその種の臭いに敏感だと。
それは、
「外分泌物って知っていて?」
の一種らしい。
ああ、そこまで聞けば俺にでも分かる。
要するに、
「ええ、貴方からは驚くほど性フェロモンが出ていてよ?」
と言う事だ。
だが……何故? 確かに、この所ご無沙汰だ。
リリィやレイチェルがパタリと訪れなくなった。
それと無く誘っても駄目だった。
以前なら、待ってましたー! 、とばかりに応じてくれたのに……
その所為か?
「いえ、その程度の事では無くってよ? ”初精”と言う言葉、聞いた事あって?」
ああ、あるとも。
生涯一度も溜まったカルマの疼きに負ける事無く、零すことなく、溜め続けた”アレ”の事だ。
俺にそんな事は出来なかったがなー。
ん? ……あれ? あれれれれ? 今の俺……それじゃね? この世界に呼ばれてから一度も出してないしー。
夢精で零した事も無いしー。
本当かどうかは分からんが……滲み出てもいないらしいしー。
ん? つまり、貴方達は……
「漸く理解できて? 私達から見たら貴方は大変なご馳走。どんな対価を払っても得られぬ、並び称される物が無い幻の宝。そう、私達は”淫魔”。雄型をインキュバス、雌型をサキュバス。その名を知っていて?」
それを聞いた瞬間、俺は身を歓喜に打ち震わせていた。
俺はベアトリスに誘われるまま、太守の住まう居城へと向かっていた。
そこは俺が最初に出た広場からも良く見えていた。
白く輝く、天にも届かんばかりに伸びる塔。
彼女が”象牙の塔”と呼ぶ巨大建造物。
確か……現世を忘れ、逃げ込む場所だったかな? なる程、この階層によく似合う名称だ。
何故ならば、
「どういたして? 私達が”人”の”精気”を糧に生きているのが恐ろしく思えて? でも、彼らは勧んでそれを差し出していてよ?」
だったからだ。
そう、この階層に辿り着いたほぼすべての者がここに残る決断をしたらしい。
男も女も等しく、だ。
自らの精気を差し出す代わりに、衣・食・住・享楽を得て。
驚く事に、数世代を経ている例もあるらしい。
一体、ここで生まれ育ったらどんな人生になるんだろうか? いや、そもそもまともに育つんか? しかし、だ。
それであっても絶対数が少ないだろう。
これ程大きな都市だ。
淫魔だけでも数万はいるんじゃないのか? 彼らが食物連鎖の頂点だとするならば、その糧となる”人”はその十倍は必要では?
「つまり、”人”を養殖しているのか?」
俺がそう問うと、ベアトリスは驚き目を見開く。
更には口を手で隠しつつ、愛らしい笑い声を響かせた。
「ごめんなさい、とてもおかしくってよ? 人の養殖? とてもじゃないけど掛かる労力の割に見合わなくて?」
……そうか? 種の生き死にが掛かっているのなら、それくらいやりそうなものだが……
俺がきょとんとしていると、彼女は俺の腰に腕を巻き、諭すように説明を始めた。
「教えて差しあげてよ? でも、まずは自分で考えて? 今すぐ足りない物が有れば、欲しいものが有れば人はどうすると思って?」
「……金が有れば、売り手がいればそこから買う。つまり……」
「分かって? 私達は必要な人材を交易で得ていてよ?」
それって、人身売買? 尚悪くね? いや……現代でも社畜という名の奴隷制度が存在するらしい。
いや、寧ろもっとたちが悪い。
奴隷を買えば死ぬまで面倒をみるのが当たり前だったらしいが、今では簡単に”クビ”だからな。
だから俺は公務員になったんだ。
余談だがな。
「私達は交易で得た”人”を無為に殺さず、活用していてよ? 私が使役する”仮面の従者”もそうだと分かって?」
ベアトリス曰く、地上で不要となった人を引き受けているらしい。
その内訳は、犯罪者が主だ。
特に酷い犯罪を犯した者、繰り返し罪を犯した者、性犯罪者、未承認の浮気を繰り返す者、鉱山で働けなくなった者達が。
地上に置いておいても生かしておくだけで無駄に金が掛かるからな。
引き渡された彼らは、仮面を被らされ、強力な魅了を施される。
こうする事によって、生活に支障が出ない程度の隷属が出来るとか。
……その所業、正に”悪魔”のなせる業であった。
「地上の不要物から、死ぬまで精気を絞る取るの。素晴らしく無くって?」
ベアトリスは俺の腰を両腕できつく抱きしめながら、興奮冷めやらぬ声で言い放った。
ただ、俺は気になる事を問い返す。
「地上には何を渡しているんだ? 金貨とか無いだろう? 魔力結晶か?」
「金貨は無くてよ? 魔力結晶を欲しがる時もあってよ? でも、もっと貴重な、地上においては大変需要の高い物、知らなくて?」
……何だろう? あぁ、ミスリルか? そう言えば”深淵”で採れると聞いたな。
「そう、地上では”ミスリル”と呼ばれている鉱物の一種と思われている物。それを送られて来た”人”の重量と同量を送っていてよ?」
えっ、そ、そんなに? 犯罪者を送る代りに同量のミスリル? なんか……為政者の懐が温まって仕方ないな。
まさに一石二鳥。
これは……流石に”城”でも一部の者しか知り得ない機密事項じゃ無かろうか……
ただし、そうはいっても鉱石だ。
鉱脈を探して掘り返し、集めて精錬するんだろう?
「引き渡すまでの手間を考えると、割に合わないんじゃないか?」
「え? もしかして、ミスリルを鉄などと同じ鉱石だと思っているんじゃ無くて?」
違うの? 俺はてっきりそうかと……なら、何なの?
「それは何れ分かってよ? この”魔都”の外に広がる”森”に入れば……」
「森? この階層はここ以外は木々で覆われているのか?」
すると、ベアトリスは頷く。
俺はことのついでに今一つこの階層について問うた。
「なぁ、もし良かったらこの階層にある魔力結晶、魔法を習得できる場所を教えてくれないか?」
森の木々で覆われていた場合、上から見ても分かるまい。
であれば、現地の人に聞いた方が早いからな。
しかし、それを聞かれた彼女はあからさまに嫌そうな顔をする。
そして、彼女は嫌々ながらその理由を答えた。
「あの忌まわしい魔法の名前をどうしても答えなくてはいけなくって? 在り処をどうしても伝えなくてはいけなくって?」
まるでその事を口にするのも憚られるように。
瞳に涙をたたえ、それを俺に見せぬ様、俺の胸に顔を押しつける。
俺は仕方なく、
「頼む! どうしても教えてくれ!」
と言い、胸の上にある彼女の頭を優しく腕に抱いた。
刹那、息が荒くなるベアトリス。
そして、何度も深呼吸を繰り返してから、
「分かったわ。教えてあげても良くってよ。その名は……”言語理解力向上(永久)”……永遠に定められた人しか愛せなくなる魔法……」
と、まるでこれから死ぬかのような、小さな声で呟く。
彼女の心は、消え入りそうなほど、弱くなっていた。
だが、俺は違った。
それを聞いた瞬間、感情が抑制できなくなりそうになる。
いや、正直この可能性は考えていた。
随分と不能の期間が長いからな。
だが……改めて真実を突き付けられると……絶望よりも先にやるせない怒りに俺の心は満ちた。
『レン! お前は何というおぞましい魔法を俺に掛けたんだ! 実の父親が一生不能のままで良いと思っているのか!』
『思ってますよ! 寧ろ、今はもっと徹底的にしておけばよかったと思ってますよ! お母さんをあんなに悲しませるくらいなら!』
『何だと! 一体どういう意味だ!』
『態々教えたりしません! ご自分の胸に手を当てて考えて下さい! 暫く声も聞きたくありません!』
『おい! 待て、レン!』
レンはそう言って一方的に”思考転写”を拒絶する。
俺は、どうやらやってはいけない”何か”をしてしまったらしい。
何だ?
俺が思いにふけっているとベアトリスが話し掛けて来た。
「先ほどのは”思考転写”でよくって? ここから先は強力な”結界”が張られているから、もう出来なくってよ?」
俺はその言葉に前を見る。
そこには大きな扉が口を開いて俺が入るのを待っていた。
そう、俺達はいつの間にか”象牙の塔”の前に立っていた。
それはエッフェル塔の裾よりも遥かに幅広く、高さはエンパイアステートビルよりも高い。
壁面は乳白色をし、目に柔らかな印象を受ける。
壁の所々には窓が設けられ、光がキラリと反射していた。
「凄いな……遠目からはこれ程の物とは思いもよらなかった……」
俺は素直な言葉を吐く。
それを聞いたベアトリスは顔をほころばすも、
「驚くのはまだ早くってよ? 太守様に会うまではこらえておいて?」
と言い、先へ進むよう促す。
そして、それは事実だと知らされた。
「”魔都エーリュシオン”へようこそ。歓迎しよう、”探索者”ハル。汝を古くからの友の様にな」
それが太守アビゲイルから最初に送られた言葉。
それを裏付けるかの様に、太守の私室と思わしき場所で。
故に、その甘美な音色を奏でた声は響き、より美しく聞こえ、この世の物とは思えなかった。
間近に見える優しい瞳と長い睫毛。
それが俺を心地良く迎える。
すらりとした肢体に、身体にぴたりとしたドレスが彼女には良く似合っていた。
それも身体の色とは対照的な、白いドレス。
まるで、ウェディングドレスのようだ。
ただ、結婚式にはそぐわない。
肌が透けて見えているからな。
長い黒髪は腰の下にまで延び、艶やかさを誇っていた。
まさに、悪魔の如き美しさ。
そしてその彼女こそ紛うことなき”淫魔の王”であった。