#102 地を揺らすもの
火帝歴 三一九年八月一三日
”死の谷”で魔物の群れを駆逐してから四ヶ月が経過した。
その間、地下迷宮の攻略もすこぶる捗り、今では地下七十八階に到達している。
レン曰く”地下迷宮の深層”はこの階で終わりらしい。
この先は”深淵”と呼ばれる世界。
多くの猛者が挑み、決して戻る事が無いと伝えられている。
……俺はその事を考える度に身を震わせざるを得なくなる。
理由は……恐ろしいからだ。
何が待つのかようと知れないそこは俺が足を踏み入れるのを待っている。
それはエミの願いであり、俺の希望でもあった。
愛する者を再びこの手で抱きしめたい。
俺はそれだけを求めて、遥か足元から這い寄る恐怖を振り払う。
それしか、前に進む術を知らないからだ。
「あれ!? おかしいですね!」
すると、雪上車の前部にある操縦席から俺の思考を妨げる声がした。
声の主は兎人族のファリス。
齢十六の金髪碧眼の美青年のものだ。
彼は俺の代りにハンドルを握り、魔力を注ぐ事によって雪上車を走らせている。
無限軌道の音が煩く鳴り響いていた。
俺は聞き取りやすくするため、”思考転写”魔法に切り替える。
『……何がだ?』
『その、魔力結晶の位置が明らかに動いている……そう感じます』
『そんな馬鹿な……』
俺はそう答えてから、雪上車の後部に設けられた梯子を駆け上がる。
そして、雪上車の屋根へと出るハッチを跳ね開けた。
刹那、凍てついた空気が俺の顔をなぶる。
鼻の先と耳が痛くなった。
だが俺はそれを気にする事無く外へ出る。
そして、ハッチを元に戻し、”空中浮揚”魔法を使って空高く上った。
高度百メートルを超える高みへと向かう間に俺は防寒具のフードとマスクを被る。
これらが無いと耳は凍り、肺は痛む。
ただ、残念ながらゴーグルは無い。
透明なガラスやプラスチックがこの世界には存在しないからだ。
目指す高さに到達すると俺は更に魔法を行使した。
”魔力結晶探知”魔法と”距離測定”魔法をだ。
『どうですか?』
『ああ、本当に移動しているようだ。当初の目標地点より九時の方角に大きく離れている』
その距離は大凡六十キロ。
単純計算すると二時間は余計に掛かる。
『だが、問題無い。寧ろ朗報だな。転移部屋がより近くなった』
『そうですか! ですが……どうしてでしょう?』
『分からん。まぁ、気にしても仕方ない』
どうせ、碌な事じゃないんだから。
『そうですか? まぁ、ハル様がそうおっしゃるんでしたら。ではハル様が戻り次第発車いたします』
俺はその答えを受け、雪上車の傍らへと舞い降りる。
地面に足が触れるその瞬間に”空中浮遊”魔法を行使して。
足下の氷雪には俺が高所から落ちた証は見えない。
ただ、俺の体に強烈な衝撃が襲った。
ただそれだけだった。
『くっ! これが魔力結晶が移動する理由か! ファリス! 雪上車でもっと後方へ下がれ! 狙われるぞ!』
俺は非常事態をファリスの心に伝えつつ、目の前に聳え立った魔物をマジマジと見上げた。
『えっ? あっ、はい! 後方に下がります! すいません、手近な物につかまって下さい!』
ファリスはそう叫んだ直後、雪上車を勢いよく後進した。
俺はそれを”俯瞰視”魔法で確認しつつ、目の前の魔物に注意を集中する。
身の丈は十メートルを超す巨人。
且つて相対したサイクロプスより大きいそれの額には俺が先程触れようとしていた物が輝きを放っていた。
”魔力結晶”と呼ばれるそれは、触れる事によって封じられた魔法を習得することが出来る。
それが、今や地上十メートルを超えた場所にあったのだ。
巨人が顔を動かす度にその位置が変わる。
触れようにも、巨人の動きを止めるしかない。
だが……当の巨人は容易くそれをさせてはくれなさそうだ。
自身の身体と同じく、氷の塊をまるで棍棒の様に俺に対して振り下ろしていたからだ。
氷原に凍てついた棍棒の先端が触れ、硬い音が轟く。
それと同時に氷結した地面が鈍い音を立てて割れ始めた。
『速いっ!』
次の瞬間には巨大な棍棒に押し出された空気が俺を吹き飛ばそうと迫り来る。
俺は辛うじてそれを堪えるも、巨人の次なる一手に度肝を抜かされた。
その大きな開け放たれた口から人の頭位の大きさもある氷が飛んで来たからだ。
その内の一つが俺の額に直撃した。
『痛っ! ……痛ってーな! 凍った球って地味に痛いぞ!』
流れ落ちる血を袖で拭いながら俺は”魔法の盾”で巨大な雹の雨をやり過ごす。
硬い音が絶え間なく鳴り響き、目の前には巨大な氷の山が積み上げられていった。
すると、馴染みのある声が俺の心に届く。
『ふむ、それは”フロストジャイアント”じゃな。雪人族が巨大化したようなものじゃ。と言っても知性は無い。近寄る者を……』
『か、解説はいいですよ! 手伝って下さい! げっ! また棍棒が! ひぃいっ!』
俺は再び振り下ろされた棍棒を横に跳ぶ事で躱した。
空気を切り裂く音と同時に衝撃波が俺に届く。
刹那、耳鳴りが起こる程の大音が発せられ、地が大きく揺れた。
その音や地響きの発生した場所は大きく凹み、俺が避けなかったらと思うと……俺は激しく身震いした。
正に紙一重。
後コンマ一秒遅れていたら、俺は間違いなく死んでいた。
そして、レンに嫌味を言われつつ金貨一枚を請求されるところだ。
”復活作業代”という名目で。
まぁ、そんな事はどうでも良い。
それよりも師匠だ。
突然、雪上車の前に現れたかと思うと、
「ファリスに相談したい事があるのじゃ……乗せてくれんかの?」
と言って、雪上車の中に入ってきた。
以来、俺には構わずファリスと話しこんでいる。
せめて今だけは俺に構ってほしい。
と言うか、この化け物を倒して欲しい。
俺には些か荷が重そうな魔物だからな。
『それは無理じゃの。儂……先の急発進で気分が悪くなってしもうた……うぇっ』
『車酔いかよ! 親指と人差し指の間にある”ツボ”を押すと直ぐに治るよ! 早く手伝ってよ!』
『阿呆、そんな暗示が儂に聞くわけ無かろう?』
『なんで暗示って知ってるんだよ! ちっ!』
俺は使えない老人を放っておき、氷の巨人に相対する。
巨大な魔物は三十メートル程先で凍った地面に突き刺さった棍棒を引き抜くのに手間取っていた。
その間隙を突き、俺は魔法円を描く。
俺が持つ魔法の内、最速で且つ最大の貫通力を誇る”筒付魔弾”。
その魔法に”爆発”魔法を練り込んだ物を。
それを最も避け辛い巨人の胸元へと俺は放った。
「どうだ? これなら幾ら何でも傷の一つぐらい……な、何だと!」
あろう事か氷の巨人は棍棒から手を離すと、素早く背後に小さく跳んで俺の”筒付魔弾”を避けた。
更には、空手のまま俺に走り寄ろうとする。
僅か二歩。
それが三十メートルの距離を縮めるのに巨人が擁した歩数だった。
巨体が凄まじい速度で動いた故に、強烈な風が吹きすさぶ。
地面に落ちていた雪や氷の屑が周囲に吹き飛ばされていく。
と同時に氷の巨人は俺に対して棍棒を振り下ろした。
いつの間に? と言うのは愚問だ。
氷の巨人が自らの魔力を糧に作り出したのだろう。
同じ事を雪人族もしていたのだから。
強烈な一撃が何度も繰り返し振り下ろされる。
俺はその度に跳び、転がり、舞うかのように翻りながらそれを躱した。すると、
「ウォオオオオオーン!」
と氷の巨人が天を仰ぎつつ怒りの咆哮を上げた。
その音は鼓膜が破れるかと思う程の大きさだ。
「そろそろこちらから攻めるか?」
俺はそう呟くと共に、魔力結晶が嵌め込まれた剣に対し”火属性付与”の魔法円を描いた。
その瞬間、剣の刀身は紅蓮の炎の覆われる。
そこから更に魔力を込めると、赤い炎は白く輝き出した。
手に携えている俺にはその熱は感じられない。
だが、その色から数千度にまで温度が上がっているのだろう。
その証拠に、剣先が触れた地面は氷どころか、地面までが赤く溶け出している。
「行くぜ!」
俺は剣を右手側に立て構え、一気に走り出した。
その速度は氷の上を走っているとは思えぬ程早く、俺の姿を目で追える者はごく限られていただろう。
だが、魔物はその目でしっかりと俺を追っていた。
鈍く輝く赤い目で俺が走り寄る様を。
氷の巨人は片膝を地に突け、棍棒を右脇に下げて構えた。
そして、それを地面と水平に振りぬく。
俺が前後左右に飛び退いても必ず仕留められるように考えて。
「誰だよ! 氷の巨人には知性が無いって言ったのは!」
『儂じゃよ』
ぐぬぬ! そもそも、だ。
棍棒が地面に突き刺さって抜けずに往生していたのも演技だったのでは? 俺はそう考えずにはいられなかった。
だが、それが出来たのも束の間。
俺は苦肉の策として土柱魔法を行使して上へと逃れた。
瞬時に氷の巨人の背よりも高い場所にいる俺。
だが、俺の体は直ぐに下へと向かった。
巨人の棍棒が薙ぎ払われた結果、俺を支えていた土柱が木端微塵に破壊されたからだ。
それも、大砲が撃たれたかのような大きな音を立てて。
俺の体は自由落下を開始していた。
俺は落ちながら氷の巨人に目を遣る。
その魔物は棍棒を振りかぶり、俺が落ちて来るのを待っていた。
それはまるで、俺が白球で氷の巨人がトスバッティングをする野球選手の如く見えたに違いない。
……そう、奴は長嶋だ。
巨人だけに……
「あわわ! 落ちるー! フリーフォール嫌い!」
などと叫んではいられなかった。
奴の赤い目は俺を見据え、打ち頃の高さに来るのを今かと待っているのだから。
だが、世は無情。
巨人の体にたっぷりと引き付けられた棍棒が唸りながら俺に向けて放たれた。
あれに触れた瞬間、俺の体はバットのスィートスポットに当たったボールの如くへしゃげるだろう。
そして、トマトの如く赤く弾け飛ぶ。
そう……当たれば、な。
俺は間一髪のところで”空中浮揚”魔法を使い、落下を止めた。
それも、バットが、もとい、棍棒が俺に触れるか触れないかのギリギリを通る様に。
その結果、巨人はゴルフのフルスイングよろしく、体は伸び切り、両腕は左肩を大きく回り込み、脚は交錯し、その体勢で立ち続ける事は適わず、よろけて倒れた。
倒れ伏す直前、奴の目が見えた。
無機質な赤い光がほんの僅かに驚きの色を帯びていた。
無論、俺はこの隙を逃さない。
「大チャーーーンスッ!」
勇ましい声と同時に俺は無数の魔法円を描く。
それらに膨大な魔力を注ぎ、その中心から顕現する物をまった。
それは黒く、太く艶やかな帯。
そう、”捕縛”魔法だ。
まるで生き物の様に蠢く黒い帯が氷の巨人を覆い隠す。
次の瞬間にはきつく拘束された”それ”があった。
黒い帯状の物に簀巻きにされた巨人。
口枷までされている。
俺は思わずドキリとした。
それだけで無く、そう感じた自分を後ろめたく思う。
……ああ、俺もやはりあの人の子供なのだ、と。
「まぁ、そんな事は置いといて……」
俺は地面に転がっている巨人の首元に立つ。
刹那、無情にも剣を振り下ろした。
白く輝く光剣を。
それは夥しい量の水蒸気を発しながら氷の巨人の首を斬り落とした。
「いやー、今回の相手はやばかった……」
俺はそう独り言ちりながら、炎を消し剣を鞘に戻す。
それから、魔力結晶の傍らへと向かった。
巨人の額から一角獣の角の如く突き出たそれは青く輝いている。
俺はそれに手を添えた。
刹那、俺の脳裏に広がる知識。
それは新たな魔法を得た証左でもあった。
「何々? 聖属性付与? あれれ?」
それって……光属性付与と何が違うんだ? 俺が疑問に思う間に魔法円の意匠が頭の中に現れた。
それは、寸分違わぬ形をしていた、光属性付与魔法と……
「嘘だろ……こ、こんな事ってあるのか? 魔物を苦労して倒して得た魔法がそれ以前の階層で得たのと同じなんて……」
……気が付くと俺は雪上車の中にいた。
殊の外、気が動転したらしい。
「なんじゃ、もう終わったのか。もう少し他の魔物と戦っておれ。夜泣き対策をまだ聞いておらんのじゃ」
俺の気配を感じてか師匠が振り返りながら言った。
そう、師匠は三百歳を過ぎて初の子を得た。
それ故に、同じ年頃の子を持つ顔見知り、ファリスと育児の情報交換をしにきたらしい。
地下迷宮の深層にまでな。
ご苦労な事だ。
だがな、
「もう、帰れ! そんな事はエメリナに聞け!」
エメリナであれば姉の子を含めて六人の子供を育てているからな。
デニス……恐るべし。
「阿呆、特に面識も無い女に聞けるか! 全く、お主は育児経験は無いしのう……使えん奴じゃ」
「ほっとけ! ええ、どうせ私は役立たずですよ。無用の長物をぶらさげていますよー」
「言う程長くはない様じゃがなの」
「ぐっ! もう! 本当に早く帰れよ! 狭いんだよ! 採取部位を載せるスペースた足りなくなるだろ!」
「氷の塊なんぞ誰もほしがらんぞ。魔力結晶の大きさはたかが知れておるしの」
「知ってるよ! 師匠を追い出したいから言ってるんだよ!」
「えーっ、僕はドゥガルド様とまだ子供の事、話し足りないです」
「そうじゃろう、そうじゃろう。儂も同じじゃ。おっ、怒るな! 魔槍の穂先を儂に向けるな! そっ、そんな事よりも、そろそろ転移部屋が肉眼でも見える頃合いじゃなかろうか?」
「そう? どれどれ」
師匠が俺の気を逸らすべく述べた言葉にあっさりと釣られ、俺は雪上車の操縦席に移動した。
ファリスは喜んで俺と席を変わる。
そして、後部座席へと移動した。
それと同時にファリスと師匠の会話が花開く。
「そうそう、ユーフェミアがいうのじゃよ。目元が儂にそっくりだとな」
俺は魔力を流しエンジンを起動する。
すると、直に雪上車が僅かに動き出した。
エンジンの揺れが車体に伝わったからだ。
俺はその揺れを気にする事も無く、潜望鏡を覗きながら周囲を確認し始めた。
「ロケットペンダント見せて下さい。……ああ、確かに似てますね。鼻はユーフェミア様でしょうか?」
「うむ、そうじゃろう、そうじゃろう。口元もユーフェミアそっくりじゃ。男の子じゃが思わず唇に吸い付きたくなる」
「……男であっても、吸っていいと思います……」
「ん? 何かいうたかの?」
「い、いいえ! それにしても賢そうなお顔。将来が楽しみですね」
「おお! 分かるか! 正しく聡明な顔立ちをしておる。親の儂が言うのもなんじゃがの」
「まだ……見えないな」
俺はアクセルを踏み雪上車を動かす。
雪の上を無限軌道が走る為、エンジン音に加えて酷く甲高い音が社内に籠りだした。
その所為か、俺の背後で会話する二人の声が大きくなる。
「ええ、分かりますとも!」
「じゃがお主の子も中々の愛らしさじゃ!」
「母親のドリスに似て、素敵な女性に育ってほしいです!」
「お主とドリス殿の娘じゃ! それは美しく、豊かな身体をした女子に育つじゃろう!」
俺はそれらを気にせずに潜望鏡を覗いた。
すると、
「おっ! 何か見えたぞ!」
微かに人工的な建造物然としたものが目に入る。
速度を緩め、慎重に周囲を確認しながら進む。
案の定、背後の声は先程よりは大人しくなった。
「えへへ、聡明な男に麗しき娘。仲良く育てれば……」
「うほほ、もしかしたら……あり得るかもしれんのう」
「楽しみですね、我が子の成長が」
「本に楽しみじゃのう! 時に先の件、夜泣きの……」
やがてそれははっきりと見えた。
ドーム状の屋根をした灰色の建物。
「おお! 見えたぞ! 転移部屋が見えたぞ!」
俺は歓喜の声を上げる。
刹那、
「うるさいの! 黙ってもらえんかの! 大切な話をしておるのじゃ!」
抗議の声を浴びせ掛けられた。
「じゃ、帰れよ! なんでここで子育て相談会を開いてんだよ! 自室でやればいいだろ!」
「自室でやれば身の回りの世話をしてくれているユーフェミアにばれるじゃろ!」
「バレていいだろ! なんで隠すんだよ!」
「隠れて努力する。それが儂の”男の美学”じゃ!」
「そんなの師匠だけだよ! 努力している姿は見せないと女は気付かないぞ!」
売り言葉に買い言葉の応酬が続く最中、突如訪れる静寂。
暫くすると、疑問の声が発せられた。
「……そうなの?」
「……そうだよ、って俺の父親が言ってた。女性有権者にはそれが効果覿面だって……」
「ゆうけん? ……意味が分からん」
「……だよな」
再び静寂。
ただ、それは直ぐに破られた。
「……まぁ、よい。儂は少しでも残された時間を我が子と最愛の妻ユーフェミアの為に使ってやりたいのじゃ……」
師匠の物悲しい言葉によって。
俺は思わず、
「だからって……代表を辞するなんて事を言わなくても良かったんじゃないのか? それに少なくともお腹の中の子供が成人するまでは生きられるだろう?」
これまで師匠に問えなかった事を問うた。
しかし、彼の答えは、
「ふふふ、お主までそう言うのか? 残り三年以内でエミを助けると約したお前が……」
だった。
意味の分からない答え。
俺が、
「何だよ……それどう言う……」
と困惑していると、この話題を切る声が俺に掛かる。
それはファリスの声。
いつの間にか操縦席の側に立ち、潜望鏡を覗いていた。
「あっ、ハル様! 転移部屋に着いたようですよ」
知ってるよ! さっきそう言ったよ、俺!
そうして、師匠をそれ以上追及する事は叶わなかった。
地下七十九階。
そこがどの様な場所かは大凡の見当はついていた。
当然だ、地下七十八階までが”深層”だと聞いていたからな。
故に、俺は驚かなかった。
そこが辺り一面白色に淡く輝いていたとしても。
「”主の間”じゃな」
「ええ、その様です。師匠、どの様な魔物かご存知ですか?」
「無論、知っておる。じゃが……」
教えられないと彼は答えた。
ここから先は余程の事が無い限り手助けしないと約したから、と。
刹那、”警報”魔法が作動した。
俺の身に何らかの危険が迫っている。
俺は咄嗟に”魔法の盾”を展開した。
普段であればここまでで十分だったろう。
だが、この時ばかりはそう思えなかった。
故に俺は”石柱”を前方に建てる。
『良い判断じゃ。しかし、それでは足りんのう……』
師匠の言葉が俺の頭に響いた。
それを裏付けるかのようにそれは突然現れた。
轟音と共に”魔法の盾”と”石柱”すら貫き、俺の頬を掠めた物。
それは師匠の張った”魔法障壁”に当り砕け散った。
その余りの衝撃に俺は吹き飛ばされる。
砕け散った氷と共に。
周囲の温度が急速に下がり出す。
ほんのつい先程までは、春の陽気かと勘違いする程に暑かったと言うのに。
『今のは”氷鎗”じゃ。触れると凍りつく。お主の頬のようにな』
俺は言われて初めて気が付いた。
俺の頬が冷たく、霜の様に冷たいものが張り付いている事に。
顔の半分が麻痺したように動かない事に。
『……そうじゃな、魔物の名前ぐらいは教えても良かろう。……”フェンリル”。それがこの階層の主の名じゃ』
それは古の神の一柱。
またの名を”地を揺らすもの”と呼ばれていた。