#001 前編プロローグ
玄関の扉が開く音と同時に心が癒される音色が聞こえてくる。
ドアベルの音だ。
そのすぐ後に、心待ちにしていた声が聞こえて来た。
「ハル、ただいま!」
妻のエミだ。その声を聞くだけで俺の心が弾む。
俺はエミを迎えに玄関に向かった。
エミは丁度ブーツを脱ぎ終わったところだ。
近づく気配に気が付いたエミは振り返り俺に抱き付く、いや、俺がエミを抱き締めている。
「お帰り、今日はどうだった」
俺は軽く口付けを交わしながらエミを労う。
エミは目尻を下げ、俺の首にぶら下がりつつ俺の頬にキスをした。
「インフルエンザの所為かな、昼休みも取れないくらい忙しかったよ! あと……はいこれ! お義母さんから」
それは母の作った煮物料理だった。
エミの大好物だ。
エミはこれを俺の実家に行く度にせがんでいた。
「助かる! あと一品に悩んでいたところだったから丁度良かった」
エミと俺の母は同じ職場で働いている。
その為か、度々エミ経由で差し入れが貰える。
有り難い事だ。
だが、エミは不満そうに頬を膨らませている。
「えーっ! 駄目だよ、ちゃんともう一品作ってよね。私の誕生日なんだから!」
俺は、
「はいはい。じゃ、お風呂に入っておいで」
と答え、受け取った煮物料理を器に移した。
実際は既に最後の一品に取り掛かっていたところだった。
耐熱スープ皿に盛られたジャガイモやマカロニと生クリームの上におろした数種類のチーズをのせ、オーブンで焼く。
簡単なグラタンの出来上がりだ。
「おいしそうな匂い! それで最後だったら一緒に入ろう!」
俺はグラタンの焦げ加減が心配だったがエミの誘いを断る事は出来なかった。
理由はエミがイイ女だからだ。
エミと知り合ってから二十年は経つが、まだエミより魅力的な女に会ったことが無い。
二人が結ばれる前からエミの周りには男が群がって来ていた。
本当にエミはもてていた。
俺はよく心の中でそいつらに対して呪いの言葉を投げ掛けていたものだ。
しかし、いくら幼馴染とはいえ、俺のどこが良かったのか今でも分からない。
その様な事を考えながら、俺はエミの待つ風呂に入っていった。
「美味しかった! ハルのお嫁さんになって私は本当に幸せ者だ! 愛してる、ハル!」
「エミ、お前、飯が美味い時だけ愛してるって言うなよな……」
俺の言葉を他所にエミは口付けを催促するように口を突き出していた。
エミより魅力的な女性に会ったことが無い俺は、それに抗う事が出来ない。
優しく口付けした俺はエミを抱きかかえ、ソファーに横になった。
そのまま互いの唇を貪り続けた俺たちは頃合いだと感じて唇を話した。
エミの綺麗な顔が紅潮している。俺を見る目が潤んでいた。
「ハル……あのね、大切な話があるの……」
エミの濡れた唇が俺に聞けと言っている。
俺は気持ちを抑えて真面目な顔でエミを見つめた。
「……最近、生理がきてないでしょう?」
そう、エミはここ暫く生理が無かった。
原因は二つほど考えられた。
一つは仕事が忙しいと言う事もあり、生理不順でないかと。
「それにトイレの回数が増えたり、おりものが多くなったりしてて……」
エミの顔が段々笑顔に変わっていく。
「今日、産婦人科の先生に見て貰ったの……そしたら……」
「……そしたら?」
ここまで聞いたら誰でも分かるだろう。
妊娠だ。
エミが妊娠したんだ。
俺に子供が出来た。
きっとそうだ。
俺はエミの続く言葉をまった。
ニヤつきを無理に抑えようとして変な顔になっていたのだろうか。
「ふふ、変な顔!」
エミが笑い出した。
流石の俺もこれには腹をたてた。
エミの頬を両方引っ張り上げる。
「痛い! 痛い! ハルごめんにゃさい……」
「……続きを」
俺は優しく催促した。
エミは多分妊婦。
妊婦は優しくしなくてはいけない。
「妊娠三ヶ月だって! ハル、ついに出来たよ!」
「本当に!? エミ、ありがとう!」
俺はエミを優しく抱きしめた。
エミも俺に抱き付いた。
そして俺たちは中断していた口付けを再開した。
互いの唾液を十分に交換し終え、次に進む頃合いだと考えた俺だが、心に引っかかるものがあった。
俺はそれを言葉にした。
「妊娠中ってして大丈夫だっけ?」
何を? とは言う必要は無い。
エミの頬は再び赤く染まり、触れている身体が熱くなっている。
エミは俺を上目遣いで見ながら言った。
「それも先生に聞いたの。そしたらゆっくりすれば大丈夫だって。あとは……」
出血やお腹の張りがでなければ大丈夫らしい……
お腹の張りは良く分からないが、出血は危険だ。
「どうしよう……やめとこうか」
俺はエミと胎児の事を心配した。
続けたい気持ちは十分あるが、命の方が大事だ。
だが、エミは首を横に振った。
「ゆっくりすれば大丈夫……ゆっくり……して」
エミの誘うような声が堪らない。
そうだな。
ゆっくりやろう。
ゆっくりやれば大丈夫!
俺はエミの首筋から鎖骨や胸に唇を這わす。
エミが堪らず声を漏らすが、俺は止まらない。止まる必要が無い。
その声はエミ自身が煽情する為に出すと知っているからだ。
エミの服を捲り上げ、脱がしつつ、俺も服を全て脱いだ。
そこでふと、俺は大切な事に気が付いた。
「あっ! ティッシュペーパー忘れてた……」
後から用意するのでは遅すぎる。
俺はそれを経験から知っていた。
ソファーカバーが洗濯機で丸洗い出来る物だとしても油断は出来なかった。
「もうっ!」
エミが眉根を寄せて怒っているが、それも可愛らしい。
俺はエミの頬に軽くキスをしてから全裸のままダイニングテーブルに近づく。
そして、その上にあるティッシュボックスを取りエミの待つリビングへと向かった。
遠くで除夜の鐘が鳴り始める。
俺は左手で局部を隠しつつ、右手でティッシュボックスを振った。
ソファーで待つエミに、あったよ、と見せるためだ。
そのエミは両手を俺に向けて伸ばしている。
早く来てとせがんでいた。
俺はエミを焦らすようにゆっくりと足を交差させながら歩いた。
それがいけなかったのだろうか?
室内の灯りが突然消えた。
「停電?」
そう考えたが、鳴り響いていた鐘の音も聞こえない。
何かがおかしい。
すると、足元が突然眩いばかりの光で溢れた。
あまりに強い光の為か、一時的に目が見えなくなる。
「ハル! 足元!」
エミが警告する様な口調で声を上げた。
漸く目が見えるようになった俺は足元に目線を移した。
そこには円形とその中に日本語や英語では無い文字や記号のような物があった。
所謂魔法円というやつだ。
「上にも!」
エミの声に顔を天井に向けるとそこにも同じような物がある。
二つの魔法円を結ぶ様に淡い光が出ている。
取り敢えずここにいるのはまずい、俺はそう考えた。
急いで出ようと床を蹴り外に飛び出す。
「痛っ!」
魔法円の端の辺りで甲高い音と共に俺は弾かれた。
淡い光が壁の如く作用している。
如何やら俺は出れないらしい。
終わるまで待つしかないのだろうか? どうしよう、堪らず俺はエミの方を見た。
すると、エミの姿が薄く見える。
俺の背中に冷たいものが流れた。
エミが慌てて近づいているのが見える。
「エミ! 危ない近づくな!」
俺はエミの身を案じた。
外からこれに触れると何が起こるか分からなかった。
だが、エミはそんな事を気にしない。
勢いよく手を叩きつける。
俺の耳に鈍い音が届いた。
「ハル! 何よこれ! 私のハルをどうする気!」
俺は急いでエミの側に寄る。
何度叩いても効果が無い。エミの手が心配だった。
それにエミの姿が先ほどよりも薄い。
俺は薄っすらと光る壁に手を添えた。
エミはそれに気が付き、反対側から手を重ねる。
微かだがエミの温もりを感じた。
「エミ! 愛してる! 俺の親を頼ってくれ! それと、必ずお前の元に戻るから!」
俺は死ぬかも知れないがエミを他の男に譲るつもりは無い。
それに、死ななかった場合、再会できた場合、他の男がいたらきついからな。
「そこは俺のことは忘れろ! でしょ!」
エミは俺の事を良く分かっている。
泣きじゃくりながらも答えてくれた。
俺も気が付いたら泣いていた。
エミの温もりが感じられなくなり、姿も見えなくなった。
やがて辺りが暗闇に包まれる。
暫くあった体の感触も無くなり、気が遠くなっていく感じがした。
俺という存在が消えた。
俺の意識が戻った。
相変わらず辺りは真っ暗闇ではある。
だが、体がある事は分かった。
俺は体の各所を触ってみる。
「!」
明らかにおかしい。髪が短くなっている。
それに、以前より体が小さく、痩せているように感じる。
小さくなったと慌てる俺を他所に周りが白く輝きだした。
その光の強さに俺は目を開けることが出来ない。
すると、いきなり体が落ちていく感覚がする。
まるで遊園地で感じるフリーフォールの様であった。
その直後、大きな音を響かせながら何かに着地した。
いや、打ちつけられた。
俺の全身に激痛が走る。
余りの痛さに声が出ないとはこのことだと理解した。
恐る恐る目を開けると足がありえない方向に向いている。
明らかに折れていた。
それも見事なくらいにぽっきりと。
更に頭が痛い。
痛む場所に手を添えると、ぬるりとした感触がする。
手ひらを目の前に戻し見てみると、そこに鮮血が付いていた。
やがて目に血が入りだす。
「やばい……多分死ぬ……」
俺は一人呟いた。
ここが何処だか分からないが、エミに確実に会えなくなる。
俺の頬を涙が伝う。
俺が一人、絶望を感じていると誰かが駆けて来た。
多分男だ。
男は茶色の長いローブの様な物を羽織っている。
魔法使いのコスプレか?
その男は俺に何かを叫ぶ。
だが、俺には何を言っているのか一切分からなかった。
男は諦めたのか溜息を吐く。
それはそうだろう。
両足が折れ、頭から大量の血が出ている。
これから救急車で運ばれても助からないだろう。
俺の意識が朦朧としだした。
すると男が手のひらを俺の方に翳した。
「―――・・――・・・・――」
男の手のひらのやや前方の空間に魔法円が現れた。
「!」
俺の驚きを他所にそれから飛び出した白い光が体を包む。
先ほどまで全身を焼けるような痛みが襲っていたがそれが無くなった。
俺は足を見た。
真っ直ぐになっている。
頭の傷口を恐る恐る触る。
痛くない。
だが、血はついた。
「助かったのか?」
俺の言葉に男は一瞬嬉しそうにした。
だが、直に顔を顰めた。
『貴方の言葉が分からない。だから思考転写してます。貴方の思考も読んでます』
俺は焦った。
良からぬ事を考えなようにしなくては。
『大丈夫です。記憶は読めませんから』
男の口元が上がった。
笑っているようだった。
何かに気が付いた顔をして、慌ててローブを脱ぎだし、俺にそれを掛けた。
『それを着てください。広場で裸はまずいので』
俺は全裸である事を今更だが気が付いた。
急いで渡されたローブを纏う。
俺は礼を言うために男を見た。
その男は肩まで銀髪を垂らし、目は赤かった。
顔は綺麗に整っている。
俺から見ても美男子だ。
腰には銀色の装飾を施された短剣を佩いている。
「異世界?」
正直、今更な言葉だと俺も思う。
魔法円に魔法円から飛び出す光。
その光に包まれると一瞬で怪我が治った。
異世界で無くてなんだと言うのだ。
大体、今どきの中学生でももう少し気の利いた台詞を吐くだろう。
だが、俺にはこれが限界だった。
それに銀髪、赤目はお約束の最強キャラだ。
多分、切れるとすごく怖い。
『どこかの国名ですか?残念ながらここはクノスです。迷宮都市クノス。私の名はレン。貴方の名前は?』
優しく聞いてくるが俺は騙されないぞ。
友達になると思わせておいて、奈落の底に導いたりする訳だ。
しかし、冷静に考えよう。言葉が通じないようだ。
今はこの男に頼るしかない。
それに呼び名ぐらい答えてもいいだろう。
「……ハル」
これが俺とレンの会遇だった。