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とりあえず、曹魏による孫呉侵攻が始まる前後までは魏軍寄りのストーリー。
一応、張燕こと飛燕の紹介を含めているので。
「−−宴、でありますか?」
「えぇ。今夜、城下の酒楼を貸し切って催そうと思っているの」
昼食も終わり、城勤めの官吏達が午後の仕事へ取り掛かろうとする刻限に飛燕の自室兼執務室を訪れたのは華琳である。
男の生活空間にしては小綺麗−−というよりは、ここを与えた頃から殆んど変わっていない内装を眺めつつ彼女は腕を組み、次いで既に仕事へ取り掛かっている飛燕を見遣る。
「……この部屋、殆んど−−いえ全く変わっていないわね」
「…あぁ…大抵の場合、警備隊の詰所で寝泊まりしますから…こちらへ帰って来て寝る事が少ないのですよ」
「…そう……。休暇は必要かしら?ずっと働き詰めだと聞いたわ」
「大丈夫です。…第一、新参者が着任早々に休暇など取れますまい」
「…確かにね…。……というか、人と話す時ぐらい筆を止めたら?」
「…面目ない。…申し訳ありませんが、これが終わるまでお待ち下さい」
とある猫耳軍師やとある大将軍あたりが見たら“不敬”と激怒されかねないが、これが飛燕の仕事に対するスタンスなのだと判っている華琳にとってはからかいのネタでしかない。
実際、彼女は一心不乱に筆を走らせる飛燕を見て苦笑している。
しばらくすれば、彼は書き上げた書類の墨を乾かす為、それを机の端へと追い遣り、筆を硯の上に置いた。
「……綺麗な字ね。…誤字や脱字もなく文面も簡潔に纏めてあって読み易いわ」
「恐縮です。…宴の件に話を戻しますが…」
「えぇ。時間は取れるかしら?」
「……………」
「…その様子だと…無理のようね」
「はっ…申し訳ございません…。今夜は夜警ですので…」
「訂正なさいな。“今夜も”でしょう?」
「…はっ」
「…勤務時間は?」
「前半は申の刻から亥の刻まで。食事と休息に一刻ほど使い、後半は子の刻から寅の刻まで。その後は日中の警邏班に引き継ぎます」
「……ちゃんと寝てるの?」
「四半刻も眠れれば充分です。御安心下さい」
「……上には上が居るという格言は真実だったのね…」
「は?」
「なんでもないわ、こっちの話よ」
飛燕の今夜の勤務時間は1600時から2200時。そして二時間の休憩を挟み、0000時から0400時までとなっている。
ちなみに城でのデスクワークが始まるのは0600時だ。
この男は、こんな生活を実に警備隊々長を拝命してから約一ヶ月ほど続けている。
これでは華琳が心配するのも無理はないだろう。
彼女は瞑目すると呆れ半分、感心半分の溜息を零した後、飛燕へ視線を向ける。
「どうしても、とは言わないけれど……時間が取れるなら参加なさいな」
「…はっ。努力します」
用が済んだ華琳は踵を返し、立ち去ろうとするが−−扉まで一歩の所で立ち止まる。
「飛燕」
「なんでしょう?」
「…貴方が枕を高くして眠れるようにする為には…どうすれば良いかしら?」
華琳は振り向かず、彼へ問い掛ける。
それを聞き、飛燕は顎へ手を遣り……ややあって口を開いた。
「……天下が平定された暁、でしょうか」
「…そう…。…なら、私も努力しないとね。でも安心なさい。そう遠い事ではないわ」
「……では、楽しみにさせて頂きます」
華琳は扉を開け、彼の部屋を後にし、飛燕はそれを微笑を湛えつつ見送った。
「……声掛けは……一通り済んだわね。……それにしても……」
廊下を歩き、自身の執務室へ向かう華琳がふと呟く。
「…強制してでも休暇を取らせた方が良いかしら?」
飛燕の献身的な勤務態度は評価できるモノの、やはり難があるようだ。
「…忠告しても無理だろうし−−あら?」
手で顎を擦りつつ歩いていた華琳の耳に誰かが駆ける足音が届いた。
それは−−段々と近付いてくる。
「あれは……流琉?」
廊下の向こうから駆けて来るのは彼女の親衛隊を統率する二人の隊長の片割れであった。
「−−あっ、華琳様!!!」
「流琉、どうしたの?それと廊下を走るのは止めなさい」
「すっ済みません」
自分の姿に気付いた流琉が駆け寄って来るのを認めながら、華琳は粗相を窘める。
「それで、どうしたの?」
「あっあの…飛燕兄様を知りませんか?」
「飛燕?ついさっき会ったわよ」
「どちらにいらっしゃいましたか!?」
「彼の部屋だけど……本当にどうかしたの?」
流琉が彼女へ迫る勢いで尋ね、それを受けた華琳は少し尻込みしてしまう。
「私と季衣と一緒にお昼を食べる約束をしてたのに飛燕兄様ったら全然来ないんです!!…作った料理が冷めちゃいましたよ…」
「…………」
どうやら彼は“既に仕事を始めていた”のではなく“まだ仕事を続けていた”ようだ。
「…そう…。なら早く行って、誘ってあげなさい」
「はい、失礼します!!!」
頭を下げた流琉は華琳の脇を通り抜け、飛燕の執務室へと向かう。
−−注意されたのにも関わらず、走って。
「……はぁ……」
持病の頭痛がしてきたのか華琳は片手で自分の額を押さえる。
「……本当に…その内、休暇を取らせないとね…」
「−−−…はぁ…」
「どうなさったんですか、旦那?」
「ん?」
「また溜息です。不味い安酒が更に不味くなりますよ」
「…普通、自分が出してる商品をそこまで卑下するモノか?」
「旦那だから言うんですよ。じゃあ、お尋ねしますが……それ美味いですか?」
「…美味いとは言えんが、個人的には呑めれば良いからな。味は気にしていない」
「でしょうね。そいつを好んで呑むのは旦那ぐらいなモンです」
「安いからな」
「えぇ。ここいらの界隈で一番安く、一番不味い酒ですからね」
「ククッ…」
馴染みの酒家の店主が漏らした歯に衣着せぬ物言いに飛燕の頬が緩む。
「……なにか悩み事でも?」
「……いや、些末な事だ」
呟いた彼は馴染みの安酒を満たした盃を傾けると酒気に染まった息を吐き出した。
「今夜、曹操様主催の酒宴があったのだが…俺はこの通りだ。こんな場末の酒家で安酒をかっ喰らってる」
「旦那も言いますねぇ。…まぁ…確かに場末ですが」
「ククッ…店主も大概だな」
「お誉めに預かり恐悦至極です」
皮肉と冗談交じりの会話は気心知れた仲の証である。
「…まぁ個人的には、こっちで呑む方が性に合ってるがな」
「嗚呼…嬉しい事を仰る。御礼に一本つけましょう……安酒を」
「頼む−−−」
不意に言葉が途切れたのを聞き、店主が飛燕を見ると彼は剣の柄を握りつつ戸を睨んでいた。
「−−旦那?」
「……………」
飛燕は立ち上がると剣を抜き、その切っ先を戸へ向ける。
「誰か?」
戸の向こうにいる気配は答えない。
「誰か?」
二度目の問い掛けにも答えない。
警備隊では勤務中にこのような事態に鉢合わせた際、相手へ三回の呼び掛けをする。
それでもし答えなければ、警備隊員はその人物の殺傷を許可されている。
最後の呼び掛けを行おうと飛燕が息を吸い込んだ瞬間−−戸が開いた。
「…………失礼」
謝罪の言葉と共に彼は携えた剣を鞘へ納め、先刻まで座っていた椅子に腰掛ける。
「あぁ申し訳ありません、お客様。本日の営業は終了しておりますので…」
「そうなのか?……だが、そちらは呑んでいるようだが…」
「はっはぁ…そうなんですが…」
外の冷気を遮断する為、戸を閉めつつ飛燕へ歩み寄って来るのは秋蘭だ。
夜分遅くの突然の来客−−それもこの店には珍しい女性の姿に店主は少し驚いている。
一旦は断りを入れた店主だが……飛燕を見て一人も二人も同じ事だと思い至り、この店の雰囲気には不釣り合いな美女へ向き直る。
「…お呑みになられますか?」
「良いのか?……酒は遠慮しておこう。代わりに水を一杯頂きたい」
「畏まりました」
「うむ。…隣に座っても?」
「…どうぞ」
飛燕は盃を傾けつつ右隣の椅子を引き、彼女の着席を促す。
それに秋蘭が座ろうとする瞬間、腰がしっかりと収まるよう椅子を軽く押し込む。
「お待たせしました」
「あぁ、済まない」
「……酔われましたか?」
「ん?…まぁ、多少な。無論、不覚を取る程は呑んでいないぞ」
彼女から漂う微かなアルコール臭に気付き、飛燕は酒宴からの帰りだろうと判断した。
眼前に置かれた湯呑を取り、秋蘭が水を飲み下す。
「…多少と言う割には大分、顔が赤らんでおいでだ」
「そうか?……ふむ…まぁ姉者よりはマシな方だ」
「…元譲将軍は?」
「凪達が送っているが…アレでは難儀しているだろうな」
「…………」
その言葉に飛燕は凪達へ心中で“御愁傷様”と唱える。
「……勤務中ではないのか?」
「あと半刻程は休憩時間です。…御安心を。酒は呑んでも呑まれぬよう心掛けております」
「…至言ですなぁ、旦那。ウチの常連達に聞かせてやりたい」
「…止めとけ。おそらく馬の耳に念仏だ」
「…でしょうなぁ」
「フフッ…」
突然、喉の奥から微かな笑い声を出した秋蘭に二人の視線が向けられる。
「……どうかなさいましたか?」
「いやなに……随分と仲が良いと思っただけさ。…お前も常連か?」
「…店主。自分は常連…か?」
「ほぼ毎日のようにいらっしゃる方が今更なにを言われます」
「…だそうです」
「長いのか?」
秋蘭の問い掛けに飛燕は僅かに無精髭が生えた顎を擦りつつ黙考する。
「…新兵として入隊した頃からですので……まだ三月程度…か?」
「えぇ。それでも長い方ですよ。この店は飯が不味い、酒も不味いって不評でしてね。常連客は旦那みたいに舌がおかしい連中ばかりです」
「…オイ、それは言い過ぎだろう」
「っと、こりゃ失敬。旦那は安酒を呑みにいらしてたんでしたね」
歯に衣着せぬとはこの事か、と秋蘭は再び喉の奥から笑いを零す。
そして飲み終わった湯呑を卓上へ置くと立ち上がった。
「馳走になった。そろそろお暇させてもらう。では、な」
「………」
彼女が戸を開け、店を出た瞬間、飛燕は盃へ注いだ酒を全て呑み干し、立ち上がる。
「…俺も勘定を」
「もうですか?いつもは、もっといらっしゃるのに」
「…女性の夜道の独り歩きを見過ごすのは警備隊々長としてはな」
「なるほど−−はい、確かに頂きました。……ひとつ宜しいですか?」
卓に立て掛けて置いた剣を腰へ差しつつ、飛燕は尋ねて来た店主に視線だけを送る。
「さっきの方なんですが……あの夏侯惇将軍を姉と呼ぶって事は……」
「あぁ、店主の想像通りだ。…じゃあな」
「…はい、明日もお待ちしてます」
会釈する店主へ彼は軽く手を振りつつ、戸を開けて外へ出た。
呼吸をすれば冷たい外気によって息が白く染まる。
「さて…城かな」
大通りを城のある方角へ進んで行くと−−彼の予想通り、夜の闇に紛れ、白い息を吐く人影が浮かび上がる。
普段の彼女ならもっと歩行は速いのだが、やはり酔いが回っているのだろう。
「妙才将軍!」
「−−む?……張燕?」
少しばかり大きく声を上げると、気付いた秋蘭が振り向いた。
「呑んでいたのではなかったのか?」
「はっ。ですが女性を夜道で独り歩きさせるのは警備隊々長としては有るまじき行為ですので」
「そうか……なら、頼むとしよう」
「はっ。…城までで宜しいでしょうか?」
「うむ。この時間に屋敷へ帰ってしまっては使用人達に面倒を掛けるからな」
護衛の為、飛燕が先頭を切って歩き出すと、その後を秋蘭が続く。
「…あぁ、そういえばな」
「なにか?」
「姉者が怒っていたぞ。“華琳様のお誘いを無下にするとは!!”とな」
「……返す言葉もありません」
「更に言えば……凪達も少しお冠だったな」
「……凪殿達もですか?」
「うむ。“隊長は働き過ぎです!!”だったか?」
「……そうですかね?」
「自覚がないのは考えモノだな。……まぁ、勤務態度だけは評価できるのだがな」
「……“だけ”ですか?」
「あぁ。だけ、だよ」
忍び笑いを始める秋蘭とは逆に飛燕は深い溜息を零す。
「…ところで−−あぁどうでも良い事なのですが…お尋ねしても?」
「あぁ、構わん」
未だ忍び笑いが止まらない彼女へ振り向きもせず、彼が問い掛ける。
「…よく自分があの店に居ると判りましたな?」
「…フゥ…それか…。凪が話してくれたよ。あの酒家がお前の馴染みの店だとな」
「…………」
話す必要があったのか?と彼は心中で部下である生真面目な少女へ軽い悪態を付く。
「…それで何故、あの店に?」
「愚かしいほど生真面目、私達の前で愚痴を零さず、仕事の鬼のような奴が通い詰めているんだ。興味があって当然だろう」
「…そんなモノですか?」
「そんなモノさ。…何故、通い詰めているんだ?」
「強いて言えば安酒が呑めるから、でしょうか」
「…それだけか?」
背後で呆れたような声を発した秋蘭へ向かい、飛燕は肩を竦める。
「私のような低俗な人間には“それだけ”で充分な理由になります」
「私はてっきり静かだからと思ったが…」
「あそこが静か?……一度、夕刻あたりに行ったら判ります。煩い事この上ない」
「…どれほど?」
「頭痛がしてきます」
「…それほどなのか?」
「高貴な方が万が一にもいらしたら……下品な会話で卒倒するか手討ちになさるでしょうね」
相当だな、と秋蘭は想像しつつ先導を続ける飛燕の後を追う。
「だが、頭痛がする程でもお前は常連になったと言う事か」
「言ったでしょう。自分は“低俗な人間”。…不思議と肌に馴染むのですよ」
「…そういうモノか?」
「そういうモノです−−正門までで宜しいですか?」
「む?」
些か酔っていた秋蘭は気付かなかったが、既に二人は城の正門の前へ辿り着いていた。
「では、お休みなさいませ。自分は警邏へ戻らせて頂きます」
「手数を掛けたな」
「いえ、お気になさらず。では…」
「うむ…」
会釈をした飛燕は、その場で回れ右をすると夜警へ復帰の為、そのまま歩き出す。
白く染まる息を引きつつ去って行く彼の背中を見送った秋蘭も自身の部屋へ戻る為、歩き出した。