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次話、終章~旅路の果てに~
ーー月が天に輝く深夜、建業の邸宅で和樹はひとり酒のボトルを傾けていた。
バカルディのボトルの注ぎ口を唇から離し、腰掛けた縁側へゴトリと音を鳴らして置くと寝間着の袖口からタバコのソフトパックとジッポを引き摺り出す。
キンッと甲高い金属音を奏でてジッポの上蓋を開けると銜えたタバコに火を点け、蓋を閉じて消火すると紫煙を吐き出した。
ーー五胡との戦いは連合軍の勝利で終わった。
大軍勢を擁し偉容を誇った五胡軍は三国の連合軍の猛攻を受けて壊走し、中原から追いやられ、最終目標として企図していた中原の征服は頓挫した。
再び戦備を整えて侵攻するには数年がかりの期間が掛かるだろう。
とはいえ勝利した側の連合軍も嵩んだ戦費に加え、戦力の低下が問題となり、中原から打って出ての五胡への侵攻は不可能となった。
息の音を止める事は出来なくなったが、それは逆に三国に生きる民草にとって別の僥倖をもたらしたのだ。
ーー三国同盟。
戦力低下と嵩んだ戦費により各国は大陸の覇を競う戦を続ける事が難しくなったのだ。
その為、一時凌ぎではあるものの三国は同盟を結び、領土への直接侵略ならびに間接侵略を禁じ、各国の経済発展や軍事面での協力体制を取る事になった。
しかし、つい最近まで干戈を交えて戦をしていた三国だ。
いきなり同盟となっても気が抜けず、三国の国境では厳重な警戒体制のまま監視しあっている。
ーーふと気配に気付いた和樹がタバコを銜えたまま草履を履いて立ち上がると門まで進み、閂を外した。
「ーーやはり起きていたか。酒臭いぞ和樹?」
「ーー戦帰りなんだ。好きな物を飲み食いさせろ、葉」
唇の端にタバコを銜えつつ和樹が見下ろすのは華雄だった。
互いの事を預けられた真名で呼び合い、二人は縁側へ揃って腰掛ける。
和樹が彼女の真名を預けられたのは五胡との戦が終わる間際だった。
ただし呼ぶには条件が付けらた。
彼女曰く、人前で呼ぶな、との事らしい。
和樹は首を傾げたがそれで良いのならと快く預かり、真名を呼ぶのはこうして二人きりの時だけにしている。
「お前の事だから深酒をしていると思ってな…今宵は土産代わりに肴を持参したぞ」
「なんだ?」
華雄が携えて来た袋の口を開け、中から取り出した物を和樹へ手渡す。
「干し肉か?」
「あぁ。塩浸けして日干しにしたのだ。食べてみろ」
言われるがまま土産の干し肉を銜え、犬歯で噛り取って咀嚼すれば程よい歯応えと塩気があった。
「……うん美味い。…というか……確かに俺は酒の肴にジャーキー…干し肉を食うが……キミ、知ってたか?記憶にある限りだが目の前で食べた事はない筈だが……」
「…いや…まぁ……黒狼隊の者に教わってな。お前が好きだと聞いて作ってみた」
「納得……」
干し肉を噛りつつ、ボトルを引っ掴んで注ぎ口を銜えると咀嚼した肉を酒で流し込む。
「遅くなったが驃騎将軍への就任おめでとう。将司は車騎将軍だったな」
「めでたいのか微妙な所ではあるがな。領地に九江郡を拝領した」
「そう耳に挟んだな。将司はお前の補佐も兼ねて直ぐ隣の廬江郡だったか。どちらも交通の要衝だ」
「応。どちらがヘリと戦車を多く持って行くかで揉めとる最中だ。将司は九江は湿地が多いから戦車使えんだろう、と言ってきている」
「では戦車はやるから、あの空飛ぶ絡繰を全部寄越せとでも言ってやったらどうだ?」
「それは妙案だ……空中機動に特化する事になるがな」
一頻り軽口と苦笑が済むと和樹は酒のボトルを華雄へ手渡した。
それを受け取った彼女は和樹に倣い、ボトルの注ぎ口を銜えて酒を飲み下す。
「ーー…ふぅ……ところで和樹」
「あん?」
「お前、戦が終わったら呉を出ていくと孫策に言ったのではなかったか?」
「あぁ確かに言った」
「出て行かんのか?」
「出て行って欲しいのか?」
和樹が唇の端を吊り上げて逆に尋ねれば、彼女は言い淀み手中にあるボトルへ視線を落とした。
「意地の悪い事を聞くのだな……」
「まぁ…出て行こうとはしたが次の就職先も定かではない上、部隊の損害も大きい。これでは新たな地で傭兵稼業を始めるのも億劫なのでな。……それに………」
「なんだ?」
「…ここは…居心地が良い。ぬるま湯に浸かるようだが……もう少しだけ浸かっていたくなった」
「そうか…」
気が変わった、という事だろうと彼女は考え、再びボトルの注ぎ口を銜える。
「あぁ…そういえば魏の華琳殿が俺と相棒にこんな話を持ち掛けて来たぞ」
「?」
酒を飲みながら彼女は続けろと和樹へ視線をやる。
「漢の大司馬と大将軍にならないか、と誘われた」
「ぶふぅっ!!?」
ーー驚いて吹き出してしまった酒が見事に和樹の顔へ掛かり、銜えていたタバコが消火されてしまった。
「ーーそれは本当か?」
「ーーあぁ、そう言われた。普通、そんなこと考えるかねぇ?」
大都督の私邸の寝台の上で裸体を晒す一組の男女は情事の後の気だるさの中、ピロートークには適さないだろう会話に興じていた。
「とはいえ過日の戦いで比類なき武勇を示した韓将軍と呂将軍だ。むしろ誘われたこと自体は不思議ではなかろう。お前達ならば官軍を率いるのも出来そうだしな」
「うーん……」
そうかなぁ、と男ーー将司は投げ出した左上腕へ乗せた女の頭を優しく左手で撫でつつ空いている右手で自分の前髪を掻き上げる。
女ーー冥琳は撫でられて擽ったそうに身体を軽く捩らせつつ枕にしている腕の持ち主を見詰めた。
「なぁ将司」
「はいーー…もとい…なに?」
まだ敬語から抜けきれていない彼の様子に冥琳が話す内容そっちのけで苦笑を溢す。
「冥琳…笑うなって……いきなりタメ口ーー対等な喋り方をしろってのが無理なんだから」
「済まん済まん…そう気を悪くするな。…聞きたかったのは先の戦の事だ」
「五胡戦?なにを?」
「あの戦ーー本当に有効な策は、あのような玉砕戦手前のモノしかなかったのか?」
冥琳が尋ねて来た内容に将司の表情が強張った。
それを見て彼女は、やはり別の策はあったのか、と確信する。
溜め息をひとつ溢し、将司は彼女の枕にした腕を引き抜くとタバコとジッポ、そして携帯灰皿を引っ掴み窓際へ移動した。
窓を開け、タバコを銜えるとジッポで火を点けて紫煙を外へ吐き出す。
「ーー確かに、別の有効な作戦はあったよ。それこそ我方の損害は軽微で済むだろう奴が」
独白を始めた彼の後ろ姿を冥琳は半身を起こしつつ見詰める。
「ーーデイジーカッターや燃料気化爆弾を地表に複数置いての爆破。敵の戦列が崩れた所にナパーム弾での焼夷攻撃。これだけでも敵軍兵力がかなり漸減される。それの波状攻撃を続ければ敵は撤退しただろうな」
「ではーー何故それを提案し、実施しなかった?」
そう尋ねると将司がタバコを銜えたまま彼女へ振り向く。
「ーー仮初めの平和を得るため」
「…仮初め……三国による同盟の事か?」
首肯した将司が吸い掛けのタバコを携帯灰皿へ放り込むと喫煙道具一式を窓際近くの卓上へ置き、寝台に戻ると冥琳の膝へ頭を乗せて部屋の天井を見上げる。
「相棒に聞いた話だけど、野郎が益州へ派兵された時、劉璋が今際に頼んだんだとさ。民達が苦しみ悲しむ世を一日でも早く終らせて欲しいってさ」
「平和な世を、か……」
将司の頭を撫でながら冥琳は彼の表情を見下ろす。
「奇しくも五胡が大軍を以て中原へ侵攻した。それを相棒は好機だと考えたんだとさ。三国の危機感を煽り、共通の敵へ注意を向ける。共通の敵の存在は啀み合っていた三国を団結させるには好都合だ。加えればキミを含め、三国の知恵者達でも俺達が何処までの戦闘が可能かは掌握しきれていない。あとは最小限の小火器ーーたとえ全滅して鹵獲されても数の暴力で対処可能なだけの数を揃えた迎撃戦を展開する。ーー連合軍の再編を急ごうとキミ達は焦っただろう?」
「ーーあぁ…確かに…お前が死ぬかもしれない不安よりも軍の再編の方に気を配ったよ。軍議の場で“全滅が作戦成功”と宣言されたからな……早くしなければ、と」
「うん、不安を煽ったんだ」
形容し難い溜め息を溢した冥琳の姿を見て、将司が微かに苦笑する。
「…私達は…揃いも揃って手玉に取られていた訳か」
「まぁ……心苦しかったけどね…」
「部隊の兵士達は承知していたのか?」
「一握りの奴等は何となく察してたと思う。でも作戦の真実を知らせる必要はない…それも指揮官だ。……戦死した奴等には……地獄に行ったら謝るとするよ…」
冥琳が彼の固い頭髪を櫛りつつ更に問い掛ける。
「ーー最後にひとつだけ。お前は日頃から、戦だけが自分達の食い扶持を稼ぐ場所と言っていたな」
「応」
「良かったのか?三国が干戈交える戦は……当分起きそうにないぞ?」
それを聞いた将司はフッと柔らかく表情を緩めた。
「ーー“平和”ってのを感じてみたくなった……それが理由じゃダメかな?」