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ご感想や手術後の件に関するコメントに感謝です。
では、短いですが続きです
カチャカチャと装具の音を響かせ、和樹は各国の首脳、幕僚が集まっているだろう大天幕を目指して歩みを進めていた。
「ーー静かな朝ですね」
ただひとりだけ供につけた前田一曹が和樹へ声を掛ける。
それに返答はせず、彼は軽く首肯したのみだった。
「ーー韓狼牙だ。孫伯符殿の命により罷り越した」
「ーーしばしお待ちを」
警備に当たっていた呉兵が和樹達への礼を済ませると天幕の中へ姿を消した。
「一曹……夜明けまで後どれぐらいだ?」
「だいぶ空が白んで来ましたから……1時間もせずに陽が昇りますよ」
「…そうか…」
淡々と言葉を重ねていると天幕の中から先程の兵士が顔を見せた。
「お待たせ致しました、どうぞ中へ」
首肯し、天幕の中へ入ると既に各国の主だった武将達が揃い、姿を表した和樹達にその視線を向けた。
「ーーよう、遅かったな」
「ーー済まん、クソの出が悪くてな」
先に大天幕で和樹の訪れを待っていた将司の軽口に、その相棒は珍しく冗談で返した。
「伯符殿。黒狼隊ならびに歩兵連隊の出撃準備が整いました」
「…そう…いよいよね」
「これより我が隊は会敵が想定される地点まで前進。陣地を構築し、敵の迎撃を行います」
これからの作戦行動を掻い摘んで説明すると雪蓮が床机から立ち上がり、和樹を見上げた。
「どれほど持ちこたえられる?」
その問い掛けに和樹は返答を出すのに刹那の間、躊躇った。
答えを口にするのを躊躇ったのではないーー自分を見上げている雪蓮の双眸が潤んでいるのに気付いたからだ。
「ーー最後の一兵となるまで半歩たりとも退く事は万にひとつも、億にひとつも有り得ません」
「そう……解ったわ。…韓将軍の隷下部隊の敢闘を期待します」
「有り難き御言葉」
礼を取り、謝辞を述べる。
「和樹、ちょっと膝を付いてくれない?」
「…はっ」
唐突な命令を聞いて和樹は疑問に思ったが、それを頭から追い出し、命に応えるため片膝を付いて頭を垂れる。
「あなたに膝を付かせられるのは三国広しと言えど私だけ、そう自惚れても良いかしら?」
「ご存分に、我が主」
「ふふっ……」
軽口の応酬が一通り終わると雪蓮が不意に彼が被る野戦帽を頭から取り去った。
次いで彼女も和樹同様に膝を付きーー彼の首へ腕を回すと抱き寄せて額同士を軽く合わせた。
「ーーごめんなさい。私には、死なないで、なんて簡単な言葉さえ軽々しく言えない……だからせめて…これだけは言わせて。…和樹…どうか武運長久を…」
互いの吐息が掛かる距離。彼女の小さな声が震えているのに否応なく気付いてしまう。
「…感謝致します、伯符殿」
「最後ぐらい…真名で呼んでくれないの?」
「この戦を生き残れば、好きなだけお呼び致しますよ」
「約束だからね?約束破ったら承知しないんだから」
雪蓮が笑顔を浮かべながら身体を離せば、和樹もやや遅れて立ち上がる。
「ーー和樹さん、状況開始の定刻まで一時間半を切りました」
前田一曹が和樹の背後で声を掛けた。
それを聞いて出撃が間近と察した雪蓮が奪っていた彼の野戦帽をそっと和樹へ差し出す。
それに彼は手を伸ばしたが野戦帽の庇に指先が触れた所で受け取るのを止め、逆に彼女の胸元へそっと押しやった。
「和樹…?」
彼が戦に出る時には必ず被っていた野戦帽だと知っている雪蓮が受け取らない事に疑問符を浮かべる。
「私が戻って来たらお返し下さい。それまではお預け致します」
「解った…大切に預かるわ」
「一曹。俺の背嚢から鉄帽を取ってくれ」
「ーー了解」
珍しいな、と命令を受けた前田一曹は素直に驚いた。
和樹が鉄帽を被っている場面は数える程度しか見た事がないのだ。
自分の背嚢と共に担いで来た和樹の背嚢を開けて、そこから彼の覆いを被せてある鉄帽を取り出し、和樹へ差し出した。
「被るのは久々だな……」
顎紐を締めず、彼は鉄帽を被り位置を整えた。
久々に被った鉄帽は頭にしっくりと来ないのか不満そうに眉をしかめる。
「……さて、と…」
彼等の様子を眺めていた将司も準備をする為、動き始める。
鉄帽を被る前に彼はいつも汗止めを目的にバンダナで頭を覆うのが癖になっていた。
折り畳んだ黒いバンダナを広げていると横から手が伸び、彼が持つバンダナをそっと奪い取る。
「ーー私にさせてくれ…頼む」
「公瑾殿…?」
バンダナを奪ったのは冥琳だった。
彼女は将司の疑問に満ちた声を気にする事なく床机から立ち上がり彼の背後へ回った。
将司の前髪を掻き上げつつバンダナを宛がい、そのまま頭を包み込むようにして巻いてやる。
「緩んで解けないよう、しっかり結んで下さい。ーーどうせ外す事はないでしょうから」
「ーー…そう…か……そうだな…」
軍師故に何気ない言葉でさえ“どうせ死ぬのだから外す事はない”と悪い意味に深読みしてしまう自分の悪癖に冥琳は心中で悪態を吐いた。
要望通り、バンダナをぎっちりと結び終わると将司が眼を砂塵や飛んで来る破片から防護する目的でゴーグルを巻いた鉄帽を差し出された。
“被せてくれ”という主張である。
「まったく……それぐらい自分でやらんか…」
苦笑しながらも彼女は鉄帽を受け取り、それを彼の頭へ被せてやると将司は垂れ下がっていた顎紐を金具へ通して固定する。
準備が調った将司の肩に冥琳はそっと手をやった。
「ーー…武運の長久を祈る」
「ーー心強いですよ……どうやら簡単には死ねそうにない」
「ーーお前が簡単に死ぬとは到底思えんがな」
冥琳の軽口に苦笑で応えながら将司が床机から立ち上がり、彼女と向き合う。
「では、おさらばです。これまでの数々の御厚意に感謝申し上げます」
「今生の別れ、という事か?お前らしくもない」
「まぁ、簡単には死ねませんがね。敵に流血を強いるのが役目なので」
肩を竦めつつ将司が気負う事なく自分達の任務を淡々と述べた。
「ではーー更に死ねなくする必要があるな」
「はい?ーーーっ」
ーー冥琳が彼の頬を包むように手を添えると背伸びをして将司の唇へ自身のそれを軽く押し当てーー直ぐ様、離れた。
その場面を見た各国の面々はーーいったい何が起きたのか脳内処理が追い付かず固まってしまった。
「ーー景気付けだ。生きて戻って来たら……まぁそれはお楽しみという奴だ。どうだ?死ねなくなったか?」
「…ははっ…えぇ……この上なく死ぬのが惜しくなりましたよ公瑾殿」
「冥琳だ……そう呼べ」
自分を見上げる冥琳が微笑みながら期待に満ちた視線を向けている事に気付き、将司が困ったように頬を指先で掻く。
「ーーでは…冥琳殿」
「うん?」
「約束を違えぬよう願いますよ?」
「……ふっ…無論だ」
互いに笑顔を浮かべながら別れを済ませ、将司が武器を持って和樹の下へ歩み寄る。
ーー既に笑顔は消え去っていた。
「待たせた」
「構わん……いくぞ」
腕時計の針が0500を指した瞬間、彼等は天幕から外へ出た。
彼等の目に飛び込んで来たのは地平線から昇って来る太陽ーーーそして進撃の用意が済み、各中隊毎に隊伍を組んだ隷下部隊“1418名”の姿である。