婚約破棄を報告したら、年下の幼馴染が初めて私を口説きました
「アンネ。君は、どうしていつも僕に説教をするんだ」
婚約者のラウル様にそう言われた時、私は彼から頼まれた用事を断ったところだった。
彼は今夜、一人の令嬢を二度も踊りに誘い、その後もずっと隣にいた。彼女が気分を悪くして席を外すと、私のところへ戻ってきて、様子を見てくるように頼んだのだ。
お知り合いなら、ご自身で心配なさったら。私がそう答えると、ラウル様は眉をひそめた。
「そういうところだ。君といると、母親と話している気になる。少しは可愛げというものがないのか」
夜会の壁際だった。すぐそばには、飲み物を手にした人たちがいる。
顔が熱くなった。声を落としてほしいと思うより先に、そんなふうに見られていたのかと、胸が痛んだ。
二年前、初めて一緒に踊った時には、緊張していた私を笑わせてくださった。だから、彼が困らないようにしたかった。忘れた約束をそっと教え、酔いすぎた時には帰るよう促し、それで嫌われないように言い方まで考えた。
それでも、うるさかったのだ。
「もう、君とは結婚したくない。婚約は破棄する」
私は握っていた扇を閉じた。細い骨が重なる音が、妙にはっきり聞こえた。
今ここで泣けば、困った顔をするだろうか。もう少し優しい言い方をしてくれるだろうか。そんなことを考えた自分が、いちばん悲しかった。
「……承知しました。私も、あなたのお母様になるために結婚するつもりはありません」
ラウル様が、ようやく口を閉じた。
「先ほどの方が気になるのなら、ご自分でお見舞いなさってください。お約束も、お酒の量も、これからはご自身で覚えていらしてくださいね」
「なんだ、その言い方は。君は最後まで――」
「私が何を言ってもお説教になるのでしたら、結婚しないほうがお互いのためです。今夜のお言葉を、そのまま父に伝えます」
少し離れたところから母が歩いてきた。途中から聞こえていたらしく、私の背にそっと手を添えた。
ラウル様は母を見ると、そこまで大ごとにする必要はないと言った。婚約を破棄すると人前で宣言しておいて、何を小さく済ませたかったのだろう。
私は母と一緒に会場を出た。
家に着いてドレスを脱ぎ、鏡の前で髪飾りを外しているうちに、涙が落ちた。最後の一本がうまく抜けなくて、侍女に取ってもらった。母のようだと言われても、本当はこんなことで泣く。
* * *
翌日の午後、テオが訪ねてきた。
隣家の子爵家の次男で、私より三つ年下。母同士が親しく、子供のころは垣根の門を通って、しょっちゅう遊びに来ていた。
二十一歳になった今では私よりずっと背が高い。それでも、顔を見ると膝小僧を擦りむいていた男の子を思い出す。領地で父親の手伝いをするようになって会う機会が減り、三か月前に王都へ戻ってきてからも、つい昔のように接していた。
「何かありましたか」
応接間で向かい合うと、テオはすぐにそう尋ねた。
何でもない顔をしていたつもりだったのに。私は目の下に指を添えかけて、膝の上へ手を戻した。
「そんなにひどい顔をしている?」
「いつもなら、僕が座る前に領地のことを聞くでしょう。今日は、ずっと窓を見ているから」
気づいていたのかと思ったら、取り繕うのが難しくなった。
昨日の出来事を話した。彼が別の女性と踊っていたことより、私を母親のようだと言ったところで、声が小さくなる。
ラウル様が婚約破棄を口にしたと聞くと、テオは膝に置いた手を握り、私が話し終えるまで何も言わずに待っていた。
「私も言い返してしまったの。最後くらい、可愛らしく泣いてみせればよかったかしら」
「泣かせた相手のために、泣き方まで考えなくていいと思います」
穏やかな声なのに、目は怒っていた。私へ向けられた怒りではないと分かって、かえって涙が出そうになった。
「……好きだったのよ」
それだけ言うのに、喉が詰まった。
「最初から嫌な人だったわけじゃないの。私が困っていると、手を貸してくれることもあった。だから、あの人に恥をかかせたくなかったし、私と結婚してよかったと思ってほしかった」
テオは上着の内側から白いハンカチを出し、差し出した。
受け取った途端、我慢していたものが崩れた。年下の彼の前ではしっかりしていようと思っていたのに、目頭を押さえても涙がにじむ。
「面倒をかけるつもりはなかったの。ごめんなさい」
「僕に隠さなくていいです。何を言えば楽になるのかは分からないけれど、ここにいますから」
テオは席を立たなかった。
慰めの言葉を次々に探すでもなく、私が鼻をすすっても、見なかったふりをしすぎるでもなく、そばにいた。私はやっと息を吐き、母に頼んで両家の話を進めてもらうつもりだと伝えた。
涙が止まったころには、窓から入る日の光が卓の端まで伸びていた。私はハンカチを畳んで手元に置き、冷めたお茶を飲んだ。
「ありがとう。せっかく遊びに来てくれたのに、こんな話でごめんね」
「話してもらえて、よかったです。……アンネさん。僕からも、お話ししていいですか」
呼び方はいつもと同じだったのに、改まった声で背筋が伸びた。
テオは一度、手元へ目を落とした。それから私を見た。喉が小さく動くのが分かった。
「婚約が正式に解けて、あなたが出かけてもいいと思えるようになったら、僕と展望塔へ行きませんか」
「あの、東の広場の?」
「はい。子供のころ、一緒に登ったでしょう。上から街を見たいんです。あなたと」
懐かしい場所だった。幼いテオが最上階まで登れると言い張り、途中で息を切らして、私の袖をつかんだことがある。
気晴らしに連れ出そうとしてくれているのだろう。その優しさが嬉しくて、私は微笑んだ。
「いいわ。久しぶりに二人で遊びましょう。昔みたいに――」
「デートを、してください」
言い終わる前に、テオが言った。
しばらく、何を訂正されたのか分からなかった。彼の耳が赤い。私が黙っている間に、その赤みが頬へ広がっていく。
「遊びに連れていってもらうんじゃなくて、僕があなたを誘っています。男として」
さっきまで涙で痛かった目が、大きく開いた。
テオが男の人なのは知っている。それなのに、その言葉を彼の声で聞くと、向かいに座っている人の見え方が変わった。膝の上で握られた手も、私から目をそらさずにいる顔も、急に近く感じた。
「慰めてくれているのでは、ないの?」
「慰めたいです。昨日のことをなかったことにできるなら、そうしたい。でも、デートに誘ったのは、あなたが好きだからです」
テオは言い切ってから、口元をきゅっと引き結んだ。勇気を使い果たしたような顔だった。
「前から、そういう意味で好きでした。婚約者がいるのに伝えることはできなかったから、黙っていました。今、すぐに返事をしてほしいわけではありません。ただ、また弟だと思って頷かれたら……今度は、僕がつらいので」
私の指が、ハンカチの端をつまんだ。
テオに弟だと思っていると何度言っただろう。そのたびに彼は笑っていた。あれは、何も感じない笑顔ではなかったのだ。
「ごめんなさい。私、知らなくて」
「知らせなかったのは僕です。謝らせたくて言ったんじゃありません」
言葉はしっかりしているのに、膝の上の手はまだ握られたままだった。
それを見たら、私まで落ち着かなくなった。私の返事を、こんなふうに待っている。世話を焼いてほしいのでも、愚痴を聞いてほしいのでもなく、一人の女性として私と出かけたいと言っている。
昨日まで想像したことのなかった願いを向けられて、怖いくらい嬉しかった。
「好きだと、今すぐには答えられないわ。昨日のことも、まだ悲しいし」
「はい」
「でも、あなたとデートしてみたい。それが慰めだけじゃないなら、私も……ちゃんと、そのつもりで行きたい」
テオの唇がわずかに開いた。
返事がないので不安になりかけた時、彼は顔を片手で覆った。指の隙間から見えた目元が、笑っていた。
「……よかった。断られても、困らせないように帰ろうと思っていたんですけど」
続きを言う前に、息だけの笑いがこぼれた。
私もつられて笑った。昨日から初めて、誰かを安心させるためではなく笑った気がした。
* * *
五日後、両家の話し合いで婚約は正式に解消された。
ラウル様のご両親は謝ってくださったが、私はやり直す気になれなかった。可愛げがなかったのかもしれない。それでも、困った時だけ頼られて、口を開くと疎まれる結婚はしたくなかった。
その翌週、私は服を三度選び直した。
テオに会うだけなのに、と言いかけて、鏡の前で口を閉じる。会うだけではない。今日はデートなのだ。
「こちらの青いお召し物が、お顔を明るく見せますよ」
侍女の勧めに従った。普段より少し柔らかい色だった。
迎えに来たテオは、応接間に入った私を見ると立ち上がり、何か言いかけてから黙った。母が話しかけるまで、私の顔を見ていた。
家を出て、侍女が数歩後ろに下がったところで、彼が小さく咳払いをした。
「さっき、言い損ねました。今日、とても綺麗です。その青が、よく似合っています」
ありがとう、と答えるだけなのに声が上ずった。
テオが嬉しそうに笑ったので、私は余計に困った。いつもなら、あなたも立派になったわねと返すところだった。今日はそれを言いたくなかった。
「あなたも、その上着、似合っているわ。……格好いいと思った」
彼が一歩、歩き損ねた。
石畳につまずいたのかと心配したら、そうではないらしい。こちらを見て、照れた顔のまま、ありがとうございますと答えた。
こんな顔をする人だったのか。何年も知っているはずなのに、初めて会う人と歩いているようだった。
東の広場には、昼の買い物をする人が出ていた。塔はその先にあり、石の壁に沿って細い窓が並んでいる。
入口へ向かう途中で、ラウル様に会った。店先から出てきた彼は、私を見て足を止め、それから隣のテオへ目を移した。
「アンネ。その子と出かけるのか」
子、という呼び方に、テオの肩がわずかに動いた。
ラウル様は昔から彼を知っている。けれど、最後にゆっくり話したのがいつなのか、私は知らなかった。
「ええ。これから二人で塔に登ります」
「君は本当に面倒見がいいな。婚約がなくなっても、誰かの世話をしていないと落ち着かないのか」
嫌な熱が頬に集まった。
隣にいたテオが口を開きかけた。その前に、私はラウル様を見た。
「デートです。私が、テオと一緒に来たかったんです」
彼は笑いかけた顔のまま止まった。私たちを順に見て、冗談だと言ってほしそうに、もう一度私を見た。
「……ずいぶん早いんだな。僕は君が少し考え直せばと思っていたのに。父からも散々責められたが、君だって、あの時の言い方は――」
「そのお話は、もう終わりました。今日はテオと出かけていますので、失礼します」
私が一歩下がると、ラウル様が手を伸ばした。私はその手を取らず、テオのほうへ向き直った。
呼び止める声がした。いつものように立ち止まり、彼が機嫌を直すまで説明することはしなかった。振り返ったのは、後ろの侍女がついてきているか確かめる一度だけだった。
「テオ。あの階段、今でも途中に小さな窓があるかしら」
彼は私を見て、それから塔を見上げた。
「あります。前に僕が、そこでもう十分高いと言った窓ですね」
「そう。あの時、あなた、上まで登ると家が豆になるって怖がったのよ」
「怖がったのは豆じゃありません。階段が、まだ半分も残っていたことです」
そうだったかしら、と笑ったら、肩に入っていた力が抜けた。
隣のテオも笑っていた。私が話題を変えたことを大げさに褒めず、昔の自分の名誉を守ろうとしている。その様子が、ありがたかった。
塔の入口で振り返ることは、もうなかった。
* * *
階段に入ると、湿った石の匂いがした。外のざわめきが遠くなり、三人の靴音が壁に返ってくる。
途中の窓は、記憶より小さかった。幼いころには私も背伸びをして外を見たのに、今は少しかがむだけで広場を見下ろせる。
「テオ、疲れていない?」
口にしてから、しまったと思った。
彼は、まったく息を切らしていなかった。昔のつもりで聞いてしまった私に、少しだけおかしそうな顔をする。
「まだ大丈夫です。あなたは?」
「私も平気。つい、昔のことを思い出してしまって」
「覚えていてもらえるのは嬉しいです。でも、今の僕も見てくれたら、もっと嬉しい」
胸の奥に、ゆっくり届く言い方だった。
私が覚えているテオは、いつも私より小さい。私が先にできるようになったことを、後から覚えた男の子だ。
でも、今は目を上げなければ顔が見えない。私が知らない場所で働き、知らない人と話し、私には見せなかった気持ちを長く抱えていた。三歳年上だというだけで、私は彼のことを知っているつもりになっていた。
「……今日は、よく見ているわ」
思い切って言うと、テオが困ったように笑った。
「それも、緊張しますね。さっきから、階段を踏み外したらどうしようと思っています」
「そんなに心配?」
「あなたに格好いいと言われた後なので。できれば、そのままで終えたいです」
私は笑ってしまった。
完璧に大人の男性になって現れたのかと思ったら、そんなことを考えていた。安心したし、それなのに、ますます彼の顔を見たくなった。
最後の階段は少し幅が狭かった。先に一段上がったテオが、こちらへ手を差し出した。
「手を、どうぞ」
昔は私の袖をつかんだ人の手だった。
手袋越しに指を重ねると、思ったより大きかった。彼は強く引っ張らず、私が足を上げるのを待ち、それから支えた。
段を上がりきっても、すぐには離せなかった。テオも離さなかったので、二人で少し顔を見合わせた。
「もう、階段は終わったけれど」
「はい。……離したほうがいいですか」
顔が熱かった。後ろから上がってくる侍女の足音まで、急にはっきり聞こえた。
「このままがいいわ」
テオが目を細めた。握り直された手が温かく、私は、その顔を見たくて言ったのかもしれないと思った。
回廊には風が通っていた。欄干の向こうに赤茶色の屋根が並び、白い洗濯物が中庭で揺れている。大通りを走る荷馬車が、指で押して動かせそうなほど小さい。
侍女は少し離れた欄干から景色を眺めた。私とテオは並んで、家のある方角を探した。
「あそこ、パンをかじった跡みたい。屋根の並びが、端から一口欠けているでしょう」
屋敷の間の細い空地を指さすと、テオが吹き出した。
「それ、昔も言いました。街を作った巨人が、お腹を空かせたんだって」
「私、そんなことを言った?」
「言いました。食べ残しの家に帰るのは嫌だと僕が言ったら、あなたが、うちはまだかじられていないから大丈夫だと」
覚えていなかった。景色が綺麗ね、と言えば済むのに、子供の私は何を考えていたのだろう。
恥ずかしくて顔を隠しかけると、テオがつないだ手を少し持ち上げた。
「そういう話を、また聞きたかったんです。気を配って、周りを困らせないことばかり言うあなたじゃなくて。面白いものを見つけた時、すぐに教えてくれるでしょう。僕、あれが好きなんです」
風で、耳の横の髪がほどけた。空いている手で押さえながら、私は彼を見た。
「私、あなたの前では、いつもお姉さんのつもりだったわ」
「知っています。でも、僕が輪投げで勝つと、本気で悔しがっていましたよ。もう一回、と言って、夕食に呼ばれるまでやめなかった」
「……それも覚えているの」
「ずっと見ていたので」
照れた声だった。それでも、言い直さなかった。
私を好きだという言葉よりも、今の一言のほうが深く届いた。頼られる私だけではない。負けて悔しがるところも、くだらないことを言って笑うところも、この人は覚えている。
「昔からずっと、恋だったわけではありません。あなたと遊びたかったし、褒められたかった。そのうち、他の男の話をする顔を見るのが嫌になって……でも、笑っていてほしかったから」
彼の親指が、私の手袋の縫い目の上で止まった。
「婚約を聞いた時は、これで諦めるんだと思いました。ところが、王都へ戻って会ったら、ちっとも諦められていなかった。あなたが僕の話を聞いて笑うたびに、もっと一緒にいたくなった」
胸が苦しくなった。
私が知らなかった間、彼はそんな顔を一人でしていたのだろうか。申し訳なさだけではなかった。今、私といられることを喜んでくれるのが嬉しかった。
「今日、誘ってくれてありがとう」
私はつないだ手に、少しだけ力を込めた。
「年下だから、知っている子だから、安心しているんだと思っていた。でも、今日はずっと緊張しているの。あなたが私を見ていると、変な顔をしていないか気になるし、手を離したくない」
テオがまっすぐ私を見た。
ここでいつもの冗談にしてしまうのは嫌だった。年上らしく余裕のある顔をして、自分の気持ちまで隠したくなかった。
「また、二人で出かけたい。次もデートにしてほしいわ」
「……次も、誘っていいんですか」
「ええ。私から誘うのも、いい?」
テオが頷いた。すぐにもう一度、大きく頷いたので、笑いそうになった。
けれど、彼の目元が赤くなっているのを見たら、胸がいっぱいになった。あんなにきちんと誘ってくれたのに、今は返事をすることさえ難しそうだった。
「帰ってから、次に誘う言葉を考えるつもりでした。今日が駄目でも、いつかはと思って。でも……よかった」
彼は笑いながら、空いている手で目元を押さえた。
私は泣かせてしまったのかと思い、それから、私もこんな顔をしているのかもしれないと気づいた。
もう少しここにいたいと言うと、テオは喜んで頷いた。下りる階段はすぐそこにあったけれど、私たちはしばらく、同じ屋根を眺めていた。
* * *
それから二か月、テオと何度も会った。
領地でうまくいかなかったことを話す彼は、立派な顔ばかりしていなかった。私が助言を急がずに聞いていると、話したかっただけなのだと笑う日もあった。私も、親戚の集まりで疲れた日は、今日は静かにしていたいと言えるようになった。
二人きりでなくても、部屋へ入った時に最初に目で探すのは彼になった。
テオが私を見つけて顔を上げる。その顔を見るのが好きだった。年下だから可愛い、で片づけたくないほど、会いたかった。
ある夕方、母たちのお喋りから少し離れて、二人で庭へ出た。応接間の窓が開いていて、笑い声が聞こえてくる。
テオが足を止めたので、私も隣で止まった。
「アンネさん。今日は、ちゃんとお話ししたいことが――」
「私もあるの。先に言ってもいい?」
彼が頷くのを待って、私は手を取った。
あの塔で差し出された時は、触れるだけで緊張した手だ。今も胸は速くなるけれど、つなぎたいと思ったら、自分からつなげる。
「あなたが好き。弟みたいな人としてではなくて、これからも隣にいてほしい人として」
テオは動かなかった。
聞こえなかったのかと不安になる前に、つないだ手が握られた。私を見ている目が揺れて、彼は一度、深く息を吸った。
「その言葉、ずっと聞きたかったんです。……何年も」
声がかすれていた。
私は彼の手を両手で包んだ。昔のように励ますためではなく、好きだという気持ちを、もっと伝えたかった。
「今まで知らなかったあなたを、これからたくさん知りたい。私も、あなたに知ってほしい。しっかりしているところだけじゃなくて、格好悪いところも」
「もう、いくつか知っています」
思わず彼を見たら、泣きそうな顔のまま笑っていた。
「それでも、好きです。これからもっと知ったら、もっと好きになると思います」
テオは私の手をそっと放し、上着の内側から小さな箱を出した。
手のひらに載るそれを見た途端、今度は私が息を止めた。彼は箱を開きかけて、私の顔を確かめるように見た。
「あなたが、同じ気持ちになる日を待つつもりでした。今日でなければ、持って帰ろうと思っていました」
「今日、聞かせて」
箱の蓋が開いた。淡い青の石が、夕方の光を受けた。
「アンネさん。僕と結婚してください」
私は頷いた。頷くだけでは足りなくて、はい、と声にした。
テオの肩が下がり、それから顔いっぱいに笑みが広がった。指輪を持ち上げる手が震えて、彼は困ったように笑う。私は箱を受け取り、左手を差し出した。急がなくていいと伝えると、彼は指輪をそっと通してくれた。
指輪は、少しだけ緩かった。二人で顔を見合わせて笑い、直してもらう店へは一緒に行こうと約束した。
窓の向こうで、母が私たちを呼んだ。
返事をしてから、私はテオの袖を引いた。彼が顔を寄せたので、背伸びをして、その頬に口づけた。
テオの耳が真っ赤になった。好きな人をこんな顔にできるのだと思うと、嬉しくて、私まで笑ってしまう。
「今のは、弟にはしないわ」
言った途端、テオが私の手を取り直した。
「知っています。だから、もう一度してほしいです」
応接間へ戻るのが少し遅れて、母たちにはすっかり見抜かれた。
求婚を受けたことを母たちに伝える間も、私は彼の隣を離れなかった。
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