第1話:板前、シュラの国へ行く
「ツヨシ」シリーズ第4弾が始まります。
午前二時。銀座の路地裏に佇む老舗割烹『銀鱗』の厨房には、研ぎ澄まされた静寂が満ちていた。ツヨシは、手元の一点に全神経を集中させていた。まな板の上に横たわるのは、猛毒を秘めた一尾のトラフグだ。師匠の厳しい声が脳裏に響く。いいかツヨシ、包丁は引いて切る。だがただ引くんじゃねぇ。身にストレスを与えず、細胞一つ一つを撫でるように滑らせるんだ。向こう側が透けるほど薄く、それでいて噛み締めた時に弾力が弾ける。それが職人の仕事だ。
ツヨシ、三十二歳。中学を卒業してからこの道に入り、十五年の月日が流れた。友人たちが遊び歩く二十代も、彼はただひたすらに、朝から晩まで魚を捌き続けてきた。彼の手のひらには、包丁の柄が当たる場所に分厚いタコができ、指先は氷水で冷やされても感覚を失わないほどに鍛え上げられている。ツヨシにとって、包丁はもはや体の一部だった。魚の骨の隙間、内臓の位置、そして命を絶つべき急所。それらが手に取るようにわかる。彼が差し出した皿の上には、大輪の牡丹の花が開いたかのような、見事なフグの薄造りが並んでいた。師匠の「明日からは一人で仕込みを任せてやる」という言葉こそが、彼にとって最高の勲章だった。
その帰り道のことだった。疲労感の中にある達成感を噛み締めながら、ツヨシは深夜の住宅街を歩いていた。街灯がまばらに照らす静かな通り。ふと、前方から激しいエンジン音が聞こえてきた。街灯の死角から飛び出してきた暴走バイクが、蛇行しながら歩道に乗り上げようとしていた。その先には、塾帰りだろうか、小さなカバンを背負った少女が立ち尽くしている。ツヨシの思考は一瞬で加速した。逃げる時間は、少女にはない。彼は迷うことなく、地面を蹴った。
ドン、という鈍い衝撃。それは、彼がこれまで経験したどんな痛みをも凌駕する、絶対的な破壊の音だった。体が宙を舞い、視界が激しく回転する。アスファルトに叩きつけられた瞬間、肺の中の空気がすべて押し出された。視界の端で、腰を抜かして泣きじゃくる少女の姿が見えた。どうやら無事なようだ。急速に冷えていく体の中で、ツヨシは不思議と冷静だった。右手の指先を動かそうとする。感覚はないが、脳内ではまだ、使い慣れた愛刀の柄を握る感触が残っていた。明日、クエの予約が入ってたのにな。あれ、捌くの楽しみにしてたんだ。仕事への未練。それが、彼の人生最後の思考だった。
「目覚めなさい。業を背負いし、解体の徒よ」
凛とした、それでいて耳に心地よい鈴の音のような声が、ツヨシを闇から引き揚げた。重い瞼を持ち上げると、そこは現実とは思えない空間だった。足元には底なしの雲海が広がり、空には巨大な月が三つ浮かんでいる。そして、その周囲を無数の「刃物」が埋め尽くしていた。錆びた剣、巨大な斧、折れた槍――それらが墓標のように大地から突き出している。目の前に、一人の女性が立っていた。夜空のような漆黒のドレスを纏い、その髪は星屑を散りばめたように輝いている。だが、何よりツヨシの目を引いたのは、彼女の瞳だった。それは、磨き上げられた鋼のように鋭く、冷徹な輝きを放っている。
ツヨシが「ここが、あの世ってやつか」と問いかけると、自らを理を司る女神と名乗る女性は静かに歩み寄り、ツヨシの無骨な手を見つめた。「あなたの手には、驚くべき切断の記憶が刻まれている。数万、数十万の命を解体し、その構造を理解し尽くした者。その技術を、ただ無に帰すのは惜しいと考えました」
ツヨシは自分は板前であり、美味いものを食わせるために魚を捌いていただけだと反論したが、女神は「生かすための解体も、殺すための解体も、本質は同じ」と告げた。女神が指を鳴らすと、ツヨシの腰に一振りの武器が現れた。それは彼が使い慣れた柳刃包丁に似ていたが、刀身は不気味なほどに黒く、刃先からは魔力のような冷気が立ち昇っている。これは因果断ちの黒刃。これまで培った技術を、この世界の毒を切り裂くために使いなさい。魚ではなく、汚れきった命を捌く――それが、あなたの新しい仕事です。
女神の悪戯っぽい微笑みを最後に、ツヨシの視界は強烈な白い光に包まれた。次に目を覚ました時、そこは石造りの建物がひしめき合う、中世ヨーロッパの貧民街を思わせる路地裏だった。地面は泥と汚水にまみれ、辺りには腐敗した残飯の臭いと、鉄錆のような血の匂いが漂っている。自分の手を見ると、生前よりも少し若返っているようだが、手のタコや、指先に染み付いた魚の匂いはそのままだ。そして腰には、あの黒い短刀が差さっていた。
「おいおい、見ろよ。見慣れねぇ服着たカモが転がってるぜ」
下卑た笑い声とともに、三人の男たちが路地の入り口を塞いだ。一人は鉄パイプを、一人は錆びた肉切り包丁を、そしてリーダー格と思われる男は短剣を構えている。彼らの瞳には、理性のかけらもなかった。あるのは、剥き出しの食欲と加害欲だけだ。男たちが距離を詰めてくる中、ツヨシの心拍数は驚くほど安定していた。恐怖よりも先に、彼の職人の目が勝手に動き始める。
右の男、足運びが素人だ。重心が右に寄りすぎてる。真ん中の奴、肉切り包丁の持ち方が甘い。手首の返しに隙がある。左のリーダー格……こいつだけは殺し慣れてるな。だが呼吸が浅い。脳内に、目の前の男たちの構造が透過図のように浮かび上がる。骨格の継ぎ目、動脈の走行、神経の集約点。どこをどの角度で、何ミリ切り込めば、抵抗を許さず絶命させられるか。それは、フグの有毒部位をミリ単位で切り分ける作業よりも、ずっと単純なことに思えた。
「おい、聞いてんのかよ!」
男が肉切り包丁を振り上げた。ツヨシの意識が、極限まで集中する。俺は、食えねぇもんは斬らねぇ主義なんだ。だが――鮮度が落ちる前に、片付けてやる。包丁を引き抜く速度は、男たちの目には捉えられなかった。それは、長年繰り返してきた「引き切り」の動作そのもの。一閃。路地裏に、静かな風が吹いた。数秒後、男たちの絶叫すら響くことなく、シュラの国の夜は再び静寂に包まれた。ツヨシの足元には、細胞一つ潰さずに捌かれた男たちが、物言わぬ肉塊となって転がっていた。
「さて。この世界に、マシな食材はあるのかね」
ツヨシは、血の一滴も付着していない黒刃を鞘に収め、薄暗い街へと歩き出した。伝説の殺し屋――いや、最強の板前の物語が、ここから始まる。




