第9話
「……アルト。今の音、何かしら」
お玉を持ったミサリアの背後に、絶対零度の吹雪が見えた気がした。
普段は温厚な、この家で絶対に怒らせてはいけない存在がゆっくりと首を傾げる。
「ち、違うんだ姉さん! 今日のシチューが美味しすぎて、感動のあまり足がつっただけなんだ!」
俺はかつてないほどの早口で弁明した。
すると、両脇と正面に座る規格外の三人組が、一斉に滝のような冷や汗を流して立ち上がる。
「そ、そうよ! 素晴らしい味だわ!」
「私、もう一杯おかわりください!」
「き、騎士団の料理長よりもはるかに美味いぞ!」
元魔王も剣聖も騎士団長も、エプロン姿のミサリアが放つ無自覚な威圧感の前では形無しだった。
必死にシチューをかきこむ三人の姿を見て、ミサリアの纏っていた凍気がふわりと霧散する。
「もう。慌てて食べなくても逃げないわよ。お鍋にたくさんあるからね」
ミサリアがいつもの温かい笑顔に戻り、俺たちは全員でホッと胸を撫で下ろした。
タチアナは震える手でスプーンを口に運ぶ。
直後、舌の上でとろける絶品の旨味と共に、死闘で空っぽになっていたはずの魔力と体力が、爆発的な勢いで全身の細胞に満ちていくのを感じて目を丸くした。
『なんだこれは……! 傷の痛みが消えるどころか、かつてないほど力が湧き上がってくる……!』
戦慄するタチアナだったが、その理不尽なまでの回復力以上に、純粋な「家庭の味」の暴力的な美味しさに、彼女の張り詰めていた顔はみるみると至福に蕩けていく。
死線を潜り抜けた後の、この温かくて騒がしい食卓。
完全に胃袋を掴まれ、居心地の良さに絆された誇り高き騎士団長が、ふうっと幸せな吐息を漏らした。
平和なスローライフが、ようやく我が家に帰ってきた。
そう思って俺が食後の温かいお茶をすすろうとした、まさにその時だった。
「そういえばタチアナさん。王都の騎士団本部から、あなたのお引越しのお荷物が全部届いてるわよ。ギルドの空間配達サービスで、さっき裏庭に置いてもらったの」
「……はい?」
タチアナが間の抜けた声を出す。
「アルトのお嫁さんになるなら、今日からこのギルドハウスに住むんでしょう? お部屋はちゃんと用意してあるからね」
ミサリアがにっこりと首を傾げた瞬間。
ピキパキッ。
俺が手に持っていた湯呑みの中で、淹れたての熱いお茶が一瞬にしてカチコチの氷の塊へと変貌した。
ゆっくりと両隣を振り返ると、サクリアの瞳には一切の光がなく、ユエルは笑顔のまま背中の聖剣の柄に手をかけている。第二ラウンドの鐘が、今まさに鳴り響こうとしていた――。




