第7話
王都を覆い尽くすほどの絶望が、巨大な魔人の顎に収束していく。
「……ここまでか。せめて、市民が逃げる時間だけでも」
銀の鎧を血と泥で汚したタチアナが、死を覚悟して剣を構え直した。
その震える肩の前に、俺はスッと立ち塞がる。
「大丈夫だよ、タチアナさん。ちょっと下がってて」
俺は振り返り、いつものトーンで微笑みかけた。
タチアナが息を呑み、呆然と俺を見上げる。
上空では、魔人が空気を蒸発させるほどの熱線を放とうとしていた。
だが、俺の頭の中にあるのは一つだけだ。
『早く帰らないと、ミサリア姉さんのシチューが冷めちゃうな』
俺はさっきから手に持っていた庭掃除用の竹箒を、野球のバットのように両手で構えた。
休日のくつろぎタイムを邪魔された、理不尽な残業に対するせめてもの抗議である。
直後、太陽が落ちてきたかのような極太の熱線が、俺たちに向かって一直線に放たれた。
「アルトッ!」
タチアナの悲鳴が響く。
俺は腰を落とし、迫り来る致死の光線に向かって竹箒を思い切りフルスイングした。
パァァァンッ!
小気味良い打撃音が王都に響き渡る。
ただの竹箒に俺の無自覚な魔力が過剰にコーティングされた結果、タチアナの目にはそれが『神の雷を纏った伝説の聖槌』に見えたらしい。
箒の先で鮮やかに弾き返された極太の熱線は、寸分の狂いもなく魔人の顎を下から撃ち抜いた。
断末魔すら上げる暇もなく、山のように巨大だった魔人の肉体は、文字通り天空の彼方へと一直線にホームランされていく。
キラッと星になって消えるのを手で日差しを遮りながら見送り、俺は箒の先からプスプスと上がっている煙をふーっと吹き消して、ポンと肩に担いだ。
「よし、粗大ゴミの掃除終わり。帰ろうか」
俺が勝手口のドアノブに手をかけると、後ろから見ていたサクリアが呆れたようにため息をついた。
「ただの竹箒で神話級の魔人を打ち返すなんて。本当に、あなたという人は」
「もう! 私の出番、またなくなっちゃったじゃない!」
ユエルが頬を膨らませてぽかぽかと俺の背中を叩く。いつも通りの騒がしい日常だ。
俺はふと、後ろで腰を抜かしているタチアナを振り返った。
先程の衝撃波で兜は吹き飛び、厳格に結い上げられていた銀糸の髪がふわりと解けている。そこにいるのは屈強な騎士団長ではなく、死の恐怖から解放されて呆然とする、一人の美しい女性だった。
俺は彼女の前にしゃがみ込み、ひょいと手を差し伸べた。
「タチアナさんも、お腹空いてるでしょ? うちで夕飯食べていかない? 姉さんのシチュー、絶品なんだ」
ただの気まぐれな夕食の誘い。
しかし、死の淵から救われ、圧倒的な規格外の力を見せつけられた直後の彼女にとって、その無邪気な笑顔がどれほどの破壊力を持っていたか。
タチアナは顔を限界まで真っ赤にして震える両手で俺の手を握り返すと、熱を帯びた潤んだ瞳で見つめてきた。
「あ、アルト……私を、お前の……っ、妻に——」
ピキッ。
彼女のその爆弾発言を最後まで聞く前に、俺たちの足元の石畳が真っ白に凍りついた。
振り返ると、サクリアの背後には底なしの闇が渦巻き、ユエルの手にはいつの間にか抜身の聖剣が握られている。
二人が無意識に放った純度100%の殺気が、王都の空気を物理的に凍てつかせたのだった――。




