第4話
ダイニングの椅子に腰を下ろした俺の隣に、ふわりと湿り気を帯びた石鹸の甘い香りが漂ってきた。
「アルト、今日もお疲れ様。私からの酌も受けてもらえるかしら」
艶やかな漆黒の髪を片側に寄せたサクリアが、ゆったりとしたバスローブ姿のまま隣の席に滑り込んでくる。はだけた胸元から覗く白い肌がやけに眩しく、俺は思わず視線を泳がせた。
「あ、ありがとう。でもお酒なんて珍しいね」
「ちょっとサクリア! アルトは今、私のあーんでお腹いっぱいなんだから!」
向かいの席から身を乗り出したユエルが、テーブルの上のスプーンを握りしめて抗議の声を上げる。しかし元魔王である正妻は、その程度の威嚇などそよ風のように受け流した。
サクリアの細い指先が、透き通ったグラスにどろりとした赤黒い液体を注ぎ込む。コトリとテーブルに置かれた瞬間、グラスに触れていた木製のコースターが、みるみるうちに黒く炭化してボロボロと崩れ落ちた。
「魔界の最深部で千年以上熟成された果実酒よ。ほんの少し、刺激が強いかもしれないけれど」
『高そうなお酒だな。アルコール度数が高いのかな』
俺はグラスを手に取り、一気に喉へと流し込んだ。
濃厚な葡萄の甘みと、喉の奥がほんの少しだけピリッとする炭酸のような刺激。強いお酒のようだが、とても飲みやすい。
「うん、美味しい。甘口のぶどうジュースみたいで、いくらでも飲めそうだよ」
グラスを空にして微笑むと、サクリアの赤い瞳が限界まで見開かれた。
彼女は俺の顔と空のグラスを交互に見比べ、信じられないものを見るように小さく息を呑む。
「……致死量の瘴気を濃縮した雫を、ただのジュースと評する人間はあなたが初めてよ」
「え? なんの雫だって?」
「ふふ、なんでもないわ。私の愛しい夫が、今日も底知れないというだけ」
呆れたような吐息混じりの囁きと共に、サクリアが俺の腕に自身の体をぴたりと密着させてきた。柔らかな感触と甘い香りが鼻腔をくすぐり、心臓が早鐘を打ち始める。
「なっ……! 抜け駆け禁止! 私だってアルトにくっつくんだから!」
ユエルが椅子を蹴立てて立ち上がり、俺のもう片方の腕に思い切りしがみついてきた。右からは豊満な元魔王のプレッシャー、左からは元気いっぱいの剣聖の圧迫感。俺の村人Aとしてのキャパシティはすでに限界を突破している。
「あ、あの、二人とも……デザートのフルーツを剥いてきたんだけど、その、アルトが潰れちゃうわ」
お盆を持ったミサリアが、困り果てたように立ち尽くしていた。
姉さんに助けを求めようと口を開きかけたその時。
——ピシッ。
室内の空気が、急激に凍りついた。
暖炉の上に飾ってあった、王城直通の国家防衛用・緊急通信水晶に亀裂が走ったのだ。
空間が耳障りな音を立てて歪み、血のように赤い魔法陣がリビングの中央に展開される。
「ッ……! ミサリア、下がって!」
先程まで俺の腕にしがみついていたユエルが、瞬時に剣聖の顔つきへと変わり、見えない剣を構えるように腰を落とした。
右腕に密着していたサクリアも、凄まじい密度の魔力を展開し、魔法陣の発生源を鋭く睨み据える。最強クラスの彼女たちが、明確に警戒するほどの尋常ではないプレッシャー。




