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昭和異聞  五話

作者: 鵺森單騎
掲載日:2025/12/27

おこことわり

 文の途中、文字と文字との間に、半角分の空白があらわれる場合があります。これは、作者の意図によるもので、句読点につぐゆるい区切りを示します。作者はこれを「半読点」と呼んでいます。ただし、行末には使用しません。

 昭和異聞  五話

  第一話   因縁

              

 人の目を気にせずに生きている人間など、いないものだと思うが、わたしもその例に漏れない。

 わたしは、生まれてこの方、自分の容貌について特に不満を抱いたことはなかったが、五十代の後半になって、思いも寄らないことが起きた。少し遠回りになるが、そのきっかけとなった出来事からお話ししなければならない。

 当時わたしは、六十歳定年の会社で働いていて、退職まで三年を残すばかりとなっていた。高卒後、転職を繰り返して、三十歳の時にその会社にたどり着いたのだ。電車で四十分ばかりのところにアパートを借りて、通勤していた。結婚はついになしえず、したがって子供も居ない。二十五年以上も、同じアパートで独り暮らしを続けたことになる。珍しい人間の部類に入るかもしれない。

 そんなある日のこと、アパートの所有者から、立ち退きの要請があった。管理業者が各室を回って、文書を示しながら、所有者としては建物を解体して土地を処分する計画のようだ、と言った。立ち退きの期限は一年以内。

 前々から、いつかそうしたこともあるだろうと思っていた。わたしなどは、一番の古株で、二十五年以上も、安い家賃で住まわせてもらったことを思えば、今更、四の五の言えた立場ではない。

 住んでいたアパートは、四室を連結した単身用がニ棟、二階建ての家族用が、四軒分を連結した形で一棟あったが、どの入居者もその話が出されると、さっさと出ていった。わたしは最後の方に近かった。

 物件を選ぶにあたって、まず、引っ越しの手間がかからないことを考え、近い物件から探し始めた。が、ふと思った。またアパートに住むとなると、生涯の大部分をアパ-トで暮らすことになる。それもいささかわびしすぎないか、と。

 まして退職すれば、初めのうちは、元同僚との行き来もあるだろうが、いずれ❝毎日が日曜日❞状態になる。友人と呼べるような人も特に居ない。これといった趣味もない。パチンコと、競輪、競馬だけでは、時間を持て余すに違いないだろう。

 あれこれ考えた末、ちっぽけでも、自分の好きなように使える土地があれば、というところにたどり着いた。野菜を育てたり、花を植えたりできる。ゴルフをやったことなどないが、練習用のネットを置くことができる。とにかく小さな庭があれば、何かしら暇つぶしの方途があるはずだと考えた。

 探す対象を、アパート以外にも広げて、チラシや新聞広告、業者の掲示物など、半年ほどの間に相当数の物件を見た。

 わたしは、性格的に、容易に決断ができず、煮え切らないというところがあって、やっとこ決断したのは、これまで行ったこともない、農村地帯の物件だった。それは格安で、しかも一戸建ての一軒家だった。

 三度、下見に行って、五月に見に行ったときは、空の青色が濃いという印象を持った。要するに、水田と林だけと言っていいようなところだが、実は、そうした田園に住むことへの願望が以前からあったのである。それに信じられないほど格安であったことは、その時のわたしにとって重要だった。一人暮らしで、小金はたまっていたものの、この先、健康にどんな問題が生じるかわからないし、何かの災難に合わないとも限らない。ある程度の金は手元に残しておかなければならない。通勤には、これまでより二十分増しの時間がかかることになるが、それもあと三年足らずだ。

 また、物件が一軒家だったことが、わたしの背中を押した。と言うのは、物件といえば、たいてい五~六戸でひとまとまりの団地型であったり、お隣がひじょうに近かったり、くっつきそうだったりするものが多い。人づきあいが苦手なわたしに、そういう物件は合わない。その点、わたしの選んだ家は、一番近いお隣さんさえ三百メートル以上は離れている。正真正銘の一軒家だ。三度の下見で、建物の内部や外回りなど、入念に見て回った。担当の業者は、それがすでに十年以上経過している物件であることなど、正直に話したが、それにしては全体が実にきれいで、目立った汚れや損傷個所などは全くなかった。

 気になったのはむしろ、近くの住宅団地だった。新築して間がないことは明らかだった。人の姿を見ないので、売り出し中かとも思ったが、そうでもないらしい。一度は、人がいた形跡がある。おもちゃのシャベルが転がっていたり、庭に人の踏み跡がのこっていたりする。引っ越し前の状態なのかもしれない、とその時は思った。担当者に尋ねると、他社の物件については分からないと言われた。このことについては、もっと注意すべきだったが、後になって初めて合点がいくことになる。


 田んぼのど真ん中に、威厳を放つ巨大な屋敷森のお宅があった。それが、わたしの手に入れた一軒家の、一番近いお隣さんということになるのだが、お隣さんというには、あまりにも格が違い過ぎると思った。

 東西南北、何百メートルあるか見当がつかない。おかげで、遠くに見えている何軒かの農家が、物置か掘っ立て小屋か何かのように見えてしまう。

 屋敷森というものは、人工林に違いないだろうが、その規模は、実に目を見張るものがあった。西から流れる堀が屋敷森にぶつかって、森を迂回して流れていて、まるでちょっとした要塞のような感があった。周囲に広がる田んぼも、この辺り一帯の土地も、その所有するところに違いないと想像された。ケヤキ、ヒノキ、そのほか多種多様の樹木が、空を独り占めしようとするかのように繁っていて、森の中に建物がいくつあるのか、見当もつかない。さぞかし大きな母屋や蔵など、いくつもの建物が存在しているにちがいないが、中の様子を想像することさえ許さない屋敷森の規模だった。

 わたしが手に入れたのは、飾り気のない平屋建てだった。建坪がニ十五坪という3LDKで、特に説明の必要のない普通の家だ。こぢんまりとしたLDKに、八畳の客間風の和室、六畳の和室と洋室、クローゼットのような小部屋が一つ、浴室、シャワートイレ・・・。装備がそろっているうえに、いずれも作りがしっかりしていて立派だ。外見もさることながら、内部が真新しくきれいで、不思議な気がしたくらいだった。

 休日ごとにアパートからこの家に通って、玄関から公道(農道)までの草をむしり、生け垣の不ぞろいを剪定鋏でそろえ、電話、テレビアンテナ、エアコンなどを取り付けてもらって、生活の場がそこへ移った時には、夏が終わろうとしていた。

 実際に住んでみると、われながら気恥ずかしいほどの満足感、幸福感があった。畳の上で、大の字になった時などは、自分が別人になったような気持ちさえしたものである。アパートの時と比べて、日々、開放感があった。仕事中も帰宅が楽しみだった。勤務のない日は、周辺をぶらぶらしたり、家の内外の整備、清掃をしたり、町へ自転車で買い物に行ったり、気ままに過ごした。テレビを見るのにも、音楽を聴くのにも、音量の制限がなかった。要は、自由が何倍にもなったような感じで、このうえ、一緒に暮らしてくれる女性でもいれば、自分の人生はほぼ完璧、などと考えて、勝手に大笑いするときもあった。

 新たにできた楽しみは、釣りだった。それまで、パチンコとギャンブル以外に趣味といえるほどのものがなかったことは、すでに述べたとおりだ。

 釣りといっても、大仕掛けなことをするわけではない。例えば竿は、買ってくる必要がない。竹藪のある農家にもらいに行く。するとたいていは、好きなだけ持って行ってくれと言われるので、すでに切り倒してあるものの中から何本か、適当な長さ太さのものを選んで、もらってくるのである。買うのではなくて、できるだけ自分の手で作る。それも漠然と抱いていた夢だった。そういえば、釣り具の浮きも、枯れた真竹の先端部分を使って、手製が可能なのである。針と糸、ゴムなどは釣具屋でそろえて、歩いて近くの小川に出かけるのだ。小川というより、用水路なのかもしれないが、とにかく小さな流れがそこら中にあって、釣り場はより取り見取りだった。釣りは、釣れても釣れなくても楽しいものだ。浮きの動きにしても、小さいヤツほどせっかちだし、魚種によって引き方が随分違う。

 釣り餌だけは、自ら考案したものを使っていた。その詳細は、❝企業秘密❞とさせていただくが、たとえミミズであろうと、サシ(ウジ虫)であろうと、釣り餌として使えば、自分の手で殺すことになる、それがいやだったのだ。

 釣った魚も全部、もとの流れに戻していた。釣り針には必ずと言っていいほどカエシという逆さ針が付いている。針にかかった魚が、どうあがいても外れないようになっている。だがそれはとりもなおさず、釣れた魚を外そうとしたときに、魚の口やのどのあたりをいたく傷つけることになる。そのために魚は死んでしまうことが多い。それは、釣りをしない人でも、想像がつくところだろう。

 それでわたしは、その返しを、ペンチと小さな(やすり)を使って、完全にそぎ落としてから使っていた。だから、しょっちゅう食い逃げをされるのだが、それも一興だった。釣れるのはクチボソだったり、モロコだったり、名前の分からない小物だったりしたが、十センチほどのマブナや、タナゴが釣れるときもあった。マブナがかかったりすると、浮きは、水中まで引きずり込まれて見えなくなり、ニメートル余りの竿がしなって、釣り上げた時の手ごたえは、実に快感だった。

 その辺りの小川や小さな池は、十月も半ばを過ぎると、ぱったりと当たり(浮きが動くこと)が減ってくる。つまり魚たちがあまり動かなくなる。そんなある日、わたしは、屋敷森の近くの堀で、釣り糸を垂れていた。が、一向に浮きが動かない。今年はおしまいか、などと考えていた時だ。一人の、白いワイシャツに身を包んだ人物が、三百メートル余り先の、例の屋敷森から出て、そこらの樹木で見え隠れしながら、くねった道を歩いてくるのが見えた。その姿は、すぐに目についた。その辺りで、歩く人の姿を見かけることなど、皆無と言ってよかったからである。

 近づくにつれて、その人物は男性で、高齢であることが分かった。前屈みで、片足を引きずるようにして歩きながら、片手で腰のあたりを押さえている。そうして、視線を時折わたしの方に向ける。男性は、わたしを目指して歩いているように思われた。その予感は当たっていた。老人がわたしの背後に立ったのは、息を切らしているその呼吸音で分かった。わたしは、あえて釣りに集中しているふりをしていた。

 「どんなぐあいですかな」 

 老人が声をかけてきた。高齢とはいえ、お大尽だいじん特有の品のあるよい声だと思った。潤いとつやがあり、よく響いて聞きやすい声だ。

 「小物と遊んでもらっています」と返して、この際だから挨拶ぐらいきちんとしておこうと振り返ったが、わたしは続けて言葉を発することができず、息を呑んでしまった。老人の顔の、向かって左半分が、まるで仮面か何かのように、濃い赤茶色に塗りつぶされていたからである。それは、左上の額から眼がしら、鼻のわきを通ってあごの下まで続いている。

 わたしが一瞬息をのんでしまったのを見て取って、老人は言った。

 「いやいや、驚かしたかもしれませんな。いきなりこれだけのものを見せられて、何も感じない者はおらんでしょうからな。言い訳のようになるが、これがな、生まれつきでも病気のせいでもないんだ」

 表情はひじょうに柔和で、口調は穏やかだった。

 「ところで、このところ何度かこの辺りで釣りをしているのを見かけるが、どちらから来られた」

 「申し遅れましたが、お宅から三百メートルばかり東に、一軒家があるのはご存じかと思います。八月からそこに住んでおります。団地以外、お隣と言えばお宅様になりますので、いつかご挨拶に、とは思っておりましたが、あまりの豪邸で、われわれとは別の世界のように思われましたし、どこからどう入るのかさえよくわからないという次第で、これまで失礼してきました」

 そして名前を付けくわえた。

 老人の表情が急に変わった。

 「なに、あの一軒家に?・・・。業者が何も言わなかったかね」

 「わたしが聞いたことには、すべて答えてくれましたが・・・」

 老人は、ゆるやかに流れる堀川の水の上に視線を落として、考え込んでいる風だったが、やおら口を開いた。

 「そうか。あそこにな。あそこに住んで居られると聞いては、お話ししないわけにもいかんか」

 右の腰に手を当てて痛そうにしたので、わたしは、持ってきたブリキのバケツを逆さにして、その上にそこらじゅうの草をむしって乗せ、さらに軍手と手拭いを敷いて平らにし、腰を下ろすように促した。

 「この顔のことじゃよ」と言って、老人はバケツに腰を下ろすと、ひじょうに長い話をした。

 「最初の兆候が表れたのは、たしか五十六のときだった。まず右目の上あたりに、色の濃いところがあることに気が付いた。形は、ヘボなジャガイモのようだった。初めは、整髪料の汚れかなにかだろうと思った。ところが、ちょっと拭いたりこすったりしたぐらいでは全然落ちない。それはあわてましたよ。どういうことなのか、さっぱり分からんでしたからな。それで、いろいろやった。高い洗顔石鹼を買って洗った。熱く蒸したタオルを当てたり、水で冷やしたりした。これでもな、わしは人の目をひじょうに気にするたちでな。だが一向に効き目がない。それどころか、あっという間に色が濃くなって、痣のようになってくる。かてて加えて、少しずつ面積が広がってくるではないか」

 老人は続けた。

 「当然、医者に行った。それも一つや二つではない。しかし、どの医者にも原因は分からなかった。病気ではない、異常はないと言われた。わしは言った。そんなことはない、明らかに異常だから何とかしろ、とな。すると、手術ができないことはないが、一部分に限られる。全面的に行えば、眼瞼や頭髪、びんにかかっている部分など、まちがいなく術後の方が不自然になる、と言う。人生最大の絶望だった。外に出るときは、季節によらずマスクをして、帽子を目深まぶかにかぶっていた。半年後には、顔の半分近くにまで広がって、しかも誰が見ても異様なほど、色が濃くなっていたからな。しょうじき、死んだほうが増しと思ったこともありましたよ」

 日ごろ、話すことに飢えていた人のように(実際そうだったのかもしれない)、老人の口調は熱を帯びてきた。わたしは、釣りの仕掛けを流れから上げて、この日の釣りは終了とせざるを得ないと腹をくくった。老人の話の腰を折るに忍びなかったからである。老人は話を続けた。

 「これは自慢話のようになるかしらんが、こう見えて、わしは元官僚でな、同|期の中でも順調な出世をして、当時は局長をしておった。次官で退職かと噂され、そう自任もしていた矢先だ。しかし結局、翌年、自ら辞せざるを得なくなった。『わが省には、仮面の妖怪がいる』などというささやきが、自分の耳にさえ入るようになってはな。省、というより、国家に迷惑を及ぼすわけにはいかん」

 わたしは驚かないではいられなかった。その時の自分と、ほぼ同年に当たるからである。

 「退職すると、すっかり気落ちしてしまってな。何もする気にならぬ。ひとり息子の行く末だけが生きがいだった。ところが、凶事は重なるものなのか、翌年にかけて、妻の身体にも異変が生じてな。背中から肩を通って、左の乳房まで、わしと同じ薄茶色の変色が表れた。あっという間に、このわしと同じように色が濃くなっていった。妻のショックは大きくてな、精神科に入院した。三か月ほどで、退院はしたものの、妻もわしも、睡眠導入剤と安定剤が欠かせなくなった。ただ、一つだけ救いがあった。妻の顔面に、異常が現れなかったことだ。わしと同じようになっては、買い物にも出られなくなる。生きていけなくなるからな。こんなことになっても、ありがたいと思わねばならぬのが人間なのだなと、つくづく思い知らされた。毎日、することがなくなって、はじめて気づいたのは、生まれて六十年近くの間、正真正銘、自分の家だというのに、入ったことさえない部屋がいくつもあるということだった。土蔵が三つあるが、どれにも入ったことがなかった。気味が悪いぐらいに思っていた。ほかにも、爺さんが寝ていた部屋、母屋の端の暗い座敷、納屋、外用のかわや、貯水塔、竹山 …… 。日ごろ、自分が見たことも触れたこともなく、意識さえしなかったものが、山ほどあることに気づいてな。いきなり別の世界に入り込んだような、我ながら妙な気分だった」

 老人の表情が幾分か和らいだ。あるいは、しゃべれること自体が、嬉しかったのかもしれない。

 「数えきれないほどの、大小の木箱を発見した。古い武具、器具、農具、古文書の類がざくざくと出てきた。わしは古文書については、ずぶの素人だが、暇に飽かして少しずつ解るようになってな。先祖の日記のような文書を見ていて、はっとするような文言に出合った。それは、大変な驚きだった。過去にも、この土地で、わしや妻とまったく同じように、顔面やからだの色に異常があらわれた者が、何十人も出ていたことが記されていたのだ。意外にも、わしと血縁のない者ばかりだった。年号の読み取れるものもあった。規則的に起きるとか、特定の地区で起きるということはないようだった」

 老人は、自らの話に、深く没入しているようだった。

 「ところがだ、それは我々で終息するというものではなかった。というのはな、最近のことだ、この土地にも、宅地化の波が押し寄せて、ここからも見るとおり、団地が一つ造成されておる。それ自体は、世の中の動きに従ってのことだから、どうということはない。ところが、この先この辺りも賑わわしくなるかと、将来の変わりようを夢見る間もなく、団地の住人の中に、顔に妙な変色のあらわれる人が出始めてな、大騒ぎになった。今、正確なところはわからぬが、中には、幼い女の子もいたという話だ。どうもこの土地がおかしいということになってな、今、団地に住人は一人もおらん。何人の人に、どの程度の異常が起きたのか、わしも、詳しいことは分からんのだが・・・ 。古文書にも、異常な事実の発生は書かれていたが、原因などは書かれていなかった。当然じゃろう。現代の医者でさえ分からないというのだからな」

 そう言って老人は、大きくため息をいた。

 「どうもわしには、江戸時代に新田開発をやった時のことが関係しているように思えてならぬ。年代は「寛政五丑」とあったから、多分 大飢饉のあとだ。着工の年なのか竣工の年なのかはわからぬ。新田開発の一環として、狭かった堀を、全長約ニ十町にわたって、幅約ニ尺に拡幅した、と古文書にあった。この堀の十町(約一キロ)ほど北が工事の終点で、その先は、以前の幅の細い水路になる。その近くに地蔵様が祀ってあるんだが、ご存じかな」

 わたしはすでに、その地蔵を見て知っていた。だがわたしは、咄嗟に知らないと答えていた。おそらくそれは、地蔵の顔に老人とそっくりの特徴があったからである。わたしの脳裏には、その地蔵の顔の異様さの記憶が、まだはっきりと残っていた。

 その地蔵に出合ったのは、今の家の下見のついでに、周辺のかなり広い範囲を歩いたときだった。地蔵堂は銅葺き屋根で、大きさも大きく立派なものだった。だが不思議だったのは、前面の屋根が、庇のように長く低くしつらえてあったことである。つまり、何らかの理由で、中を敢えて暗く、見づらくしてあるように見えた。庚申塔も安置され、青面金剛が一緒に祀ってあったが、ともに高さ六~七十センチほどの高さで、のぞき込まずとも、すぐに全体像が分かった。ところが、地蔵像には台座があって、全体としては私よりも高い背丈になる。しかも極端に低い屋根のおかげで、お地蔵様の、せいぜい胸のあたりまでしか見えない。

 わたしは不審に思って、お堂の奥に首まで差し入れて、地蔵様を見たのだった。薄暗い中に地蔵の顔が浮かんだ。その瞬間、私はぞっとしてのけぞるように身を退いた。なぜならその地蔵は、顔面の向かって左側だけが、黒く変色してそれはそれは実に異様で、何か不吉なものを感じないではいられなかったからである。わたしが咄嗟に、老人にたいして「知りません」と言ったのは、知っていると言えば、それについて何らかのことばを発しなければならなくなる。それを避けようとする、自己防衛的な本能が働いたからだった。

 老人は、また話し始めた。

 「その地蔵様のことで、爺さんが生きていたころ、わしに話して聞かせたことがある。昔の堀の工事のときに、作業の邪魔になるというので、一旦、地蔵をどかしたという話だ。お堂はだいぶ傷んでいたので取り壊し、工事の後に再建することにした。それはそれで問題なかろう。ところが、地蔵本体の扱いがまずかったと言っておった。年中ぬかるんでいる、田の端のくぼみに放置したというのだ。どのくらいの期間、そのままにしてあったのか、それは分からぬと言っておった」

 老人の話は続いた。

 「さて工事が終わって、地蔵堂も再建され、村の者どもはどんちゃん騒ぎで喜び、祝ったそうだ。いま見えておる屋敷森の、あのわしの家でな。そりゃそうだろう。骨のおれる土木作業だ。それが、けが人ひとり出すこともなく、無事に竣工したのだからのう。それに、これからは水利がよくなる。荒れ地にも、水を引きやすくなる。田畑に変えることだってできる。収量も増えるはずだからな」

 老人の口角に泡が立ってきた。

 「ところがその席で、ひとりの百姓がぽつりと言った。『地蔵様は、どうしてあったすけかな』とな。みなはっとして、顔を見合わせた。それまで自分らの都合ばかり考えて、どんちゃん騒ぎまでやっていながら、こともあろうに地蔵様を、とんでもない場所へ長いことほったらかしていたことに気づいたわけだからな。座は、水を打ったようになってしまった。翌朝、早いうちから総出で、地蔵様を引き上げることになった。ところが、初めは埋まっている位置さえ分からなくなっておった。時がたったせいで思いのほかに深く埋まってしまっていて、ようやっと足のでっぱり部分が見つかって、掘り出しにかかったが、容易に上がらなかったということだ。地蔵が怒っておったことの表れと考えられなくもない。欠けたり折れたりすれば一大事だ。用心し苦労しながら、何日かかけてなんとか引き上げた。そうして、用水路のきれいな水で丁寧に洗った。ところがどうだ。もともとごく普通の、白くてきれいな顔のお地蔵さんだったものが、なぜか、お顔の右半分の赤黒い汚れだけは何としても落ちぬ。藁束子わらたわしで洗っても洗剤を使っても、一向に落ちる気配がない。胴体の方には、何の異常もなかった。まぁ、ちょうど今のこのわしと同じようだったわけだな。村人どもはどんな気持ちがしたことかのう。なにゆえに、こんなおかしなことが起こるのか。わしのおやじも、少し調べたことがあったようだ。おやじは村議をしておったでな、その後の地区のためを思ってのことだったろう。しかし、地蔵像の材料がシラカワイシという安山岩の一種と分かったくらいで、原因を突き止めるには至らなかった。今、そのせがれであるこのわしが、こんな思いをすることになろうとは、夢にも思わなかったであろうな」

 老人は、寸時黙って、何事か深く思いをいたす様子だった。

 「とにかくその時から、地蔵の顔はずっとそのままだ。今、この近在では、昔、人の顔に異変が起きたことも、最近の、新築団地から逃げ出した人たちのことも、みんな地蔵の怒り、祟りの結果だということになっておる。確かに、それ以外に考えようがないからな」

 わたしは何と答えてよいかわからなかった。昭和も戦後三十年、地蔵の怒りだの祟りだのと言われても、そのまま受け入れることはできなかった。しかし、奇態なことだとは思った。老人は、わたしの顔をじっと見つめながら言った。

 「お前様が今住んでいる家、あれな、実はわしが建てた。あそこもわしの土地だでな。せがれのためだった」

 わたしは二重に驚いた。老人の話にまだ先があったこと、そしてそれがわたし自身に向かって進み始めたからである。こうなってはもう、わたしも最後まで聞かないわけにいかなくなっていた。

 「こればかりは、誰にも一度も話したことがないが、お前様が現にあの家に住んでいると聞いては、これも話さぬわけにはいくまい。あそこには、わしの息子を住まわせておった。わしが四十五の時になってやっと生まれた一人息子だった。また自慢話で済まぬが、生まれつき、きれいな赤ん坊でな。しかも、よくできた子供だった。幼稚園、小学校の頃のことは忘れたが、中学時代は、学年で二番になることがなかった。高校は、県内随一と定評のあったところに合格した。ちょっと家から遠かったが、将来のためには、少しでも偏差値というのか、進学実績の高いところに入っておく必要があるからな。ところが、その学校でもトップクラスの成績でな、わしら夫婦は、どれほど気持ちの上で助けられたか分からぬ。そうして、さほど勉強しているとも見えなかったが、最高学府の頂点と呼ばれる大学に合格した。実はな、これは、このわしとまったく同じコースをたどったことになる。わしも、よく秀才だ秀才だと言われたものだが、難易度で比べたら息子の方が上かも知らんな。わしは法学部だったが、息子は、医学系だったからな。まあ、それはどうでもよいことだが、息子が順調に大学院に進むことが決まったころのことだ。妻がいかにも深刻な顔でわし言った。息子を、この家に居続けさせて大丈夫だろうか、とな。そう言われると、わしも不安になってきた。そもそも、正常な心理状態ではなくなっていたからな。それで、屋敷森とは別のところに住まわせることになった。しかし、具体的にどうすればよいかわからぬ。わざわざ占い師に来てもらったところ、近くに家を建てて住まわせるがよいと言われてな。方角、距離、大まかな間取り、神棚をしつらえることなどを、その占い師の言うとおりにして建てたのがあの家だ。息子は、そこまでする必要はないと言っていたが、渋々ながら同意して、そこへ移った。我々夫婦の姿を、の当たりにしておったわけだからな。それに、わしの家は築百年になる。長い廊下は波打っているし、各部屋の畳のへりには齟齬が出ている。炊事場の便も良いとは言えぬ。わしらはともかくとして、決して住み心地がよいとは言えん。その新たに建てた家というのが、いまお前様のいるあの家だ」

 私は、思いも寄らない複雑な背景があったことに驚いた。そしてこの先、老人が何を話すかと思うと、なぜか、胸騒ぎのような息苦しさが湧き上がってきた。

 「初めのうちは、家内もわしも食材や料理を運んだりして、行き来しておった。息子は、じきに自活するようになった。当たり前のことだ、大人なのだからな。食材を持って行ったついでに、息子のところで食事をすることもあった。わしらの分も息子が作ることがよくあったのだが、それがどれも不思議なほどにうまくてな。東京の料亭はいくつか知っておるが、息子の作るのよりうまい店はないような気がしたくらいだ。ところが、わし等の切実な願いに反して、その年の春、息子の身体にも異変が表れ始めた。それも、年齢と関わりがあるかどうか知らんが、息子のは、とても言葉で言い表すのも躊躇ためらわれるような、それはひどいものだった。顔と言わず、胸と言わず、背中と言わず、尻から腿、下腿にわたって、いろんな形と大きさの土色のあざが浮き出てきてな。それは、わが子ながら、ふるえがくるような姿だった。本人が、どんな心境だったか、考えると憐れでならぬ。大きな希望をふくらませていただろうし、実際、将来のある身だったわけだからな」

 老人は、何事かつぶやきながら遠くに視線をやっていたが、表情は、その時の恐怖がよみがえっているかのように青ざめていた。そうして、何ごとか、おまじないのような言葉を口の中で繰り返していた。

 「三人とも、完全に人生をあきらめておった、と思う。とにかく方法がないのだからな。我が家はもうどん底、というより本当に地獄だった。わしは、心の底から人間に生まれてきたことを恨んだ。息子も妻も、同じ気持ちだっただろう。それで息子は、屋敷森の方に戻ってくるようになった。さすがに、一人でいるのが恐ろしくなるときがあったのであろう。勿論、どっちからどっちへ行くにも、出歩くのは夜だった。どんなに田舎だとて、絶対に人に会わぬとは限らんからな。ある程度、気分が落ち着くと新宅に戻っていった。ピアノや、ステレオセット、ワープロなんかはそっちにあったからな。互いに安否を確かめるのに電話も使っておった。ところがある日、何度電話しても出なくなったから、慌てて飛んで行った。するとな、ダイニングのテーブルのそばに、息子が倒れておって、その周りが一面、血の海だった。事件に巻き込まれたとか、自殺とかでないことは、明らかだった。身体中の痣の部分に、無数の破れ目があって、一目で内側からと分かる裂け目でな、失血死というのか知らぬが、息子の身体は、焼きナスのようにしぼんでおった。どうしてこんなことが起きるのか、正直に言ってわしは、命というものを呪った。息子は、おとなしくて、頭もよく、人の気持ちのよくわかる、実によい人間だった」

 老人は無言のまま、しばらく下を向いていたまま、ウウウウと、声を殺して泣いているようだった。ふと、何かを思い出したかのように顔上げると、話を締めくくるような調子で言った。

 「この辺り一帯は、遠い昔、ただの湿地帯だったということだ。わしは今、本気で思っておる。ここらの土地は、すべて元の姿に戻るのがよいのではないか、とな。昔のように、穢れのない土があって、そこへどこからか自然なきれいな水が流れてくる、青々とした草々、とりどりに咲く花、灌木や喬木、虫、鳥、魚・・・」

 気持ちが幾分か落ち着いたのか、老人はしばらく流れに見入っていたが、急に我に返ったように言った。

 「いやいや、えらい邪魔をした。すまなかった。いや本当にすまないことでした。こんなにしゃべったのは、八十年近い人生で初めてだ。お前様のその屈託ない、と言っては失礼になるかもわからぬが、ゆったりした様子に、引き込まれましてな、つい甘えてとんでもない長話をしてしまった。いやすまなかった。すまないことでした。年寄りに免じて許してくだされ」

 そう言い残すと、腰に手を当てずに、やや顔を上げて歩き出し、時折手を挙げて挨拶をしながら、また屋敷森の中へと消えて行った。


 このような話を聞かされて、安閑としていられるほど、わたしは鷹揚でもなければ、脳天気でもない。それどころか、パニック症を発症しそうだった。畳の上で大の字になった時の解放感も、庭に何を植えるかなどという夢も、いっぺんに吹っ飛んでしまった。

 とはいえ、すぐに出ていくというわけにもいかない。一日一日が、これからどうしようということで頭がいっぱいだった。容易に妙案が浮かぶわけもなく、一週間ほどが、あっという間に過ぎた。

 ところがそんなわたしに、はっきりと決断を促すできごとが出来しゅったいした。世間には、鏡をのぞくのが習慣になっている人種がいるとのことだが、わたしにその習慣はなかった。ところが、ある日ふろ場でひげを剃っていた時のことだ。右目の上あたりに、ゆがんだ(こぶし)のような形の、薄茶色の模様が浮き上がっているのに気付いた。老人の話が、まだ頭に残っていただけに、私はあわてた。よくよく見た。初めは、シャンプーの泡のつき加減かと思った。だが違う。いくら流しても洗っても落ちない。あの地蔵と老人の顔が、大写しになって甦った。

 「自分もなのか」

 この時のショックは、言い表しようがない。勿論、六十年近い人生で初めてのことだ。いい年をした男が、それくらいのことでそんなに動顛するものか、と言う人がいるかもしれない。また誰しも、このことさえなければ、という悩みの一つや二つは必ずあるものだ、と言う人もいるだろう。だが、それこそ、他人事ひとごとというものだ。人間社会において、顔は、人体の中でも特別なのだ。

 その翌日の早朝、わたしは最低限の衣類、当座の必需品だけを旅行バッグと手提げかばんに詰め込んで、家を出ようとした。しかし荷物が多くて、田舎の駅まではとても歩ききれないことにすぐに気が付いた。手ぶらでも、ゆうに三十分はかかる距離だ。タクシーに来てもらい、電車には乗ったものの、頭の中は真っ白だった。どういう経路をたどったか、はっきり覚えていないが、気が付いたときには、以前住んでいたアパートの近くにいた。

 その日のうちに、今後の生活の場を決めなければならない。野宿は、経験がないのでできない。迷っている余裕さえもなく、自分のレベルより上等な、マンション型のアパートを契約してしまった。冷蔵庫など、すぐに必要になる生活財がそろっていたからだ。自分としては、やむを得ない結果だったと思う。


 問題の中古住宅は、意外に早く売却処分できた。土地と建物の時価、置いてきた家具類の処分費用等々、相殺されて、手元に戻ってきたのは、購入時の三分の一以下の現金だったが、わたしに不満はなかった。よく売れたものだとさえ思った。

 生活は、半年前に戻ったようなことになったが、違うのは、わたしが顔を気にする人間になったこと、そして、毎日四六時中、鏡で確かめるようになったことである。

 社内でも町でも駅でも、人の視線がわたしのどこに向けられているか、ひどく気になった。特に顧客と会わなければならないときは、冷や汗が出たほどである。

 まさに恐々とした日が十日過ぎ、二十日経ち、ひと月が経過した。だが、そのこぶし大の痣に変化はない。大きくなることもなく、濃くなることもなく、腫れてきたりすることもなかった。しかし、いつどんな悪化を見せるかわからないという不安は、消えることがなかった。

 あの地区で、わたしよりも前に、せっかく新しい家を手に入れながら、この出来事のために、逃げるように去っていかざるを得なかった人々のことが思いやられた。もしかすると、その中に、わたしよりも、もっとひどい状態になっている人が、居ないとは限らないと思ったのだ。

 そうこうして、半年ほどが過ぎても、わたしの異常部分が変化する様子はなかった。わたしに、あきらめのような気持ちが生まれてきた。鏡は、あまり見なくなった。年月は、どんな問題も解決すると言うが、確かにそのとおりかもしれない。


 あの老人が今どうしているか、それは分からないが、屋敷森は現在も存在している。そしてその周辺一帯の土地には、『痣地蔵』《あざじぞう》という通り名がついて、公式の地名よりも広く世間で通用しているとのことである。

 老人の息子が、どのように葬られたか、それは聞いていない。               (完)                        

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  第ニ話   鎌風の吹く村

                

 「鎌風」という言葉は、聞き慣れない人が多いかもしれない。これは、呼んで字のごとく、ある特殊な風につけた名前である。昔、屋外でいつの間にか、鋭い刃物で切られたような傷を負うことがあった。人々はこれを、旋風つむじかぜのような一種の気象現象のせいであるとして恐れた。その気象現象を鎌風と呼んだのである。

 また、傷は目に見えないいたちのせいであるとする見方もあって、その現象は、「カマイタチ」と呼ばれた。


 この話の舞台は、ある山間やまあいの村の、一つの集落であるが、実名を明かすことはできない。そこの住民のすべてが、それを強く忌避し拒否しているからである。便宜上、みずのと集落としておく。村ではなく、その中の一つの集落である。

 二十世紀末ごろから、「限界集落」という言葉が世間を駆けめぐった。この集落も、そう呼ばれた。それが話題となり、一時、全国的に有名になった。そのことは、おのずから集落の者たちの耳にも入ったが、彼らはみな、遠くの雷のように受け止めていた。

 実際、騒いでいたのはマスコミや都会の人間たちばかりであったし、確かに住民の数が減ってきたという自覚はあったが、増える神あれば減る神もあるといのが、彼らの生き方だったのである。ところが、その後、集落は大変な迷惑をこうむることになる。

 報道のせいで、いつの間にか、どこの誰ともわからない人間が、集落のあちこちに出没するようになった。カメラをぶら下げている姿が目立った。いかにも、何か珍奇なものを見つけに来たと言わんばかりである。

 実害もあった。ずかずかと畑に入り込む。畔や導水路を踏みつけて壊す。いきなり庭に入ってくる。やたらに人の写真を撮る。ひどいのは、住民の家の窓を勝手に開ける。

 そして共通しているのは、この場所に住む理由をしつこく尋ねることだ。住民にとって大きなお世話であり、鬱陶しいことこの上ない。そうして、村を去る時にはたいてい、「がんばってください」と言う。答えようがない。

 しかし、そんな世間の馬鹿騒ぎによって、集落が動揺したり混乱したりすることはなかった。そもそも世の中は、いつどんなことが起きないとも限らないことを、村の者はよく知っていたのである。実際それは、最近の全国各地の大災害を例に出すまでもないことだ。

 癸集落は、村を構成する五つの集落の中で、最も険しい奥地に位置していた。深い谷を隔てて、対岸に隣県の集落があり、遠目に見下ろすことができたが、交通の方途がなく交流はなかった。

 戸数七十、住民三百弱、かみなかしもの三つの小字があり、それぞれ二十戸ないし三十戸のまとまりで構成されていた。癸集落の、どの小字からも、村役場、小中学校、定期開設の診療所まで、いずれも一里半(約六キロ)ほどの距離があった。主だった施設は、村の中心である別の集落に存在していたからである。

 癸集落には、店と言えば、万屋よろずやという、何でも屋のような店が一つあるだけだった。特徴と言えば、「カミタチ」と名付けられた神社らしいものが「中」の地区にあった。

 限界集落騒動以外で、癸集落に姿を見せる者と言えば、他所よそへ働きに出ていて一時帰宅する者と、薬などの行商人ぐらいだった。移動販売の車が、年に何度か急坂を上ってくることがあった。あとは、依頼に応じて、医者、僧侶、神職がまれに訪れた。

 癸集落の、隔絶と自給自足の度合いは、全国のどの集落と比べても際立っていた。同時に、文化的にもめったに見られることのない、多くの特徴を持っていた。とりわけ、現代文明に対して疎遠であり、古くからの言い伝えや習わしが、様々な形で生き続けていた。

 ごく最近まで、座産が行われていた。死者は、土葬に付された。どの家の玄関にも、和紙に木版で刷った鍾馗しょうきの墨絵がある。直接 壁に貼り、また、厚紙に貼って吊り下げる家もある。言うまでもなく魔除けである。

 庭には必ず松と梅と竹が植えられた。屋敷林のある家では、その中に、必ず二本か三本の花梨かりんの木があった。「かりん」は「借りん」に通じる。つまり、人から金や米を借りることなく、安穏に暮らしていけることを願っての習わしである。住民にとっては切実であり。単なる語呂合わせだ地口だと言って笑うことはできない。試みに、自分自身の家や周辺の家々に、ナンテン、ヒイラギ、センリョウ、マンリョウ、クロガネモチ、松竹梅などが、植えられていないか、またどうして植えられたか、確かめてみるがよい。

 癸集落内の家は、たいていが老朽化していた。屋根が剝がれそうだったり、石垣が崩れていたり、危険と見える家さえ何軒もあったが、様々の禁忌があって、あえて手を付けないというのが実情だった。

 最も特徴的なのが、ある種の魔性のものは、人間の正気を狂わせると信じられていたことである。例えば、「ムジナ」である。ムジナといえば、小泉八雲の「 KUWAIDAN」にある「 MUJINA」が有名であるが、それとニュアンスが似ている。山中で、若い美しい女に出合えば、それはムジナであり、また、おいしそうな食品の類を見れば、それはムジナである。声をかけたり、手を触れたりしてはならない、命を落とすことになるから、直ぐにその場を去れというのである。また、狐は人にくと言って恐れられ、「オトウカサマ」と呼んで、小さいながら神社の一隅に祠が設けてある。

 そして、「カマイタチ」にまつわる話も語り継がれ、記録したものも存在している。


 江戸時代末期、村の名主のものと思われる日記に、次のような記録がある。

 「癸集落 字・下 キスケ男 ゴスケ 八月急死すと上申あり。為に稲刈り甚くなんじふすといふ。カマヘタチの為すところなり」


 また、ある郷土史家が、村史に載せた一文がある。次の部分が注目される。

 「(先行部分省略)癸集落を檀方とする本村の寺の過去帳に、注目すべき記述がある。

  『清耕谷信士 俗名サキチ 行年二十九。使至死所-以者鎌鼬乎』。

 この漢文表記は、「死に至らしめたる所以は、鎌鼬か」と読むことができる。死者の、亡くなった経緯として鎌鼬を特記しており、過去帳の記事として珍しいのではないか。(後続部分省略)」


 「角川俳句大歳時記」という書物は、角川学芸出版から、2013年に刊行されたものだが、参考までに、一部を抜粋して示しておく。これを蔵している図書館は、全国に多い。そこに注目すべき記述がある。著者の一人、筑紫磐井という俳人(1950年生まれ)が、その歳時記の中で次のよう記述している。

 [冬]鎌鼬【かまいたち】[天文]

 ■解説 鎌鼬は江戸初期の仮名草子(『御伽婢子【お伽暴虎】など)に載っており、関八州、秋田、信濃で起こるとされた怪異で、人の皮膚に鋭利な刃物で切られたような傷を残すところからこの名称が出た。(中略)古くは妖怪の仕業とされたが、近代になって気象現象の一つで、真空に近い状態が生じて皮膚が裂けるという解釈が行われているが、科学的には怪しい。筆/者/は/幼/時/に/鎌/鼬/に/あ/っ/た/(スラッシュは鵺森の挿入)が、伝説通りぱっくりした傷が開きながら、血がほとんど出ず痛みもなかった。不思議なことである。(後略)


 実際、癸集落における鎌鼬の被害は、昔から絶えることがなかった。その恐れから、いつの頃か、住民たちが自分たちの手作業で、社を作った。カミタチ神社がそれである。カミタチとはカマイタチから訛ったものかもしれない。神として崇め奉り、いかり荒ぶるのを鎮めようとしたものに違いない。

 神社と言っても、その姿は甚だ粗末で、掘っ立て小屋を少し大きくしたようなものである。檜皮葺ひはだぶきの屋根、間口三間(約五・五メートル)、奥行き五間(約九メートル)、手斧ちょうなのあともそのままの粗造あらづくりで、手と汗とで作り上げた様子が、住民たちの必死の思いを伝えている。内部は、どこかの神社をまねたものらしく、奥に向かって手前から、おおむね八畳分、六畳分、三畳分と、三部屋に区切り、三寸(約十センチメートル)ぐらいずつ奥の部屋ほど床を高くしてある。拝殿、幣殿、本殿という大神社の構造を意識したものと見える。本殿の中央に、祭壇のようなものが設けてある。真鍮の飾りをつけた両開きの扉が開かれ、中には、高さ三尺ほどのエの字形の木台があっって、それへ「カマイタチ大神 御座」と、金釘流で大書した紙が貼りつけてある。それがご神体代わりなのであろう。だれが書いたものか、御座の御の字の右端のつくりが、漢字の部首のオオザトのようになっている。祭りの日には、扉が開かれる。拝殿の入り口から、目で見て拝めるようになっている。

 平地が少ないのでやむを得ないことだが、社殿の北側と東側には、二~三間(四~五メートル)の余地しかなく、その先は怖いほどの断崖になっている。のぞき込むと、ごつごつした岩の急傾斜が足をすくませる。杉の木が何本か、谷底の方から、神社の敷地の高さまで追いつこうとしている。崖下からは、季節によらず、顔をしかめずにはいられないほど冷たい風が吹き上げている。そのため集落では、子供たちが神社の北側に入ることを、厳しく禁じてきた。大人でも、材木の取り出しなどで裏に回るときには、呪文のように「カミタチサマ、カミタチサマ」と唱えるのが習慣となっていた。


 祭りは、冬至の日と決まっている。土地の者の話では、二百年以上変わっていないという。長い間、祭りの実施日を変えずにきたというのは、珍しい部類に入るだろう。冬至は年末だから、その年を振り返ることができる。ただし、葬式があったり、鎌鼬の被害が一度でもあれば、その年の祭りは中止になる。雪、雨、大風の場合にも中止してきた。

 癸集落では、祭りは住民総出で祝う。盆よりも正月よりも重要な日であり、最も楽しみな日なのかもしれない。この日、学校は出席扱いになる。

 祭りに必要なものは、二、三か月前から、徐々に用意されている。舞台は、庭の西の端に、数日前に組み立てられる。舞台とはいうものの、寒村のしかも一小集落の祭りだ。大した見ものも出し物もない。ただ、見物人のためとして、舞台の前にむしろがニ十枚ほど、きちんと敷きならべられる。筵は本来、舞台観賞用であるが、年寄りや子供、それに決まって現れる酔っ払いの休憩用でもある。テントなどというしゃれたものはない。

 当日はまず、小字「上」「中」「下」の総代、それに祭りの進行を司る行事と呼ばれる役付きの計六名が、早朝六時を目安に、カミタチ神社に寄り合う。まだ薄暗い。六人そろえば清掃が始まる。社殿の内部、小石を敷き詰めた幅三尺(約一メートル)、長さ半町(約五十メートル)の参道、それに、境内に相当する一反足らず(約三百坪)の庭を念入りに掃き清めるのである。庭の草は、住民たちの手で、定期的に短く刈られている。

 行事様たちが掃き清めたあとの庭に、若い者たち(家庭や健康に支障のない十六歳から三十歳までの男女)によって、社殿の外、東の壁に沿って、幅一尺(約三十センチ)、長さ一間(約百八十センチ)の長台を据える。長台の上に、一升瓶五本のほか、焼き栗、柿、芋、ネギ、白菜、ビニル袋入りのスナック菓子など、その年に用意できるものを、いくつかの大笊おおざるに盛るなどして、供える。食品類は、あとで、くじ引きによって与えられる。南側には、村道のへりに沿って、三台の長台が並べられる。長台のそばに、仮設のかまどが三つ据えられ、いつでも火がつけられるようになっている。そのほか、臼、杵などの準備を万端整える。それらの用具、舞台づくりの材料などは、いずれも社殿の奥や軒下に収納してあったものである。

 そのあと、三々五々、人が集まってくる。おふだをいただくので、たいていは、家を代表する者たちである。そうして、拝殿の前で手を合わせて一礼すると、履き物を、紙や袋にくるんで懐に入れ、頭を低くして中に入る。役付きなどが前の方に座を占め、順に詰めてしゃがむ。入りきらないので、震えながら外で待つ者もいる。毎度のことである。

 その後、社殿のそばの庭は大変な騒ぎになる。それまで準備をしていた、十六歳から三十歳までの男女と、すでに中にいる各家の代表者以外の住民も、すべて集まってくる。極小集落とはいえ、ほぼ全員が一ところに寄り集まって、騒いでいるのは、不思議な壮観である。

 十時ごろ、頼まれているふもとの神職が、正装してハイヤーで到着。庭を突っ切って、神社の幣殿に擬した真ん中の部屋に、庭の方の扉から入る。拝殿の床には、各家を代表する善男善女がひしめいている。神職はその方に向かってしずやかに一礼し、向きを変えて、最奥の部屋に入り着座する。そうして、カミタチ様の前に進むと、うやうやしくしく一礼する。

 この神職は、隣の町の神社の社司(神主)である。その神社の祭神は、「木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ」であって、カミタチ様とは縁もゆかりもない。そのため、日ごろ自分の神社で行っている式法で、一連の神事を執り行うほかない。その独特の所作や音声に、居眠りをするものが出てくる。ちょうどそのころに、神職が、鎌鼬大神の真鍮の飾り扉をゆっくりと閉め、後ろに控えている人々の前まで来て、御幣を振り、災厄を祓う。用意した神札、総戸数七十枚余りを、総代表に下げ渡して、神事は滞りなく終了する。神職は、待たせてあったハイヤーで風のごとく去る。神職への謝礼は、後日、地区の総代たちが届けに行く。

 神職から受け取った総代は、前列の方から順に、ひとり一枚ずつ神札を手渡す。いただいた者は、神札を大切に懐にしまって、神職が出ていったのと同じく、中の部屋の横扉から順に、庭の方に出る。すべての家にお札が行きわたったことが確認され、総代が、幣殿の横の出入り口から、庭の方に向かって「ほんじつは、めでてぇこってごぜぇやす」と呼びかける。それを合図に、「お礼祭り」が、ドッという勢いで始まる。

 お礼祭りと言うのは、この年 災難危難にあうことなく、無事におふだをいただくことができたことを、喜び祝うことからそう呼ばれる。餅つきをし、茸汁を煮て、供えてあった酒、果物を分け合っていただく。ここの茸汁とは、茸と土地の野菜をふんだんに使って、持ち寄った手作り味噌で煮込み、そこへ玄米粉の団子をうかべたもので、言わば水団すいとんのようなものである。これは好きなだけふるまわれる。

 舞台には、旧式ながら音響設備がある。歌が出る、踊りが出る。若い者がドタバタや卑猥な掛け合いをやって、みんなを笑わせる。主に若者らが、それぞれこの日のために、ひそかにネタを準備するのである。ついには何人か、自らの家庭内の出来事を、秘匿すべき部分も含めて、スピーカーから流す者まで現れて、大笑いを誘う。それら一つ一つが、集落の者にとって、年に一度のこの上ない楽しみなのである。


 戦後も、昭和時代は集落にとっては何事もなかった。ところが、二千年代に入ると、癸集落に、また外部の人間たちがちらほらと姿を見せるようになった。この現象は、他の名もない小集落でも見られるようになったが、「限界」騒ぎの時と違って、理由がはっきりしない。観光地としての要素は考えられず、識者も首をひねるばかりである。

 一説に、かつて名所と呼ばれ、リゾートと騒がれ、観光地の定番ともてはやされた場所が、新鮮味を失ったことの裏返しではないかとする、うがった見方がある。

 また、いたるところで、町おこし、村おこしなどと称して、奇抜なアイディアや、不似合いなイベントをぶち上げたりすることが、盛んにおこなわれた。しかしそれらはいずれも、それぞれの地域の自然と文化そのものが、観光の原点であることを忘れている。

 一般の人々が、そうした戦略意識丸出し、企図するところむき出しの、人寄せ太鼓に飽き飽きして、反動的に、名もない町や村のありのままの姿に接することの面白さに、気づくようになったのだ、という見方もある。

 癸集落の場合、「鎌鼬」などという得体の知れないものが、今なお命脈を保っていることを、マスコミが面白半分にとり上げたことがあったので、半信半疑で来てみた、という人が多かったかもしれない。


 その年の冬、癸集落は穏やかな冬至を迎えようとしていた。祭りを翌日に控えた日の午後のことである。十六歳から三十歳までの稼働可能な者(年によって四十名から五十名)は、社殿の中と外とで翌日の準備、点検などを行っていた。

 そのさなか、村道に面した癸神社の鳥居の前に、一台の大型バスが止まった。そうして、バスの中から、いかにも旅行者といった、色とりどりの派手な身なりの人々が次々と降り立った。男性も女性も、しっかりと整髪し、厚い化粧をした女性が多かった。準備中の男どもは、ただ呆気にとられて、ぽかんと口を開けて見ているだけだった。

 バスを降りた人たちは、まず空を仰ぎ、ほとんど例外なく意味の分からない歓声を上げた。次に大きく伸びをし、深呼吸のような動作をした。それから高い声、よく回る口で互いにしゃべり、さかんに写真を撮った。

 そのうち、いくつかのまとまりになって、思い思いの方向に散っていった。だが、この集落に、観光でやってきた人たちを楽しませるものなど、あろうはずもない。結局、集落の男どもが準備作業をしている神社の庭に、バスの客の多くが集まってくる結果となった。そうしてそばに寄ってきては、あれこれと話しかけた。「カマイタチ」について尋ねる人が多かった。集落の男どもとしては、作業をはかどらせたいし、何よりも、カマイタチさまの話は禁忌である。なるべく話が長引かないような受け答えをしていた。

 突然、社殿の北側の崖の方から、複数の人の悲鳴とも絶叫ともつかない声が上がった。同時に男一人と、女二人が、神社の裏手から逃げるように走り出てきた。いずれも、押さえている部分に傷を負ったらしく、それぞれ手ぬぐいやハンカチをかぶせて押さえている。顔色は青ざめて、唇を震わせていて、何か言おうとしているが、声にならない。

 祭りの準備をしていた男どもは、すぐにカマイタチだと察したが、彼等にできることと言えば、神社の軒下に座らせて落ち着かせ、気持ちを静めてやることだけだ。

 男性が額に、女性の一人が頬に、もう一人の女性が手首に傷を負っているようだったが、バスの添乗員の女性が有能で、ガイドの女性とともに、手際よく適切な処置を行った。負傷した三人のうち二人は、顔に大判の傷テープを何枚も貼り付けられ、一人は手を包帯でぐるぐると巻き付けられて、痛々しくも仰々しい姿になった。

 ほかの者たちも、青ざめた顔をして、心配そうにのぞき込んでいた。バスは全員の乗車を確認すると、逃げるようにその場を後にしたが、どこへ向かったかなど、その後のことは分からない。

 ただ慣例によって、この年の祭りは中止となるので、準備作業をしていた男女は、せっかく持ち出した材木やら煮炊きの用具やらを、無言で片付け始めた。苦労して組んだ舞台も、解体することになる。用意されていた食品類は、適当に分配される。

 この出来事は、後に「鎌風の吹く村」として、テレビ局が大々的に報じたので、癸集落が、今後どのような影響を受けるか、甚だ懸念されるところだ。                      (完)     

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   第三話   触診

              

 大隈諭吉氏は、優れた指圧師である。まぶたは開いているが、生まれつきの視覚障害で、日の光を見たことはない。すでに廃業してから三年が経つが、本人自身は、引退後の年月を、あらずもがなの日々と呼んでいる。それだけ自らの職分に対して思い入れが深く、また真理を探究する気持ちの強い人である。

 彼は、原因不明の痛み苦しみに悩まされている人に対して、彼なりの仕方で懇切に向き合い、確実に療治効果を上げるので、腕の良い術者として知られていた。施術を受けに来る人々、つまり来院者を彼は【苦患者くげんしゃ】と呼んだ。苦患者に対しては、その訴えるところをよく聞き、独自の分析を加えて、症状の軽快に導いた。そして、普段の養生や生活習慣についても、的確な示唆を与えた。逆に、愁訴ばかりを言い立てて、自らの不摂生や我欲追求に、いささかの自省の気持ちも示さない者に対しては、ゆかにも天井にも響くような声で厳しく諫めることもあった。それは多分、禅僧の一喝に似ていたかもしれない。

 そのようにして、五十有余年が過ぎたのであるが、その間、大隈氏の治療院は、来院者の途切れる間がなかった。施術料が安かったことにもよるかもしれない。それでも、料金を踏み倒されたことが、十回や二十回ではない。

 妻女は晴眼であって、彼の施術を受けた縁で結ばれた人である。大隈氏のよき理解者であり、協力者である。一男一女があり、息子は医師、娘は教師になっている。

 施術をとおして彼は、人の身体にじかに触れるものにしか得られない、様々の知見を獲得し蓄積した。彼が指圧を施した何千人という人々について、頭の中にカルテと同様のものを作り、また積極的に医学や心理学などの知識や情報を得ることを心掛けていた。

 彼は四十代のころから刑務所に申し入れて、ほぼ月に一度、更生支援と慰問を兼ねた療治活動を行った。同所の了解と係官の同室のもとで、重大犯罪の受刑者にも接し、心を込めて彼らの心身を正位に戻すことに努め、かつ慰撫した。それを、引退の間際まで、三十年近くも続けたのである。

 そのことがどこでどう知られたものか、いつのころからか、前歴のある者や、いわゆる裏の世界の人間の来院が、少しずつ増えていった。そうした者たちからは、時として、一般の人の話とはまた一味違った、意外な言葉を聞くことが度々あった。

 「一度 人をると、怖いものが無くなる。不思議と死ぬのが怖くなくなるんだ。自分のやったことは、いつかは、自分もやられなきゃそろばんが合わねぇっていう仕組みが、体の中のどっかにあるのかもしれねぇねぇ・・・」

 「組に入ってくる人間の中に、ほんとに度胸のある奴なんか一人もいねぇんだ。実は精神病だったり、対人恐怖症だったり、言語障害だったりよ ・・・。見かけじゃ全くわからねぇんだけどね・・・」

 「裏の世界の人間は、例外なく女が好きだ。女はか弱いものっていうけれど、男は女なしでは生きられねぇ。面白いと思わねぇかい。世の中は、女で成り立ってるんじゃねぇかな。女と一緒にいることで、オレらも、なんとか世間で生きていけるってことかもしれねぇ・・ 」

 ひと口に、悪人とは言うけれど、実にいろいろな人間がいるものだ、と大隈氏は思ってしまう。直接 身体に触れられ、苦痛を除かれ、快感とリラックスを与えられることで、親近感を抱き、普段は口にしないようなことでも、彼に対しては、聞かせたくなるのであろう。大隈氏の知識や見聞の中には、そのようにして得たものが少なくなかった。そうしていつしか、独自の仮設のようなものが一つ一つ形成されていった。

 内心に気がかりや隠し事を抱える人は、脈が速くなりやすい。

 わがままな人間は、施術に対して、大げさな反応をする。

 弧独を抱えている来院者は、施術中によくしゃべる。

 肌のきめの細かい人は、療治の効果が表れやすい。

 その他、疣や体毛、腫れもののあと等々についても、独自の分類があって、それらすべてを男女別、部位別、愁訴別、年齢別、季節別など、詳細に文章化すれば、一冊の本になる。そればかりではない。来院者の骨格や肉質、素肌の感触、施術の結果などから、多くのことが分かるようになっていた。それらのうち、彼の中でとりわけ不思議であり、気になる一つの経験則があった。

 それは、『殺人などの、何か重大な罪を犯した者には、必ず、背中に一か所、得体の知れない微妙な「しこり」ともいうべきものが現れる。しこりといっても、誰にでも感じ取れるようなものではない。大きさ二~三センチだが、形は人によって異なり、高さはニ~ミリメートルにも満たない。それは、その人物が入獄前、服役中、刑期終了後のいずれであっても、確認することができる。一般の人に現れることはない』というものである。

 しかしこれは、彼がその種の人間たちと多く接する中で獲得した、彼独自の仮設に過ぎない。彼自身、体系的にまとめられる自信まではなかった。しかし、同種の来院者を扱うたびに、その仮説は、確信に近いものとなっていった。

 治療院の受付は、妻女が受け持っていた。妻女は、諭吉氏の方針に従って、来院者を三つのグループに分けていた。一つは来つけの来院者、いわば、おなじみさんである。つぎに、名前や住所、電話などを聞いて登録カードを作るべき人。これは、普通の来院者で、初診の人である。三つめは、名前や住所を聞かれたくない種類の人間である。この種類も時々来る。その場合は、直接 施術室に通して、諭吉氏に対応してもらうことになっていた。

 そんなある日、五十代と見える一人のやせ細った男が、彼の治療院を訪れた。妻女は、男を見るなり「そのままどうぞ」と言った。十年か、あるいは二十年近くにもなろうか、この男は一度、来院したことがあり、妻女はその時の風貌を記憶していたのである。大隈氏が忘れているはずがない。男は、骨ばった腕をさすりながら、施術室に入った。大隈氏が先に声をかけた。

 「ずいぶん久しぶりだったじゃないか」

 「最近出てきたばかりだからよ」

 男は、悪びれることもなくそう言いながら、大隈氏の前の椅子に腰を下ろした。背中全体が、凝って痛い、と言う。

 大隈氏は、上半身の衣類を脱ぐように指示し、低い施術台にうつ伏せに横たわらせて、さりげなく触診をしていくと、案の定、背中のほぼ中央、左下あたりに、確かに周囲と感触の異なるモノの存在を認めた。しかしそれは、指圧師なら誰でも感知できるというようなものではない。外傷のあととは、全く異なる。極めて微妙な異物感であり、大隈氏が男の背中を静かに、しなやかにならしていく中で、かすかに彼の親指の腹が感じるのである。この男の場合、形はソラマメ型であった。腫れ物のようにかたくはなく、形は人によって違っていた。

 試みに、そこへほんの少し力を加えてみると、ビクッとからだ全体が反応する。さらに圧し続けると、「ウウウ」と、絞り出すような呻き声をもらす。「いたいか」と聞くと、何度も頭を横に振りながら、「いたくはねぇが、息が詰まるようだ」とこたえる。

 こうしたやり取りは、副沢氏にとって一度や二度ではなかった。刑務所内において、また自らの治療院で少なくとも三十件、これと似たようなことがあった。だが、この ❝しこりのようなもの❞ の正体は何なのか。どんな過程を経て形成されていくのか。それが分からない。生来のものである可能性もある。だが、そうだとすれば、それはそれでまた、別の大きな問題である。

 しかし彼は、人間を確証もなく疑ってかかることにもなるので、そのことに固執するのはよくないと思った。結局このことは、彼の心の奥深くにしまい込まれることになったのである。

 八十歳が間近に迫ってきたころ、彼の頭の中に、「閉院」という言葉が浮かぶようになった。体は健康そのもので、まだ妻女と同衾することもあるくらいだったが、手指の感覚に自信が持てなくなってきたのである。あらためて、自分の指を、自ら子細に「触診」してみる。どうやら、指紋の筋が大分 薄くなっている。これではツボの位置さえ正確に定めがたく、苦患者の訴えにも効果的な対応をすることができない。

 妻女ともよくよく話し合って、三か月後の閉院を決め、張り紙も出した。閉院まであと数日という日のことである。あたかもかれの「仮説」を実証するかのようなことが起きた。

 三十代と見える一人の男が、大隈氏の治療院に現れた。初めての来院者である。受付の妻女が、男の様子から「そのまま中へどうぞ」と言った。それは諭吉氏に聞こえている。

 男は落ち着きなく施術室に入って、諭吉氏の前の椅子に座った。何もない壁や天井へ、そして窓の外へしきりに視線を飛ばしている。諭吉氏は、男の落ち着きのなさ、そして全身から発する、匂いともつかない独特の気配を、はっきりと感じ取っていた。男は言った。

 「何だかしらねぇが、背中が痛くてたまらねぇんだ」

 男に上半身の衣類を脱がせ、施術台にうつ伏せにさせて、さりげなく探ってみる。すると、右の肩甲骨の下あたりに微妙に感じるものがある。諭吉氏は、長い息を吐いて手を止めた。この男が、彼の❝仮説❞のとおり、すでに重大な事件に手を染めてしまっているのではないかという思いが頭をかすめたからである。断定などできないことは言うまでもないが、彼には相応の自信があった。

 彼は、その部位に手を止めて、しばらくの間、黙っていた。そうして、「フーーーン」と、長くうなるような声を発した。男が言った。

 「なんか、やばいことでもあるのか」

 諭吉氏は、ゆっくりとした口調で言った。

 「最近、何か、でっかいことを、やったのかな?」

 すると男はひじょうに驚いたような様子で、起き上がりそうにしながら言った。

 「な、なんだ、でっかいことって」

 諭吉氏が男の背中に手を置いたまま、またゆっくりとした口調で言った。

 「そうだな、普通の人なら、まず、やらないことかな」

 男の脈が急に速く拍ち出したのが分かった。そして筋肉がこわばり、わずかに汗ばんでくるのが、諭吉氏の手指に伝わってきた。

 とつぜん諭吉氏が大声で言った。

 「たとえばだ、危険なジューキとか、アブナい道具を使うとかだよ」

 すると男は、何かに弾き飛ばされたように起き上がると、脱いだ服も取り落とさんばかりに慌てふためいて、扉を突き破る勢いで走り去った。

 男が何者であったかは、分からない。


 大隈氏は引退後も、指圧師が主催する研修会に講師として招かれる。若い後輩たちを中心に、二百名を超える参加者を前にして、様々な体験を披露する。しかし、例の閉院前の出来事については、結局 何も語らなかった。ただ最後にこう締めくくった。

 「手で触れて初めて分かることが、ありますな。目で見たり、いろいろな機器や薬剤を使った検査だけでは、絶対に判らないこと、さわってこそ判ることというのが無限にありますな」

 桑茶色の眼鏡の奥で、大隈氏の角膜が鋭い光を放っていた。                (完)

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   第四話   常夜灯の家

                 

 あるテレビ局が、人口減の自治体を日本地図上に赤く色づけして見せたことがあった。それは衝撃的なものだった。ただ日本列島を赤く塗りつぶしただけの地図のように見えたからである。

 それもそのはずだ。色付けされていないところがどこにあるのか、一目見ただけでは分からない。よくよく見れば、なるほど五か所か六か所、確かに赤く塗られていないところがあるが、面積としては異常に小さく、白い粒か点のようにしか見えない。言うまでもなく、そこが大都市である。全体の赤い色にかき消されて、列島全体が、すべて赤いように見えたのであった。この話には、そうした世の中の実態が背景にある。


 ここみずのえ村も過疎化の例にもれなかった。昔から農業中心の村というだけで、特記すべきことはない。中心部に、いくつかの店があるが、ほんの数百メートルも離れれば、殺伐とした田園地帯が広がる。

 田んぼの中を、巾が六~七メートルの川が流れていた。川というには小さく、小川というには大きい。それはくねくねと曲がりながら、この村を南北に分断していた。というのは、地図上で分かりやすい境界線の役目をしていただけでなく、不動産としての価値、下水処理などの行政上の扱いなどにおいて、川の南側と北側との間に、大きな較差があったのである。北の価値は、南の半分と言われていた。

 川には、農業上の必要と洪水対策のために、水門が設けてあった。一定以上の降水があった場合には、水をより多く下流に落とす必要があった。田植え時には、上流と下流の均衡を保つ必要があった。

 水門の北側に一軒の家があった。この家は、他の家と同様に農家ではあったが、周辺とは絶縁状態になっていた。

 それについてはいくつか、原因と考えられることがある。まず、最も自然な事情として、この家はまさしく一軒家で、どの家とも数百メートルの隔たりがあって、お隣と言えるような家がなかった。

 また、この家自体にも、そうした結果を招く一面があった。住人は七十を過ぎた夫婦で、子供はおらず、すでに農業からは退いた状態で、積極的に土地の者と関わろうという気持ちがなかった。

 また、この土地の特性にも、孤立状態の家を生み出しやすい側面があった。昔からの仕来たりばかりを多く残し、面倒なことが多々あったのである。

 そもそも、村内の場所の呼び方が特殊だった。本来ならば、正規の行政区画にしたがって、どこでも「壬村、大字○○、字✕✕、△▢番地」と呼ぶのが普通だ。ところが多くの住民は、古くからの地割と地名を用いて暮らしていた。最小単位として、五~六軒の農家をまとめて「耕地」と呼んだ。「〇耕地」、「✕耕地」というわけである。耕地は便宜的にまとめられて「班」となり、隣接する二~三の班は「区」を構成し、区の集合体が「村」という割付けである。

 村の長は村長であり、区の長は区長、斑の長は班長と呼ばれ、最小単位の耕地の代表を年番と呼んだ。年番は、寄り合いを開き、農事に関する情報交換の場を設けた。それはどの家にも、何年かに一度は確実に回ってくるわけだが、どの家も、その番が回ってくることを、嫌がっているというのが実情だった。

 また、冠婚葬祭を大仰に行う風があった。家格によっては、斑の枠をこえて、より範囲の広い区内の家々にまで、祝意弔意を暗に強要することもあった。冠婚葬祭といえば、文字としては四つだが、祝ったり弔ったりする側から言えば、百貫千貫の負担であり、「患困騒災だ」と言った者さえいるほどだ。

実にうまい当て字であるが、そこから抜け出せない悔しさがうかがえる。

 出産にしても、いつどの家で子供が生まれないとも限らない。また、新築増築となれば大変だった。建てようとしている物が母屋ならずとも、たとえ物置であろうと隠居部屋であろうと、「建て前」と呼ばれる行事を行う必要があった。建物の骨組みが出来上がったところで、その高いところから、建築主や棟梁などが、菓子や銭をつつんだ「おひねり」をばらまき、近くの村人や子供らに受け取ってもらう。たくさんの人が集まるほど、縁起が良いとされた。その後、建て主は地区のおもだった人を招いて供応をする。どの家を招待すべきかは、慣例で決まっていた。宴席には、極上の酒を出す。また、料理がふんだんに出されれば、客人たちの機嫌はよい。それにかかる出費は、一切合切、建て主が負担した。そのほか、実にこまごまとした仕来たり、決まりがあった。地縁社会の特徴をよく具現していたといえよう。

 しかし、そうした慣習を、それぞれに思うところはありながらも、守り伝えてきた村人の側からすれば、一軒家の住人はへそ曲がりとも、横紙破りとも見えたであろう。それで、中には悪口を言う者もいたのである。

 「あんなところへ、いつまでもよくへいきですんでいられるもんだなや。いつなにがおきようども、わいらにはかかわりねぇこった」 

 そのようにして、日が経つにつれて、その家も住人も地区の者たちの意識から遠ざかり、存在さえ忘れ去られたようになっていった。会うことも話すこともないとなれば、自然な結果だったと言えるかもしれない。


 川の両岸の堤は簡易舗装が施されて、南側堤は、軽自動車がやっと通れる道になっていたが、水門の近くを通る車も人も。ひじょうにまれだった。理由は、一言で表現すれば、その場所は見ただけでも危険で、不気味な雰囲気が漂っていたからである。

 田植えどき以外は、水門の上流側の水が、道路面を超えて溢れてきそうなほどの水位になる。一方、下流側の底が見えるので、その落差から小さい川であるにもかかわらず、川底は相当に深いことが想像された。絶えず、高い水圧で押し出される水の音がして、それはときに轟音ともいえるもの凄さだった。しかも、水門の南側一帯は、一面のすすきの原になっていた。人を寄せ付けない空気が備わっていたのである。どの家でも、子どもには、水門に近づくことを厳に禁じていた。そして日が経ち、時が流れるにつれて、水門の一軒家は空き家だと思われるようなったのである。


 いつの頃からか、妙な噂が流れるようになった。「あの空き家には、いつも小さな灯明だけが、戸の隙間から、ちらっと見えるが、消えたためしがない」というのである。

 初めは、一部の中学生の間での話に過ぎなかった。小さな灯明というからには、ある程度暗くなってからでなければ気づかない。おそらく学校帰りに、友達の家か、お店に寄るかして遅くなり、近道をしようとして、この道を通った中学生が言い出したものであろう。日は落ちているけれども、まだ輪郭の分かる空き家に、ぽつんと小さな光だけが垣間見えるとすれば、不審と感じるのは自然なことかもしれない。

 ごくたまに、この道を使うことのある中学生が、休日で居間に居合わせた父と母に話しかけた。

 「学校でな、友達がな、水門の下の一軒家は空き家じゃに、なしていつもちっけな明りばついとるかの と言いよった。おいも何度か見た。うす暗くなってから通れば、ほかの明かりはついとらんに、ちっけなのだけついとるは、なんとしたこつかな」

 父親と母親は、「なん」と言って、互いに顔を見合わせた。村の暮らしは変化に乏しい。葬式か火事でもなければ、話題というほどの話題はない。二人は強く興味をひかれた。だが、この辺りの人は、多弁を良しとしない。ただ、「学校帰げえりに、あっちゃこっちゃするもんでねぇ」と言ったきりだった。

 だが次の日の昼過ぎ、父親は、妻に「ちょっと … 」とだけ言い残して外出した。妻は、夫がどんな用向きで出かけるのか、おおむね理解していた。父親が向かったのは、先輩格でこの年の年番の農家のところである。思いをつつみかねて早口に言った。

 「水門の下の家はよ、どげになりよってるがかの」

 「あいや、何のこつかと思えば、あん家のこつか。空き家じゃろうが。なしておれに聞くげか」

 「いやさ、いま誰も住んどらんに、ただ年中、こまぁい明りばついとぉ言うもんがありよるで」

 「誰が言う」

 「だれいうこんもねぇがし」

 「 ・・・」

 年番の表情が変わった。

 「ほんのごっとすりゃ、今どきのこととも思えん話じゃの。おんめさ、これは、はや誰ぞに話したがか」

 「いんにゃあ、はなしとらん」

 「なれば、一刻もはよう誰ぞに相談せずばなるみゃあぞ。年番のオレの手に負えることとも思わんねえ。班長様か区長様にご注進せずばなるみゃあ。されど、どっちにしたもんかなや」

 「これは、区長様でねぇければ、納められめぇかと … 」

 二人はなぜかこっそりと、誰にも何も告げずに、しかし急いで北にニキロほどの区長宅に向かった。

 区長は還暦を過ぎていて、手持無沙汰な日々を送っていた。子どもらはみな成人し、孫もいるが、都会で暮らしていて、さっぱり顔も見せない。妻は多趣味で、踊りだ、お花だ、パッチ何とかだと言って、しょっちゅう出かける。

 二人は区長に対して、いかにも仔細ありげな調子で報告した。区長は言った。

 「わしは、村長様から区長の役をたてまつってる身じゃからして、斑のこつも耕地のこつも、ないがしろにしてはなんねぇと思うが、おんめさらどう思わする」

 「そりゃもう、そりゃあ」

 三人の思いは一致していた。つまり、今すぐにでも様子を見に行きたいと思ったのである。少年時代の、探偵ごっこの心が呼び覚まされたと言ってよいかもしれない。しかし一人前の大人である。自ずと逡巡の気持ちが湧いた。それに、そもそもその家について、三人が三人とも、何も知らない。空き家のはずではあるが、実地に確かめたこともなければ、そう断言するのを聞いたこともない。

 ひょっとして人が出てきて、用件を聞かれたりしたらどうする。空き家だったとしても、実情はどうなっているのか。灯明と言うけれども、本当のところは何なのか。考えるときりがない。どうでもいいような気がするし、たしかめたいような気もする。自分らが何らかの損害をこうむるのも避けたい。三人の談合は、すぐには終わらなかった。

 しかし三人は決断した。とにもかくにも、この際、真実を確かめるべきだ。万が一、人がいたとしても、他家と交流がない家だ。区長の肩書をちらつかせれば、なんとでも言い訳が立つだろうということになったのである。三人が、区長宅を出たのは、午後五時に近かった。冬の日はすでに落ちている。区長は懐中電灯、年番はなぜか草刈り鎌、中学生の父親はスコップを握っていた。

 辺りに気を配りながら、水門の下の一軒家に近づき、十メートルほどのところまで来ると、歩みをゆるめて家全体をくまなく見まわした。そうしてまるで盗人か、獲物に忍び寄る捕食者のように姿勢を低くして、家の南面の真ん中あたりまで来た。

 南側は小さいけれども深い川である。そして家の側、つまり農地の側は急斜面になっている。うっかりすると、高さ二メートル程を滑って、その家の庭先へ転げ落ちる恐れがある。

 三人は、路面にしゃがみこんだ。すると、目線がこの家の一階の天井とほぼ同じ高さになる。家は横長の二階建てで、川と平行に建っている。三人のいる道からは、数メートルほど北に退いている。この家にとっては堤が高いので、日照を得るためには、その程度の幅が必要だったのであろう。懐中電灯を使用しなくても、枯れ草が一面を覆っているのが分かった。

 やっぱり空き家だ、とそのとき三人は思った。道の方からしゃがんで見る限り、カーテンが引かれ、雨戸も全部閉め切ってある。無論、中の様子は分からない。だが、少しずつ移動しながらよく見ると、なんと、中学生の話のとおり、確かに、下の階の雨戸と雨戸の隙間から、一点の、ごく小さな光がともっているのが分かる。中ほどの部屋の、天井に近い位置と見える。

 これ以上確かめるなら、訪ねてみる以外にない。二十メートルほど下流に行って、耕地に下りる細い道から、畔道を戻る。そうすると、この家の玄関に突き当たるような形になっている。

 三人が建物の正面に立った。すると区長は、大きく息を吸ってから中に向かって、呼び掛けた。

 「おばんでがすう」

 なぜかいつもの声と違っている。三人は、全神経を集中した。しかし中からは何の応答もない。「やっぱり」という表情で三人は顔を見合わせた。寸時ののち、今度は先輩格が素っ頓狂な声で呼びかけた。

 「ほんにま、よおかおばんでがあああんす」

 だが物音ひとつしない。

 すると中学生の父親が、ほかの二人を飛び上がらせるような大声で叫んだ。

 「もうしも。区長さんがおいでなすってやすでえ」

 何の変化もない。三人はまた顔を見合わせた。そうして無言でうなずき合った。空き家であることを共に確認し、次の行動に移るという合図である。

 三人は、南側、つまり堤と建物にはさまれた、草深い庭へと回り込んだ。するともう、この三人は、この世から消えたようになる。川の高い堤と、この建物自体が目隠しとなって、ほぼ完全に彼らの姿を隠すのだ。

 三人は、少し大胆になってきた。まず、小さな明りのもれている部屋のあたりへと進んだ。狭い隙間から見ると、確かに部屋の高い位置で、小さな明りがともっているのが分かる。

 三人が、ここで引き返していれば何事もなかったであろう。だが三人にその気はなかった。明りの正体を確かめないではいられなくなっていた。

 家の南側の庭の方からは、中に入る方法がなかった。それで今度は西側に回り込んだ。建物から一メートルばかり離して、ニッコウヒバのような、枝葉の密な針葉樹が七~八本植えてある。西風対策であろう。姿勢を低くしながら、建物と針葉樹の間を進むと、掃き出し口があった。縦が三十センチ弱、横が二枚合わせて一メートル弱の、左右にひき違える種類の小さな板扉いたとびらである。

 懐中電灯は使わなかった。遠目にでも気づかれたくないと思ったからである。スコップを扉の端に差し込むと、長い間固着していたものがほんの少しだけ動くときの、ガリッという音がした。すかさずさらに差し込もうとしたが、それ以上は容易に動かなかった。それで、スコップを先端だけ差したまま、持ち手の端をヒバの枝に渡し、二人が、思い切りスコップに体重をかけて寄りかかるようにして押した。すると、梃子の力でズズズズズという音とともに扉が開いた。この小さな掃き出し口は、施錠しないままだったとみえる。

 時刻は、夕の六時を回っている。中腰で中をうかがうが、真っ暗で何も見えない。あの明りはどの部屋なのか。長靴を脱いで、掃き出し口から順に、にじるように入り込むと、すぐに強い臭気に襲われた。三人が入りきったところで、懐中電灯をつけた。

 案の定、人けは全くない。天井、壁、床、家財道具などに異常はない。三人の❝探求心❞は、いっそう掻き立てられた。そうして隣の部屋に通じるふすまを開けて懐中電灯をつけた。その瞬間である。三人は、押し殺したような、叫びのような奇声を発し、もとのにじり口から我先に外に出ようとした。

 それもそのはずである。懐中電灯が照らし出したものは、掛布団から、顔と首をのぞかせた、女性らしい人間の遺体だったからである。

 

 三人は外に出るとすぐに掃き出し口を閉めた。そうして暗がりの中で、ただただ互いの顔を見合った。言葉が出なかったのである。それぞれ他者の長靴を履き違えていたが、気づいている者はいなかった。

 ややあって、区長が呼吸も整わないまま、唇を震わせながら口を開いた。

 「こんげなこつになろうとは思わなんだが、それもこれもおのれが不徳のいたすところじゃ。かくなったるうえは、今からじんじょうに警察にシットーして、包み隠しなく申しあぎゅう思うが …… 」

 言われた二人に、返す言葉はなかった。そうして、すっかり暗くなった三キロの道のりを、警察署に向かって歩いて行った。来た時と同じように、ひとりは懐中電灯を、ひとりは草刈り鎌を、そうしてもう一人はスコップを握りしめていた。


 三人は、深夜にまで及ぶ事情聴取を受けた。そうして翌日から朝八時に警察に出頭、夜の八時までとどめ置かれるという状態が、五日間にわたった。係官が入れ替わり立ち代わりし、一人が取り調べを受けていれば、他の二人は留置所にとどめ置かれた。しかし、最終的に、三人とも起訴されるには至らなかった。

 地方新聞は、孤独死という視点で、この事件をとり上げた。記事は伝えた。 

『遺体はこの家の主婦、七十四歳、就寝中の突然死とみられる。病名は不明。死後三~五か月。夫は、この辺りの言葉で「阿呆病」というやまいを患っており、隣町の施設で完全介護を受けている。妻の死を理解しない状態という』。そうしてさらに付け加えた。『親切な三人の村人の、隣人を思いやる気持ちが、死者の発見につながった。小さな明りが、大きな役割を果たした』と書いた。

 つまり、仔細ありげに言われたものは、実は、天井から吊り下げるタイプの照明器に付属している小電球、ただの夜間灯だったのである。                            (完)

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   第五話  なた                                                                                

              

 李徴りちょうという名の男のはなしをご存じであろうか。人としての心を失い、ついに自ら虎の姿に変身するにいたった、あの男のことだ。彼は、自分が虎になってしまったことに気づいたとき、はじめ、夢ではないかと思ったと言っている。当然だろう。だがどうしても夢ではないと悟らねばならなくなって、茫然とする。そうしておそれる。「まったく、どんなことでも起こり得るのだと思って深く懼れた」と語っている。

 そうだ。どんなことでも起こり得るのだ。そういえば、明治といっていた時代の末ごろ、一匹の猫がしゃべりにしゃべったことがあった。そうして、それを書き取った文章は、物珍しさの上に、高踏的な格調をそなえていたせいかどうかは知らないが、世間から高い評価を受け、結果、その書き手は、のちに文豪の名をほしいままにすることとなったのである。だから今、たとえば一丁の鉈がしゃべりだしたところで、さして驚くにはあたるまい。

 これからひとくさり、いささか物騒な物語をする者は、一丁の鉈、すなわちこのオレだ。世間では一般に、腰鉈と呼びならわしている。

 外見は、切り刃と口金と樫の木のとでできている。口金をさかいに、全体が若干 彎曲わんきょくしているが、おおむね直線状。刃渡り十八センチ、柄と口金とで十七センチ、合わせて全長三十五センチといったところだ。幅は、手元近く(アゴと呼ばれる)で四センチ、先端部で約四センチ五ミリ、棟(日本刀のミネにあたる。刃の反対側)の厚みは、約六ミリ。重量 約七百五十グラム。切り刃は両刃である。切れ味は世間から定評を得ている。作者名も刻まれている。

 だがそれ以上のことは言えない。なぜならこのオレが、重大な事件で凶器として使われてしまったためだ。これ以上のことを言えば、オレがどこでどのような人たちによって製造されたかが明らかになる。すると、いずれ世間に知れ渡る。そうなれば、何の罪科つみとがもない職人たちに、そして仲間の鉈たちにも、どれほどの迷惑がかかるかわからない。

 いまオレは、警察署の証拠品保管庫の中で、平穏な日々を送っている。絶えずフォルマリンのにおいが立ち込めているが、もう気にならなくなった。人間の血のにおいに比べれば、むしろすがすがしくさえ感じるのだ。

 オレはしょせん鉄の塊に過ぎないが、鉄にも鉄の気遣いというものがある。そこでオレとしては、この話が、一部、読む人を不快にさせる可能性があるかもしれないことを、あらかじめ断っておきたい。


 今思えば、オレは、生まれた時から、つまり、ある田舎の工場で作り上げられたその時から、妙に、人の危難や災難に付きまとわれていた。その初めは、オレが作られる工程の、仕上げに近い段階でのことだ。ほかの数丁と一緒に浅い板箱に入れられて、最終段階の作業台へと移される途中、運んでいた職人が金敷に足をぶつけてよろめいた。彼は咄嗟とっさに身をよじって、板箱の平衡を保とうとした。何とか事なきを得そうに見えたが、なぜかオレ一本だけが板箱の三センチほどのヘリを超えて滑り落ちた。世の中に、運不運というものは確かにある。こともあろうにオレはこの職人の足の上に落ちた。それも、落ち方がひじょうに悪かった。切り刃の側を下にし、刃先を先頭にした格好で、彼の左足小指の付け根にあたった。彼は、紺色の足袋に雪駄を履いていたが、見る見るうちに、足袋の小指のあたりが変色していき、雪駄の端が赤く染まりだして、ひどく出血していることが誰の目にも分かった。

 彼は、その年の春、工房に入ってきたばかりの若者で、作業前の準備、材料運び、清掃、工具の移動など、職人を補助するのが主務で、まだ本格的な仕事はしていなかった。世に言う研修期間中だった。職人用の履物を履いていなかったのはそのためだが、労務管理上、問題があるとすれば、いずれ責任者はその筋から追及を受けることになるだろう。

 それはそれとして、異変に気付いた年配の職人が、すぐに彼を横にさせ、足首を手拭いできつく縛り、二つ折りにした座布団を足の下にあてがって高くし、中堅の職人一人を付き添いにつけて、救急車で病院に運んだ。

 怪我の程度は、思いのほかに重かった。小指がほとんど切れ落ちそうな状態で、薬指側の皮膚で辛うじて足につながっているという、大変な重傷だった。彼は三週間 入院し、工場を辞めたが、足の小指を失うことにならなかったのは、不幸中の幸いだったと言えるだろう。

 それにしても、人間の体のヤワなのには驚いた。そして、その血の生暖かさ、においの生臭さには心底しんそこ 閉口した。二度とこんな経験はしたくない。しかしおかげで(というと不謹慎だが)、オレ自身には刃こぼれ一つなく、全くの無傷だったので、ほかの仲間と一緒に最後の工程である柄付けを施され、事故の数日後には、広い世間に向けてあらためて流通の途に就いたのである。

 ところが、本来なら祝われるべき出発早々での出来事だ。オレたちを運んでいたトラックが、高速道路上で大きな事故に巻き込まれた。何がどうなったのかわからなかったが、とにかくオレたちは一瞬にして、かなり遠くまで飛ばされ、道路の のり面にたたきつけられていた。

 だが、オレたち自身には何の損傷もなかった。それは、オレたちが実に念入りに梱包されていたからだ。梱包には、横長の板箱が使用される。横六十センチ、縦はオレたちがほぼぴったり入る長さ、深さは七~八センチもあろうか。箱の中には、鉋屑かんなくずに似た緩衝材が、隙間なく敷き詰められている。

 オレたち自身はというと、刀身にあたる部分を、一本一本油紙で包まれ、さらに全身を合成樹脂シートでくるまれ、緩衝材の中に、向きを互い違いにして隙間なく並べられる。一箱に十本。オレたちの上に、また緩衝材をこれでもかというほどに詰め込む。当然、オレたちの姿はほとんど見えなくなる。そうして上から板の蓋を載せて二十本のスクリュー釘でしっかり止める。葬式の「釘打ち」の儀式と同じ要領だ。オレたち同士が中で触れ合うことなど、絶対にない。職人たちの念の入れようときたら、まさに敬服の極みだ。

 間もなく人の声がし始める。悲鳴やら絶叫やらうめき声やら、阿鼻叫喚そのものだ。そして強烈な鉱油系のにおいと焦げ臭さが広がってくる。火災が起きているのだろう。それらに混じって、例の、人間の血のにおいが地を這って漂ってくる。ピーポー音が聞こえる。大事故であることは間違いない。

 般若心経は、人間に対して「無眼耳鼻舌身意」と説いている。オレたち無機物に眼というものはないが、それ以外の感覚、知覚はある。しかもその感度は、人間ほど鈍くはない。だから、物事の要点は、人間以上によく理解できているのだ。

 このことは、よく頭に入れておいてもらいたい。

 この事故で道路は通行止め、大変な混乱状態となった。何人もの警察官と消防士の怒鳴り声が飛び交っている。救急搬送の手配、滞留している車の整理、証拠写真の撮影、計測、記録、そして危険ごみと化した車両の残骸を重機で移動する。散らばった品物や破片を回収する。オレたちはと言えば、それらの回収物と一緒に、一旦、近くのインターチェンジのスペースに移された。そうして次の日の夜には、工房の職人二人が車で迎えに来て、オレたちを引き取った。帰属すべき所有者の判明したものは、引き取りを求められたのであろう。結局オレたちは、最初にいた場所つまり田舎の作業場に戻っていたのである。

 その後は、工房の片隅に放置されたようになっていたが、十日ほどたったとき、オレたちは元の梱包を解かれ、十丁ひと組だったものが二丁、三丁、五丁の各組に分けられ、それぞれ、より簡便に包装しなおされて、また順次、別々に配送されていった。オレたちのように、いわば訳ありとなった製品は、通常とは異なる流通のルートが、また別にあるのだ。オレは、もう一本の鉈と一緒に二本一組となってトラックに乗せられ、ほかの商品どもと一緒にずいぶんと遠い北の地まで運ばれた。着いたのは、全体としてひっそりとした町だ。気温がかなり低い。

 トラックから降ろされたのは、この町に一軒だけの小さな金物屋だった。店の中がひんやりとしている。客の多い店という感じはしない。土地柄か、農業用の金物がやたらと多い。オレたち刃物は、床に近い一番下の段に置かれた。近くには、おのと呼ばれる柄の長いやつ、のこぎり、木ばさみなど、鋭い刃のついた品物たちがいた。それにしても、オレたち二本の鉈に対して、普通に売られるときの半額ほどの値札がつけられたのには、正直、がっかりしてしまった。


 この地方の桜は、開花が遅い。蕾さえまだ固く締まった四月の初めごろ、オレに買い手がついた。やや都会的なにおいを残した、異様なほどにやせ細った、かなり高齢の男性だった。意外というより、驚きを禁じ得なかった。その身体で、どんな使い方をするのかと思ったのだ。じっと見て、しばらく手に持って使い勝手を確かめていたから、頼まれて買いに来たとも思われない。

 買われたオレは、すぐに持ってきた木綿の手ぬぐいでぐるぐると巻かれ、頭陀袋のようなものに入れられて、彼の家に持ち帰られた。そうして、玄関先の下駄箱の天板の上にそっと横たえられた。ほかに置かれている物はなかった。

 そんなわけでこの老人は、オレにとって最も近しい、というより、完成した鉈としてのオレに手を触れた最初の人間、ということになった。

 老人と言ったが、正確には七十歳であることが後で分かった。そのころ、この国では著しく寿命が延びた結果、七十では、老人とは言えないという人がいるほどだった。それより高齢に見えたのは、彼が健康体でなかったからかもしれない。そこで彼を老人とは言わずに、N氏と名付けて話を進めることにする。


 N氏は、この町の出身ではない。たまたま一人息子の転勤に付き従って、この町で暮らすことになった。孫が二人いる。二人とも男の子で、下が小学三年生、上が六年生だ。この町へは、孫たちが二年生と五年生に進級する春に越してきた。まだ一年しかたっていない。よくなじめていないどころか、知らないことばかりだ。

 N氏はすでに二十年前に伴侶を失っていた。引っ越してきた年の暮れに、一人息子を失った。何のために引っ越してきたのかわからない。転勤が引き金になったように、N氏には思えた。死亡診断書には、「特発性心筋症」とあった。

 それを見てN氏は呆然とした。罪悪感に似た感情が彼の全身を駆け巡った。息子を死に追いやったその医学用語は、N氏自身が、検査の結果とくに注意を要する病気として、医師から宣告を受けていたものだったからである。

 N氏は病院を嫌うたちで、医者にかかったことは、生まれてこのかた数えるほどしかない。勤め先が補助金を出しておこなっている健康診断も、一度も受けたことがなかった。退職の前年になって、N氏は、その検診を受けた。退職記念ぐらいの気持ちだった。が、時々、胸を締め付けられるように痛むことがあるので、そのわけも知れるものなら知りたいと思っていた。レントゲン、血液検査、心電図と、院内を引きずり回された後、一人の医師と対面した。医師は、心臓に特異的な不整脈があり、要注意だといった。肺癌ではないかと、N氏は尋ねた。癌は、さすがに恐ろしい。医師は、肺は痛みを発しない、胸に痛みが出るのは心臓の場合がほとんどだと言った。そうして、定期的な通院と服薬の必要を説いた。わかりました、とN氏は返したがそれに従うつもりはなかった。自分が長生きできる人間でないことは、うすうす分かっている。彼の知るかぎり、親族に長命の人間はいない。自分も長生きしたいとは思わない。むしろ老醜というやつが、たまらなく嫌だ。彼は、五十を過ぎたころに肺を病んで、二年近くも入院していたことがある。退院して間なしに妻を亡くした。負担をかけ過ぎたせいだと、N氏は思っている。そして息子は、自分の悪しき血脈をひいたがゆえに、突然死を遂げた。そうしたことを思えば、申し訳なく憐れで、胸が詰まる。


 息子が亡くなっても、急に暮らしに困るということはなかったが、家の中は、火が消えたようになった。寒々とした空気が家の中を支配した。子どもたちをふくめ、みなたがいを思いやって口数が少なくなった。とりわけ嫁の落胆、憔悴した姿は、N氏に妻の死を思い起こさせた。

 少人数の家庭で、精神的な支柱を失った家族の心中は、容易に表現できるものではない。それでも一家は、家族四人がが一つになって、新たな暮らしに向かって歩み始めた。

 ところが、孫たちが進級してひと月ばかりが過ぎたころ、上の孫が信じられない言葉を口にした。

 「学校に行きたくない」

 N氏も母親もひじょうに驚いた。孫の口からその種の言葉は聞いたことがなく、実際、優等生と呼べるタイプの子供だったからである。嫁は、父親の亡くなったことがよほどつらいのでしょうと言った。N氏もそう思った。それで、二人で慰めたり諭したりして、何とか登校させた。だがN氏は何かおかしいと思った。ほかにも原因があるように思われた。近頃、顔つきが変わってきたように感じる。もともとおしゃべりな子ではないが、ほとんど、口を利かない。苦悩の表情が見て取れる。一人で何かに耐え忍んでいるように見える。

 N氏にとって孫たちは、かけがえのない存在だ。常々、二人とも実によく育ってくれていると思う。普段は、聞けばなんでもありのままに話してくれる。気になるような癖がない。思いやる気持ちもそなえている。

 N氏一家は、前々年まで首都圏の町に住んでいた。当然ながら、孫たちはその町の小学校に通っていた。二人とも、学校を嫌がったっことなど一度もない。特に上の孫は、毎年毎学期、優れた内容の通知表をもらってきて、両親やN氏を喜ばせていた。教師の所見欄には、多くの児童から敬愛されていると書かれ、成績は二番になることがなかった。最も喜んでいたのは嫁であったろう。近所の親たちから、さんざん羨望の言葉をかけられていたからである。無論、N氏も鼻を高くしていた。学校は孫たちにとって、楽しい場所だったはずだ。

 日を経ずして、N氏も母親もある結論に達せざるを得なかった。学校で、孫の身に何かただならぬことが起きているのではないか。

 そんなある日、孫が、いつもより遅く裸足はだしで帰ってきた。理由を聞くと、「靴が見つからなくなった」と言って泣いた。何日か後には、破られてめちゃくちゃになったノートを持ち帰った。その翌々日には、顔と唇にけがをして帰ってきた。N氏は興奮を抑えながら、何があったのか問いただした。しかし孫は何も語らず、ただ下を向いて涙を流している。

 N氏には、どんなことが起きているのか容易に想像できた。そうして腹の中が猛火で焼かれるような怒りを覚えた。まさか世間で騒がれているような問題が、自分たちに降りかかってくるとは夢にも思わなかった。N氏と母親は、深く悩んだ。正確な状況が分からない。調べようがない。相談できる人には相談した。しかし、答えと言えるほどのことを言ってくれる人はいなかった。

 ついに二人は、ある日の夕刻、学校に出向いた。そうして上の孫に起きている最近のできごと、様子についてすべてを話した。学校を嫌がるようになったこと、学校での出来事を全く話さなくなったこと、下履きが無くなった件、顔にけがをして帰ってきたこと、破られたノートや上履き入れ等々・・・。そして、調査と善処を求めた。

 学校の対応は、極めて丁重だった。担任だけでなく、主任という人、教頭、校長までが同時に面接に応じた。N氏と母親の言葉に、ひとつひとつ頷き、善処することを約束した。しかしN氏には、何か釈然としないものが残った。四人もの教師が話を聞いてくれたのには感謝するが、みな一貫して多くを語らず、また言葉に具体性がなく、当たり障りのない返答ばかりだったからである。N氏は、かえって不安が大きくなったように感じながら、校門を出た。

 気丈にも、孫は登校を続けた。N氏にはその姿が不憫でならなかった。孫たちが学校にいる間、居ても立ってもいられなかった。ただただ祈るような気持だった。N氏が学校に出向いてから二週間もたつというのに、事態は一向に変わっていないようだった。それは、孫がN氏や母親に何かを訴えて分かったわけではない。シャツのボタンがちぎれていたり、ランドセルに落書きされていたりしていたことから知れたことである。

 このまま放置することはできない。孫の命が削られているのだ。N氏は、自分自身の手で何とかするほかないと思った。自分はすでに宝物を二つも失っている。この上 大切なものを奪われたら、生きていけるかどうかわからない。しかし、いくつかの病気を抱え、体力も衰えた自分に何ができるというのか。またしても居住地を変えるしかないのか。N氏は、自分の生まれ育った西国の地を思い浮かべていた。そこには、N氏名義の土地と山林があった。

 孫の被害と一家の苦悩は限界に達した。N氏自身にとっても、日ごろからこの町は、なんとなく居心地が悪い。転居のほかに道はないかと考え始めた矢先、孫たちの学校で、信じられないような事件が起きた。六年生の孫の教室で、一人の男子児童(名前はB)が、昼休み時間に三階の教室の窓から転落したというのだ。何人かのクラスメイトがその一部始終を見ていた。また校庭にいて目撃した児童も何人かいた。その子供たちが教員室に飛んで行って知らせた。教員三人が駆け付けたが、意識の有無さえ確認せず、むやみに動かさない方がよいというわけで、救急車を呼んだ。駆け付けた隊員が、教師らに状況の説明を求めた。教頭が、三階の窓から誤って落ちた、と話した。保護者は担任から、自分で誤って落ちたようだと聞かされた。

 ところが、見ていた児童の中には、家で自分の親に、見たままを話す者が何人かいた。その内容は、まず、転落した児童が窓の外のいぬばしりに担ぎ出され、そのあと、後ろ向きに落ちたというものだった。また、B自身も、「クラスの三、四人に無理やり担ぎ出された。そのうち一人が、窓枠につかまっていた自分の指を外した」という趣旨の話をした。

 Bは命こそ奪われなかったものの、骨折だけでなく、脊椎にも損傷があって、全治一か月の重傷だった。つまりこの出来事は事故ではなく事件だったのである。

 Bの両親は、警察に届け出た。警察の調査の結果、事件の概要が明らかになった。

 『昼休みに、四人(C、D、E、F)が、Bに、教室(三階)の窓の外のでっぱり部分に出てみろと言った。Bは、こわいからいやだと言った。みんなで出ればこわくないと言って、Dが外に出た。Bは、危ないから出ないと言った。するとCが、みんなで出ようと言って、三人でBを外に担ぎ出した。Dは教室内に戻り、四人で、窓の外の狭いコンクリートの上で震えているBをからかったり、ちょっかいを出したりしていた。Bは必至で窓枠につかまっていたが、Cがその指を無理に外した。Bはのけぞるようにして落下した』。

 十三歳以下の者が、大人と同様の刑罰を受けることはないが、これほど重大で悪質な事件の場合、最低でも、警察で保護者ともども事情聴取され、厳しい取り調べを受けるのが普通だし、裁判所に送致される場合もある。警察には、その経緯を被害者にも通知する義務がある。ところが、そうした一連の行為が、実行された様子はなく、そのような情報もなかった。新聞は、この事件を地方版に一段ぽっきりの見出しで載せたが、取材先が学校に偏ったため、学校側の見解を代弁するような内容だった。学校側には、遊びの延長としてとらえようとする空気があった。

 数日後、学校からBの家に、ご都合のよい日に伺いたいという電話が入った。B氏は、夫婦で病院に詰めっきりなので、来るなら診療終了後の待合で、と答えた。翌日、担任と教頭、それにCと名乗る男が連れ立って病院に現れた。ひっそりとした待合に夫婦だけでいればすぐにわかる。二人を見つけるや、素早く近づき、いかにも低姿勢で教頭が言った。

 「この度は大変な災難で、ほんとうにお気の毒でした。一日も早いご回復を願っております」

 自分たちの責任については、何の言及もない。そうして、B君の遊び友達の親御さんです、と言ってCを紹介した。すかさずCが、これはほんの気持ちなんで、と言いながら、お見舞いと表書きした封筒をB氏に差し出した。現金が入っていることは明らかだった。「気持ち」にしては、傲岸な態度だった。担任は、二十代後半の男だが、終始 教頭の後ろに隠れるようにしている。

 それでB氏はこう言った。

 「警察がいろいろ調べてくれているところなので、受け取れない」

 「せっかくのお気持ちですから …… 」

 教頭が横から口を出した。受け取ってくれ、受け取れない、のやり取りが何度か続いたが、B氏の顔色が怒りに青ざめてきたのを見て、三人は引き下がった。教頭が、Cに対して、しきりに詫びているのが奇妙だった。

 小さな町のことだ。ひと月もしないうちに、この出来事は町中の話題として広がった。しかも、新聞報道などとは逆に、ほぼ真実に近いかたちで伝わったのである。

 一方、事件が公けになると同時に、N氏の孫が受け続けていた執拗な嫌がらせと暴力が、うそのように止んだ。N氏の孫を苦しめていたのはまさに、事件の加害児童らだった。彼らがおとなしくなったのは、警察に保護者ともども呼びつけられて、親も子も多少は身に染みるものがあったのであろうと、N氏は思ったが、言いようのない疑念が胸の中に広がるばかりだった。

 Cの家は資産家である。Cは長男で、下に妹がいる。父親のC氏は、不動産会社のほか、車の販売店などを経営している。敏腕経営者といったところだ。盆、正月や祭りの時期には、神社や寺が、寄付や寄進をした団体や個人の名前を、境内の目立つところに大書して掲示する。C氏の名は多額の寄付金額とともに必ず上位に明記される。石碑にその名前を刻んだ寺さえある。また、町の教育委員に就任した経歴があり、商工会その他の団体の役員でもある。いわば町の実力者であり、名士であり、有名人といってもよい。当然、警察にも顔が利く。その長男が、事件を主導したCである。その周りには、常に四、五人の取り巻きがいた。Cはいつも多額の現金を所持していた。学用品などとは別に、要求に応じて千円でも二千でも母親から受け取ることができた。それは、ごく幼少期に始まり、徐々に習慣化した。母親も会社の経営にのめりこんでいて、普段の子供への注意が十分でなかった。

 この田舎町で、ふつうの小学生が、二千円三千円というお金を一日で使い切ることは不可能といってよい。ポケットに残った分は、自室の机の上のブリキ缶に放り込む。Cの自由になる金はたまる一方だった。外に出るときは必ず現金を持っていく。まわりに子供が群がる。人間も、ハエに劣らず、自分の利益になるもの、おいしい物のありかを嗅ぎつける能力にかけては、並々ならぬものがある。

 近寄ってきたり、追従してきたりする者には、要求に応じて菓子を買い与え、アイスクリームをなめさせ、飲み物を飲ませる。現金そのものを与えることさえあった。

 二度三度と恩恵を受けたものが、与えた者の意に背くことはできにくい。それは、大人の社会がよく示しているところだ。Cがうれしそうな顔をすれば、取り巻きの子供らはさらに喜ばそうとする。つねに顔色を窺うようになる。そうしていれば、得はあっても損をすることはない。そんな日々の積み重ねが、事件の下地にあったわけだ。


 N氏は、Cという名前を聞いたことがあるような気がしていた。それは、この年の節分の日のことだ。孫たち二人は、まだ二年生と五年生で、ようやくこの町になじみ始めたかというところだった。

 町はずれに、この町には似つかないような、格式の高い寺がある。そこで節分会せつぶんえという行事が行われる。僧侶による長い読経のあと、夕と夜のニ度にわたって❝豆まき❞が行われる。実際にまかれるのは、豆だけではない。銭の入ったおひねり、菓子、飴、そのほかいろいろなものが善男善女に向けて施されるのである。有名人といわれる人も何人か、参加することになっている。大通りから、左に五十メートルほど入る門前道と、境内にも、二十店以上の屋台が店を開く。

 孫たちは、それを楽しみしていた。これも一種の祭りだから、当然のことだろう。豆まきで、何かうれしいものが取れるかもしれない。とりわけ屋台は、子供にとって、お店にはない格別の味がするものだ。N氏は、病気を抱えているせいで、二キロを超える道のりは、もう何か月も歩いたことがない。だが、孫たちが誘ってくれていることだし、一緒に歩くことなど、この先あるかどうかわからないという思いで、この日 一回目の豆まきの時刻を目当てに家を出た。休憩しながら歩いて、こんもりとした寺の森が見えてきた。ほかにも寺に向かう人が歩いていく。N氏たちの少し前に、上の孫と同年くらいの集団五人が歩いていた。背の低い坊主頭の子供を先頭に、二人ずつ背後を固めるような格好だった。気になったのは、その歩き方だった。腕を広めにダランダランと振り、がに股で、下駄の音をあえて大きく鳴らして、周辺をにらむようにして進む。このとき、すでにN氏は彼らに対して、ひじょうな違和感を覚えた。子供らしさというものが、少しも感じられなかったのである。

 本通りから、寺へと上がる小道に入ったところで、下の孫が、甲高い声を上げた。

 「お兄ちゃん、ぼくはチョコバナナにするよ。おにいちゃんは?」

 「ぼくは、金魚をたくさんすくいたいんだ。二人で育てるんだよ」

 たったそれだけのやり取りだったが、少し前を行っていた、例の五人の集団が、冷水でも掛けられたかのように、一斉に振り向いた。上の孫は、転入生であり同級生でもあるという気持ちから、軽く手を挙げた。

 ところが彼らはそれには応えず、逆に中央にいた小柄な少年が、流れに逆らって前に進み出て、言った。

 「オイみんな、オニイチャンとボクチャンのお通りだぞや。気いつけろ、ションベンぶっかけられっかもしれねぇ」。すると仲間たちは、追従笑いをして、ニヤニヤしながら二人をにらめつけた。N氏は困ったことになったと思った。が、人々の流れがあったおかげで、その場面は崩れて何事もなかった。しかしN氏の胸には、かつて抱いたことがないほどの嫌悪感と憎悪が湧いて、なかなか消え去らなかった。この時、取り巻きが、中央のやせて小柄なしょうねんを呼んだときの名、それが「C」であったと記憶する。そして子供らしからぬ鋭い目つき、逆三角形の平たい顔、赤毛、よく道に唾を吐く癖など、N氏の頭の中にはっきりとよみがえった。


 幸いなことに、校舎の三階のでっぱりから、悪質きわまるやり方で落下させられた児童の怪我は、徐々に回復し、後遺症の心配もなくなって二学期が終了した。正月休みは穏やかに過ぎて、第三学期が始まった。

 ところがその二月の中頃である。N氏は上の孫からあり得ないようなことを聞かされる。今また別の子が、ひどい仕打ちを受けているというのである。通りすがりに、足を踏みつける。文具を、そこら中に散らかす。取り囲んで、胸や腹を小突く。しかも事もあろうに、実行側は、ほかならぬCをはじめとする同じ集団だと孫は言う。N氏は心の底から驚いた。学校は何をしているのか。また、触法少年として世間から烙印を押される可能性さえあったあの事件の処理の過程はどうだったのか。一再ならず三度までもと思うと、憤怒ではらわたが煮えくり返った。彼の正義感だけは、年齢にも体調にも関係がなかったのであろう。

 普段、公園や路上でも、ひとりの子供が、多人数に取り囲まれていたりすれば目につくものだ。遊びなのか、何か不穏な状況なのかは、容易に区別がつく。遊びには笑い声があり、一体感があり明るい活気がある。不穏な状況であれば、まともな大人なら素通りはしない。学校の中でなら、言わずもがなだ。

 孫は、様子のおかしい輪ができていたりすれば、親しい友達を誘ってその輪に近寄って監視するようなことをしたり、時には大声を出して、その場をばらけさせようとしたりしたしたこともある、と言った。でも、なかなかうまくいかなかったと、悲しそうな顔で言う。N氏は涙が出そうになるのをこらえながら、たいへんな勇気のいることをよくぞやったと言って、心の底から、孫をたたえた。同時に、自分の体は、怒りに震えていた。


 嫁が働きに出たが、N氏に決まった日課はない。掃除、洗濯、草むしり、飯を炊いておいてやるぐらいなものだ。あとは自分自身の買い物で、自転車で街に出ることがたまにある。たいてい、例の大事件で被害者となった児童の家の近くを通る。その時は、必ずその家に向かって、深々と頭を下げる。その子どもこそが、孫の身代わりとなり、孫はすくわれたという思いが、N氏にはあったからである。

 このころから、N氏の素振り稽古が始まった。素振りと言っても、木刀や模造刀などではない。N氏の生家は、五百年の歴史を有する、西国の名家である。彼は三男で、家を出たために相続した物品は多くないが、その中に戦国時代作の日本刀一振りが伝えられている。それを久しぶりに取り出して、感慨深げに見入ったのち、素振りを三十分ほど行うのである。体調の問題もあり、時刻などは決めていないが、ほぼ毎日一度は、その剣で空を切る。びゅっ、びゅっ、びゅっ、という音が素人でないことを物語る。中学生の時から、四十代で胸を患うまで、剣道にいそしんだ。大学在学中に四段をとり、社会人になってからは、監督だった先輩の道場で、多くの青少年を指導し、錬士六段の免許状を得ている。

 剣を振りながら、N氏は思う。人間はみな、自分に都合のいいように生きている。だが、人に損害を与えたり、危害を加えたりしてはならない。それは、人の命を奪い取っているのと同じことだからである、と。

 C少年によって、命の何分の一かを奪われた子供は何人になるだろうか。奪われた分は、返還されなければならないが、いつになるのだろうか。子どもだから、大目に見ろという考えもあるだろうが、それも事と次第による。より深刻な結果を引き起こす前に、彼に染み付いた悪しき性向を、消し去ることはできるだろうか。

 よく、責任は親にあるという。また学校に責任があるとも言われる。だが、それらの議論や主張は、何一つ、悪質な行為の結果にコミットしていない。

 道に外れた人を正すには、教育と指導が唯一の道だという人がいる。だが、どんな教育の仕方をするのか。「人を苦しめるのは悪いことだからやめましょう」とでも言うのか。それで、なんとかなるとでも言うのか。そもそも言葉だけで、人を変えることなどできるものなのか。自分の都合や立場を犠牲にしてでも、教育や指導に❝命❞を捧げることのできる人間がいるとでも言うのか。

 「この世から去ってもらうしかない」

 N氏は、試みにその言葉を自分に向けて言ってみた。すると、視界にあるものすべてが、より鮮明になっていくような感じがした。かつて味わったことのない爽快感が、全身にいきわたった。頭の中が、高速度で純化していくのが分かった。自分には、抗うべからざる天命が下ったと思った。

 学校は間もなく修了式を迎え、春休みに入る。それを機に、三人には嫁の実家に移ってもらう。この町から遠く離れているのが、かえって幸いだ。当然、孫たちの姓は、新学期から嫁の姓に変わる。自分名義の財産は、すべて嫁に相続させる。現在の住宅も、売却するなり更地にして売るなりすればよい。そんなことは、業者が最大の利益をとったうえで、すべてを処理してくれる。

 N氏はそれを三人に提案した。三人は、N氏が想像していたよりは、すんなりと受け入れた。下の孫などは、「お母さんの生まれたところだよ」と言うN氏の言葉に、「へええ、お母さんの生まれたところなの」と言って目を輝かせた。

 「おじいちゃんが一人ぼっちになるよ」

 「もうすぐ施設に入ることになっているから大丈夫なんだよ。とても好いところなんだ」

 嫁は終始何も言わなかった。この町に愛着はなかったのであろう。


 学校は、何事もなかったかのように修了式を迎えた。孫たちと母親は、春休みに入って早々に、母親の生地へと移っていった。彼らは、転居ということに慣れていたのである。上の孫は、母親の卒業した中学校に進学し、下の孫は四年生に進級するはずだ。これまで和やかに、時にはひっそりと過ごしてきた家も、家具類を送り出して老人一人となると、ゆかと天井と壁があるだけだ。N氏は、その空虚な状態に親近感を覚えた。そんな中で遺言書を書いた。内容が多いわけではないので、二日ほどで作成できた。別紙として、嫁への詫びと感謝の言葉、子供たちに余計な説明をする必要はないこと、資産の扱い方についての助言などをしるした。それを投函すると、N氏は、頭の中だけでなく体内が完全にすっからかんになった、と思った。


 話はさかのぼって、ちょうどそのころである。ある老人すなわちN氏が、町の金物屋で、「鉈」であるこのオレを手に入れたのは …… 。

 当然ながら、北国の桜は遅い。ようやく枝先にほんの少し、赤みがさし始めた春休みの期間中、N氏はオレを頭陀袋に忍ばせて、毎日、それも一日に何度か、近くの公園や学校の校庭に足を運んでいた。その足取りは、なぜかそれまでと違って、はっきりとした目的があるように見えた。行きつくと、必ずそこで一時間ほどを過ごした。桜の様子を見に来たわけではない。

 休み中の校庭や公園には、いろいろな人が来るが、赤ん坊や小さい子供を連れた女性と、小学生たちが圧倒的に多い。子どもはたいていグループでやってくる。グループもいくつかあるようだ。五、六年生は、サッカーボールで遊ぶことが多いように見えた。

 N氏が公園や校庭に通うようになって、五日ほどが過ぎた。あと二~三日で学校が始まるという日の昼前である。N氏は公園につくと、いつものように、端の方のベンチに腰を下ろす。線路の枕木二本に短い脚をつけただけの、低いベンチである。

 公園では、サッカーボールで遊ぶ少年たちが、すでにグラウンドを占めていた。七人の集団で、七人が七人とも、白い半袖シャツに白い短パン姿だ。学校で着る体育着というものであろうが、寒くはないのかと思ってしまう。彼らはボールの動きに従って、N氏の近くまできたり、遠のいたりしている。そのたびに、明るく元気な叫び声が、校庭いっぱいに響き渡る。N氏は思わず微笑ほほえまずにいられなかった。

 ところが、一時間も経たないころだ。どの入り口からか、いつの間にか五人の少年集団がグラウンドに入ってきた。一目見ただけで、それまで遊んでいた子供たちと様子が違う。服装はまちまちだし、サンダル履きの子もいる。見ていると、あとから来た連中が、それまで遊んでいた子供たちのボールを奪って、勝手に遊び始めたようだった。奪われた方は、仕方なくその場に立ち尽くしている。

 N氏は、五人が例の少年たちであること、その中心にいるのがCであることをはっきりと認めた。小柄で、赤毛の丸坊主頭、逆三角の顔、黄色と赤の派手なシャツ・・・。N氏はまじろぎもせずに、その少年たちの動きを見つめていた。そのまま十分ほどが過ぎたころである。N氏のそばへボールが転がってきた。N氏は急いでそのボールを拾った。少年の一人が、ボールを取りに駆けてきた。N氏が少年に言った。

 「わるいけどこのボール、ちょっとだけ貸してくれないか」

 少年は不審がるような表情を見せたので、N氏が続けて言った。

 「これからわたしが、このボールを使って面白いことをやって見せようと思うんだ。だから、ほかの子もみんな呼んできてくれないかな」

 その少年は少し怪訝そうにしたが、五人の集団をはじめ、そこら中にいる子供たちに向かって呼び掛けた。

 「おおい。ここに座ってる人が、ボールで何かして見せると言ってるぞ」

五人のグループに、七人のグループ、別のところにいた子供らも集まってきた。

 「これから、このボールを使って、誰も見たことがないような芸を見せるぞ」 

 このとき、N氏の顔には、異様な笑みが浮かんでいた。その表情の裏側には鬼神 不動明王がかくれていたかもしれない。

 N氏は、道場でするときのように、背筋を伸ばして枕木の上に座りなおした。そしてボールを地面に置いて両足でしっかりと挟んでおいて、こう言った。

 「C君というのはどの人だったかね」

 Cは、他を押し分けて前に出て、鼻先でオレだと言った。

 「そうか、間違いないね。じゃぁ、このボールを、地面に両手で押さえつけていてくれないか。今からわたしが、手も足もボールに触らずに動かして見せるから。C君、いいかい、君がしっかり押さえていないと、ボールが勝手に動いてしまうよ」

 Cは、例の上目遣いで、小ばかにしたようにN氏を見た。N氏の手が、静かに頭陀袋の方に動いていた。Cの頭が、N氏の目の前で静止した。

 その瞬間である。鉈であるオレは、高齢で病気を抱えた人とは思われない、神速ともいうべき素早さで、Cの頭頂に振り下ろされていた。オレは、Cの頭の中央を割って、深々と内部に食い込んでいた。オレが凶器となった瞬間である。


 子供らは一斉に奇声を発し、転びそうになりながら散らばっていった。この成り行きが、N氏の筋書きどおりであったかどうかは分からないが、おそろしいほどに鮮やかな手さばきであったことは確かである。

 鉈であるオレに頭を割られた少年は、声というものを発せず、音もなくボールの横の地面に横たわった。その後、老人はオレに触ろうともせず、ただ細めた目で、遠くを見ていた。

 オレは、人間の身体のヤワなことはよく知っていたが、頭蓋まで、これほど軟弱だとは思わなかった。少年が未成熟で、かつ短髪であったことが影響したかもしれないが、オレの刃先の切れ味がこれほどだったとは、オレ自身にとっても思いのほかだった。剣道六段の腕前が、一生一度の冴えを見せたのだろうか。頭蓋の内側、脳髄と呼ばれる部分は、オレにとってほとんど感触がなく、人間の頭など、本当は空洞と言ってよいのではないかという気さえしたほどだ。


 さて、その後のことは語りたくない。知りたければ、警察にでも報道機関にでも行って聞いてもらいたい。  

 人々は、N氏や事件について、いろいろなことを言い、さまざまに論じるかもしれないが、それは、オレにとってはどうでもいいことだ。

 オレは凶器となった、それだけのことだ。はじめに述べたように、いまオレは、警察の証拠品保管庫の中で、静かで安らかな日々を送っている。                         (完)


お読みくださって、ありがとうございます。当作者が、どの作品においても苦労いたしますのは、事柄の前後関係です。発想の段階から、その点を明確にしたうえで書き進める方法を、工夫しようと考えています。作品または作者をご記憶いただければ、幸いこれに過ぐるものはございません。

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