02
「ねぇ、どうしてここで働いてるの?」
十回目の来店日、複数回の来店も相まって、永利は口が軽くなっていた。
「僕はね、女の子が笑顔になるのが好きなんだ。僕との会話で笑顔になる人が一人でも増えると嬉しいんだ」
「そっか、それって、私だけじゃダメかな? 私、あなたが好きなの」
袖がきゅっとつかまれ、上目に見られた。しまったと思った。そのときの永利は混乱していた。まだ入って一年も経たない永利には、傷つけずに断る方法を身に着けていなかった。
「ごめんね、僕はみんなのものだから、君だけのものにはなれないよ」
「そっか、あなたもなんだ」
莉愛はそれだけ言うと、黙ってしまった。その顔は無表情、まるで古典舞踊の能面だ。肌の色をした仮面が張り付いているかのように、永利がなにを話しても、その顔を崩すことはなかった。
そこで僕は気づいてしまった。
その日、彼女が店を出て以来、永利の記憶に彼女は一度も現れていない。付き合った記憶も、店外で会った記憶も、家を教えた記憶も、永利の中には一切残っていなかった。記憶の海から戻った僕は、彼女を見る。
「どうし――」
息が詰まる。違う。強制的に止められたのだ。莉愛の口から紫のぬらぬらとした舌が伸ばされ、永利の首を貫いていた。舌は彼女の腕より太く、全身より長い。口がばかりと大きく開けられ、明らかに人間のなせる業ではなかった。
「だって、私の物になってくれないんだもん」
舌がずるりと僕の喉から抜けた。そうか、君も僕と同じだったのか。声にならない声がヒューという掠れた息になって漏れ出す。莉愛の体がぐじゃりと変形した。細長い頭に、宇宙を思わせる黒の瞳。僕と同じエイリアンが見下ろしていた。永利の記憶に彼女が成り代わった瞬間を感じる素振りはなかった。一体いつから......。もしや、初めて会った時から?
「永利君。遅くなってごめんね、一緒になろうね」
がパリと開かれた口、鋭く細長い牙が眼下に迫る。
そうか、彼女は寂しいのか。誰にも愛されず、奇しくも捕食という歪な求愛を身に着けてしまった。僕が助けなきゃ――。
永利はそんな思考をすぐに捨てた。どうせ考えても無駄なのだ、この記憶も全て彼女の胃に収まってしまうのだから。なんとも皮肉なことだろう。先ほど捕食した男とまったく同じ記憶を持って、まったく同じ死に方をするとは。
ぐちゃりともぐぢゃりともとれる音を出して永利だったものの頭はなくなった。莉愛は体をぐにゃりと歪ませると、元の少女の体に戻った。人に、少なくとも外見は人に戻った莉愛は、恍惚とした表情で永利の体を眺めた。自身の体をぐにゃりと変形させる。金髪にすらりとした四肢から生える整った顔。永利だ。
「やっと、一緒になれましたね、永利君。でも、永利くんの声も聞こえないんだね?」
青年の声色だが、口調は元の彼女のまま、残ったのは永利の知識のみ。その人格が芽生えることはない。莉愛に成り代わったそれの記憶は莉愛の記憶と完全に混ざっており、ほかの人格が侵入することは不可能だった。しかし、彼女にそれを知るすべはない。
「また探さなきゃ、大切な人。私と一緒になってくれる人」
彼女は愛情に飢えていた。それは人の人格を欲する。捕食し、一つになっても満ちることはない永久の飢え。莉愛は誰にいうでもなく、ひとりごちた。
「待っててね。私の運命の人。すぐに迎えにいくから」
暗い室内。血液をふき取った莉愛は、落とした鞄を拾いなおしてぐにゃりと体を変化させた。永利でも莉愛でもない誰かに成り代わった彼女は、まだ見ぬ運命の人を夢に、スキップしながら部屋を後にした。
電気の消えた部屋。もうそこでなにかが動くことはない。たとえ何十、何百と人を喰らおうとも運命の人が現れることはないと彼女が知る日はもう来ない。それでも彼女は些細な出会いに運命を感じ、同じ過ちを繰り返すだろう。彼女の正体を知るものは、もうどこにもいないのだから。