定休日の朝
「うーん……んー……ん?」
朝。起きた時に目に飛び込んできたのは、見慣れた自室の天井ではなく知らない天井だった。
あれ? ここは……。
考えかけて思い出す。
そうだった。私は自分のアパートを飛び出してきたのだ。そして昨日はカフェ・ライムライトのマスター、理市さんの部屋に泊まるはめに……もとい、泊めてもらうことになったのだった。
広くて豪華で慣れないマンションの一室だったけど、上等なベッドと疲労が手伝って、夢も見ないで朝を迎えられた。
時間を確認すると、午前六時半。
疲れていたはずだけど、習慣のせいかいつもの時間に目が覚めてしまった。
身支度を整えて、そろりとリビングの扉を開ける。
早朝から理市さんの休んでいるリビングに顔を出すのはためらわれたけど、のどがカラカラなのには勝てなかった。
リビングは遮光のカーテンが閉まったままで、暗かった。
やっぱり、まだ理市さんは寝てるのかな?
そう思いながら抜き足さしあしで部屋に入り、キッチンの方に行こうとしたところで、声がかかった。
「月島?」
「ひゃいっ!」
かなり注意して扉を開けたのに、いきなり声がかかったから飛び上がってしまった。
起きていたのか、起こしてしまったのか……。
起きていたにしても、よく気づいたなと思う。後ろに目でもついているのかしら。
「早いな。あまり休めなかった?」
「いえ、すごくよく寝たんですけど、いつも起きる時間に目が覚めちゃって。起こしちゃいましたか? すみません……」
「いや、大丈夫だ。もう起きてたから」
「そうなんですか。あ、じゃあカーテン開けましょうか」
六時半ならもう外もしっかり明るいだろう。
「ちょっと待って」
窓辺に歩み寄り勢いよくカーテンを開けようとした両腕を、しっかりつかまれて止められた。
理市さんは背が高いから、ごく近距離から見下ろされる形になり、その近さに思わずドキッとしてしまう。
「えっ? ……あの?」
「すまない。日光を浴びても死にはしないんだが、得意なわけでもなくてだな」
申し訳なさそうに言う姿を見て、はっとする。
そうだ、この人、吸血鬼だったんだ……。
同時に自分があまりにも考えなしだったことに頭を抱えた。
よりにもよって、吸血鬼に太陽光を浴びさせようとするなんて! もしも伝説どおりだったら灰になっている。極悪すぎる所業だ。
「ご、ごめんなさい! すっかり忘れていて……というかその! 本当にすみません!」
「いや、こっちの体質が悪いんだ。君がやろうとしたことは普通だよ。俺も、今日は快晴だからつらいだけで、一応曇りの日や雨の日は大丈夫だから」
「そうは言っても……。あ、電気はつけても平気ですか?」
「それは大丈夫」
思わぬ接近にドキドキする。
誤魔化すように理市さんから離れて、照明をつけた。
しかしこんな、朝からいきなりの大失態だなあ……。
私はすっかりへこんでしまった。
恥入りすぎて、うめき出しそう……。
気持ちを立て直すためにキッチンに避難し、冷蔵庫に置かせてもらっていたミネラルウォーターを取って、一気に口に含む。
しゃっきりとした冷たさで、なんとか気持ちを持ち直すことができた。ちょっとむせたけど。
キッチンから戻ってくると、理市さんはソファに座り直して煙草をくわえていた。
今までに見たことがないくらい、気だるそうな様子。目を閉じて、じっとしている。
どうしたんだろう。昨日、夜遅かったから疲れちゃったとか。それとも具合が悪いのかな……?
それにしても、理市さんも煙草吸うんだ。
結構、意外だった。
うーん、煙草、か……。
実は、煙草には良い思い出がない。
元彼の大樹がときどき吸っていたんだけど、イラついたりストレスが多かったりする時に吸っていたので、機嫌の悪いイメージとぴったり結びついてしまっているのだ。
あー、だめだ。大樹のことを思い出すと、つらい気持ちが蓋をした心の奥から漏れてきてしまう。
後ろ向きな気持ちから目をそらし、ソファの端っこにお邪魔した時、ふと違和感に気づいた。
そういえば、煙のにおいがしないのだ。理市さんからも、部屋からも。
よく見れば、ローテーブルの上には灰皿やライターすらない。
でも電子タバコでもないようだし……?
はてなと思いながら彼を見ると、火の点いていない煙草をくわえている。
その煙草をぽろりと取り落としたので、慌てて近づいて拾いあげ手渡そうと差し出す。
「あの……? 煙草、吸われるんですよね? 私のことなら気にしなくても大丈夫ですよ。ここは理市さんのおうちですし、遠慮しないでください」
「ああ、いや、これは……」
「? どうしたんですか? それとも、具合悪いんですか?」
理市さんが閉じていた目をすうっと開ける。
その瞳は真紅に輝いていた。まるできれいな宝石のようだと思う。でもあまりに美しすぎて、なんだかひどく恐ろしくなる。
それに昨日の晩の不思議な力のことを思い出して、心臓が跳ね上がるような気持ちだった。
「り、理市さん……。大丈夫ですか?」
「思ったより、血が足りなくて、……」
ち、近い?
硬直している私のすぐそばで、ささやくように言う声音。それに流し目の色気がとんでもなかった。
まさに吸血鬼の誘惑という雰囲気だったのだけど、その声の中にすごく物憂げな響きを感じて気にかかってしまった。
怖くはあったし緊張もしたけど、思い切って尋ねてみる。
「血が足りなくて? ……具合、悪いんですね? 何かお手伝いできることはありますか?」
「…………煙草。俺に渡してもらえる?」
「あ、はい! どうぞ!」
理市さんはもう一度火のついていない煙草をくわえると、そのまま再びソファに沈み込む。
その後で、目を閉じたまま言った。
「……。……それで、ごめん、少し離れていてもらって良いか?」
「あっ! こちらこそ、ごめんなさい!」
「いや、君は悪くなくて……」
言いさしたまま言葉は途切れる。
そのまましばらく沈黙が流れた。
どれだけ時間が経っただろう。
くわえていた煙草を手に持ち替えて、理市さんが深いため息をついた。
「すまない、色々と気を揉ませて。さっきも言ったとおり、君は悪くないから」
「気にしてませんよ、大丈夫です。それで、具合、少しは良くなりましたか?」
目はもう赤くはないけど、まだ顔色が良くない気がする。
近づいて様子を見ようと身を乗り出しかけて、はたと気づく。
「……もしかして、近寄らない方が良いです?」
「このぐらいの距離のままでいてもらえると助かるかな、今は」
いかにも苦い顔で言う理市さんの様子が不思議で、私は首を傾げた。
説明を求めたい気持ちが顔に出ていたのだろうか。理市さんが口を開く。
「……昨日、思ったより血を流しすぎて。いや、君は気にしなくて良いからな? 俺が好きでやったことだから。ただまあ、血が足りなくなって、それでちょっとな」
血が足りないって、さっきも言っていたな。
昨日私のせいで大量に出血していたのに大丈夫なのかと心配していたけど、やっぱり大丈夫ではなかったのだ……。
血が足りない、つまり貧血気味ってことだろうか。
でも、と思う。
吸血鬼なら普通の人と違って解決法があるのでは?
そう思った私は思いつきをそのまま口に出した。
「あの……理市さんは血は吸わないんですか? 吸血鬼なのに。血が足りないんですよね? 血を吸うと良いのでは……」
「それはそう、それはそうなんだが……」
私が尋ねるのを聞いて、理市さんは左手で顔を覆った。
その後、天を仰いで大きくため息をつき、もう一度私に向き合う。
そしてちょっと怖い顔をして言った。
「それは俺にしてみたら、君を襲うって言うことになるんだが……」
「えっ」
あっ、そうか!?
さっきまでの理市さんの一連の行動を思い出す。
もしかして、血を吸いたいのを我慢していた? 煙草で気を紛らわしていたのか。
もしかしなくても、よく考えなくてもそういうことだった……?
私は顔面からサーッと血の気が引くのを感じていた。
とんでもないことを言ってしまった……かもしれなかった。




