とんでもない一日の終わりに
理市さんと『約束』をした、その後。
私と理市さんは、血まみれになった服を着替えて処分した。
店内の血溜まりは理市さんが片付けてくれていたし、幸い辺りへの血の跳ねなどもなかったので、後片付けはそう時間がかからずに済んだ。
店を閉めてから、彼は私に手招きする。
「この後は? どこかに泊まる予定があるのか?」
「あ、はい。この近くのビジネスホテルに予約をしてあって……」
「ふむ。キャンセルしてくれないか?」
「へっ?」
「キャンセルして。料金は俺が払うから」
当たり前のように言うその勢いに押されて、ビジネスホテルの予約を取り消してしまった。
改めて、どういうことですかと視線を向けると、
「色々と手続きが終わるまでは、できるだけ近くにいてもらった方が都合が良くてね。約束の延長線上だと思って、君の部屋がちゃんと用意できるまでは、俺の部屋に泊まってもらえない?」
「……えっ。ええー!?」
「スーツケース、持つよ。ここの十七階だ。着いてきて」
そう言うとスーツケースを持ってスタスタとエレベーターホールに向かってしまう。
私は慌ててその後を追いかけた。
そもそも、それほど親しくもない男性の部屋に突然泊めてもらうなんて、どうなんだ……?
寝るところはどうなるの? というかまずどんな部屋?
一応信用はしているけど、当然落ち着けるわけがない。
カフェで会っていた時はなんとも思っていなかったけど、理市さんには結構強引な面があるのかもしれない。
先に部屋のことを言われてたら、絶対ホテルをキャンセルしなかったのに!
もやもやとドキドキを抱えながらも、十七階の理市さんの部屋に着いた。
中に入れてもらって、まず初めに思ったことがある。
(えっ? 広っ……!?)
玄関からもう立派だった。そして部屋はというと、ひとり暮らしとは思えない広さだ。というかたぶん、単身向けの物件ではないと思う。
リビング、どれだけの広さがあるんだろう……。
もしかしてここ、場所的にペントハウスなのでは?
「ちょっとソファに座っていて。部屋の用意をしてくるから」
「わ、わかりました。お邪魔しまーす……」
理市さんがリビングを出ている間、大きくて素敵なソファにちょこんと腰掛けさせてもらう。
ローテーブルと、ダイニングセット。あと大きなテレビにオーディオとスピーカーがある。
全体的に飾り気はなくて、家具はシックな感じで統一されている。たぶん、どれもかなり良い品。
くつろげる雰囲気で、とても趣味の良い落ち着いたお部屋だ。
キャビネットには、コーヒーやお菓子の本などが並んでいる。
それとブルーレイディスクのケースが飾ってある。
映画かな? ライムライトという作品で、お店の名前と同じなのがすごく印象に残った。
足元をせかせかと走っていくお掃除ロボットを見つめていると、しばらくして理市さんが戻ってきた。
「待たせたな。こっちの部屋へ荷物をどうぞ」
「いえ! あの、素敵なおうちですね。というか、私、急に泊めてもらって大丈夫なんですか? ご家族とか……」
「問題ない。ひとり暮らしだからね」
こんな広い部屋でひとり暮らし……。
やっぱりどうも、私の常識と違う世界に生きている人という感じがする。
案内してもらった部屋は、フローリングの洋室。丸い形のラグの上に、丸いローテーブルとビーズソファが置いてあった。
あとはチェストと、用意してくれたであろう細々としたものがまとめてテーブルの上に。そして観葉植物の鉢が一つ。
普段使ってない部屋なのかもしれないが、きれいなものだ。
「ありがとうございます。こんな立派なお部屋を……」
「ああ。部屋にあるものは自由に使っていいから。それで、寝る場所なんだが、そっちのベッドルームを使ってくれ。俺はリビングのソファで寝る。申し訳ないんだが、客用の寝具がなくてな」
「えっ? いやいやいや、それはできませんよ!」
「シーツも毛布も新しいのにしてあるぞ? 大丈夫だ。安心しろ」
そういうことではない。
家主をソファに追い出して、ベッドで寝ろと!?
「私がソファで寝ますよ、ベッドは理市さんのものなんですから!」
「しかしな。ずっと寝ていないんだろ。正直相当な疲れじゃないのか?」
優しげな顔して心配そうに言われてしまった。
そんな風に気づかわれると弱ってしまう。反論しにくいじゃないか。
「確かに疲れてはいるんですけど。さすがにそんなに図々しくはなれません」
「疲れているんだな? じゃあ決まりだ。良いじゃないか、他ならぬ俺が良いって言ってるんだしな」
「ぐ、ぐぬぬ」
その後も私はごにょごにょと抵抗したのだが、なんやかんやと言いくるめられて世話を焼かれ、結局お先にお風呂まで頂いてしまったのだった。
「それじゃ、ゆっくり休んで。契約関係は明日になってからまた改めてということで」
「すみません。何から何までありがとうございます……。ベッドお借りします。おやすみなさい」
理市さんにあいさつをして、ベッドルームに引っ込む。
気づけば、夜もすっかり遅い時刻になっていた。
最初はためらったけど、もう仕方ない。毒食らわば皿までの気持ちで、私はすごく広いベッドに仰向けになった。
しわもなくピンと張られたシーツの冷たさが、一日歩き回ってむくんだ足に気持ち良い。
こうなってしまうともう一歩も動けない気持ちだ。
ごろんと寝返りを打ったその時、サイドテーブルにおいてある写真立てが目に止まった。
写真の中には何人かの人物が映っていて、みんな一様に優しい笑顔をしている。
家族写真だろうか。
「あれ、これ理市さんと、……」
お父さんお母さん、お兄さんの隣はお姉さんかな? それともあまり似てないから、お兄さんのお嫁さん? そして理市さん。
綺麗なお庭と大きなおうちを背景に撮られている。
家族写真だとしたら、とても素敵な写真だ。
かなり浮世離れした人だし、吸血鬼に家族はいないと勝手に思っていたけど、そんなこともないらしい。
この人にも離れて暮らす家族がいて、写真を飾っているくらいには大事にしている。
そう思うとなんだか急に親近感が湧く。
私とは仕事も暮らしも見た目も全然違う理市さんだけど、私と変わらない部分もあるんだなって。
それでも……。
私は理市さんのことをまだ全然知らない。
今の私と彼の関係は、不思議な縁でつながったばかりの、はかない糸にすぎないと思う。
でもひょっとしたら。この先、もっと彼の知らない部分を知っていくことも、できるのかもしれない。
手足を投げ出したまま、うーんと背伸びをする。
お風呂につかった体はほぐれ、急速に眠気がやってきていた。
「ひっどい一日だったなあ……」
思わずそんなつぶやきがこぼれる。
それほど、あまりにも多くのできごとがあった一日だった。
徹夜で仕事を終えた後に、恋人からの裏切りにあった朝。
仕事をやめてアパートを飛び出した昼。
カフェ・ライムライトでのまさかのできごとと、『約束』をすることになった夜。
騒がしすぎた四月十日、私の二十六回目の誕生日。
裏切られてみたり、救いの手を差し伸べられたり、なんてアップダウンの激しい一日だったんだろう。
こんなとんでもない日を過ごしたのは、生まれて初めてだった。
(明日からも、何が待っていることやら……)
新しい仕事のことや、住まいのこと。
理市さんと話して決めないといけないことはたくさんあるし、もちろん彼に全部頼りきるつもりでもない。
なんと言っても私は大人だ。ただ誰かに寄りかかるだけでは、どんどん借りばかり膨れ上がっていってしまう。そんなのは嫌だった。
そうだ、家族や友達に連絡もしないといけない。
各種手続きだっていっぱいある。
環境があまりにも激変しすぎて、やることが山積みになっている。
(それに……吸血鬼、か)
吸血鬼ってなんなんだろう?
伝説と少し違う形でとはいえ、そんな超常的な存在がほんの身近にいたという衝撃が、まだしっかり残っていて胸を揺さぶってくる。
伝説になるくらいなんだから、理市さんの他にもきっと、吸血鬼はいるんだろうけど……。
人間にも良い人と悪い人がいるように、吸血鬼だってみんな一緒のタイプとは限らないはずだ。
この先、『悪い』吸血鬼に会ってしまうこともあるのだろうか?
理市さんの秘密を知ってしまったことで、何が起こるのか。
そして何に巻き込まれる可能性があるのか。それも、まだ想像がつかないままだ。
私は怖くなって、冷えてきた自分の体をぎゅっと抱き締めた。
とはいえ。と、気を取り直す。
今日の残りくらい、もう何も考えずにゆっくり過ごしたい。いや、過ごすべき!
夢も見ないで、久しぶりの眠りを貪りたい。
このまま目を閉じて次に目覚めれば、もう今日という日も終わっているだろう。
長い長い一日が終わる。
睡魔に引っ張られて、私は目を閉じた。
さっきまでとは打って変わって、静かな夜。気づけば私は、深い眠りに落ちていた。




