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交わされた約束

「吸血鬼って、信じるか?」


 『説明する』。

 そう言ってくれた織原さんの第一声は思いもよらぬもので、私は面食らってしまった。


「えっ……? 突然、なんですか? 吸血鬼って言うと、ドラキュラとかそう言う?」

「そう、その吸血鬼」

「吸血鬼って人を襲って血を吸うオバケで、十字架と太陽がダメな……。伝説とかおとぎ話の怖いやつの類ですよね? それが今なんで……」


 言いかけて、はっとした。

 吸血鬼なんて伝承が、なぜ今わざわざ話題にあげられたのか理由がわかったからだ。

 顔から血の気が引いていくのを感じる。



「いや、まさか……そんな。冗談ですよね?」

「君がさっき見たものを冗談で済ませてくれるなら、それでも良いんだけど」


 思い出すのは、さっき見てしまった傷の超速治癒のことだ。深かった傷が、今はもう跡形もない。

 とてもじゃないけど、冗談で済ませられそうにはなかった。

 考えだして早々に降参の白旗を挙げざるを得ない。


「……すみません、無理でした」

「と、思ったよ。端的に言えば、俺はそう言う生き物だ。証拠としてはさっきのアレと、そうだな……」


 少し考えたあと、織原さんは床に向けて手をかざす。

 その先にあったのは、血に濡れた傘立てと血溜まりだ。

 床をべっとりと濡らしていたその液体が、動き出す。塊となった血はするすると生き物のように動いて、織原さんの手元に集まる。そして彼が開いていた手のひらを握ると、血の塊はそのまま霧となって空間に溶けてしまった。


 私は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 手品で説明がつく現象ではない。

 今度こそ完全に信じるしかないようだった。



「納得したか?」

「それはもう、完全に……。マスターは本当に吸血鬼、なんですね。あっ、でもじゃあ、人……、人、襲うんですか!?」

「襲わない。襲わないから。待って、逃げなくて良い」


 今度こそ逃げ腰になりかけたのをしっかり呼び止められた。

 彼が吸血鬼だということは信じる。

 でも吸血鬼という存在に関して、私には怖い話以外の知識がほとんどない。どうしてたって身構えてしまう。


「俺は、人を襲ったりはしない。君が信じてくれるかは置いておいても」


 そう言った織原さんの表情は、色濃い陰りがあって物憂げだった。どこか悲しそうですらあって。



(そうだ……。よく考えたら、この人は私をかばわなければこんなことにはなっていないわけで……)


 吸血鬼であることがどうしても露見したくなければ、あの時私を見殺しにした方が良かっただろう。

 でも彼はそうはしなかった。

 私が大ケガを負うかもしれないと思った時に、リスクをかえりみずにかばってくれたのだ。

 そのことを忘れてはいけなかった。


「あの、……まだどこか痛みますか? まだ大事なこと言ってませんでした。さっきはごめんなさい。そしてありがとうございます、かばってくれて」


 そうだ、ちゃんとお礼もお詫びもしていなかったのだ。

 改めて頭を下げると、織原さんは驚いた顔をしていたが、その後ふっと笑ってくれた。


「どういたしまして。大丈夫ですよ、お客様」


 わざといつもの口調で言ってくれたセリフ。

 私もなんとか、また笑うことができたのだった。





 その後私と織原さんは、いったん席に着いて話すことにした。


 説明によると、『吸血鬼』というものは、必ずしも一般的な伝説通りの存在というわけではないらしい。


 大まかにまとめると、まず、彼の場合人は襲わない。太陽の光は苦手だけど、浴びたら死んでしまうわけではない。十字架は平気。体は人間よりとても丈夫で、ちょっとやそっとでは死なない。不思議な力が使える、とのこと。


 それを聞いてふと思い当たることがあった。


「もしかして……。さっき私のことをじっと見ていたのは、その不思議な力を使おうとしていた、とか?」


 どうやら図星みたいだ。

 織原さんは申し訳なさそうに言う。


「……すまない。君があの時見た記憶ものを曖昧にしてしまうつもりだったんだ。不本意ではあったんだが、人に秘密を知られたままにするのは俺にとってとてもリスクが高いから」



 わざわざそんなことしなくても、と思ったけど。

 でももし私が織原さんの立場だったとして、お店のお客さんというだけの関係の人間を簡単に信用できるかというと……。


 うん、それは確かに無理だ。

 それこそ誰に言いふらされるかも分からない。彼の体質がわかったら世間では大騒ぎだろうし、彼もタダでは済まないだろう。



 そこでふと気づいた。


「でも、記憶をいじらなかったから今説明してくれてるんですよね……? 記憶、消してしまわなかったのは、どうしてなんですか?」

「正確に言うと『できなかった』んだ」

「できなかった?」


 私は首を傾げた。


「俺の使える力の中には、視線を通じて効果を出すものがある。魅了とでも言えば適切かな」

「魅了」

「伝承の吸血鬼も十八番の技。人を従わせて言うことを聞かせる、催眠みたいなものだ。それが効かなかった。君にはさっきのことを忘れてもらおうとしたんだが」



 吸血鬼の力というのは、さっきの傷の治癒や血を操ったのを見る限り、まるで便利な魔法のように思えた。

 そんな魔法が私に効かなかったというのは、にわかには信じがたい。


「……? そんなことってあるんですか?」

「君くらいだな。俺が知っている限りでは」


 たまたま効きにくい体質とか、あるんだろうか。

 わからないけど、織原さんも困っただろう。私自身としても、いっそ忘れさせてもらえた方が気が楽だったかも。



 少しだけ二人の間に沈黙が流れた。


 沈黙の後で、織原さんは色素の薄い茶色の目を私に向ける。

 負傷したばかりだからか、あまり顔色が良いとは言えない彼。その表情はあまりにもはかなげだし、何より真摯で、思わず目が離せなくなってしまう。

 それこそまるで魅了されてしまったような気持ちになる。


「それで、だ。結局のところ……。俺はただ今まで通り、この場所でカフェを営みながら平穏に暮らすのが望みなんだ。それだけで良い」


 だから、と言葉が続けられる。


「俺と取引をしてくれないか?」

「取引……?」


 そう、と彼はうなずく。


「君は、俺の秘密を守る。俺は、君の望みを叶える。その約束をしてくれれば良い」






 私が織原さんの秘密を守るのは、良い。

 彼は恩人で、私は初めからそうするつもりだった。


 でも彼が、私の望みを叶えてくれる、というのは……?



「ええと、それって……」

「住む場所と仕事。当面のところは、それでどうだろう?」


 確かにそれは私の望むものだけどなぜ知ってるの!? と面食らう。

 でもそういえば私、さっきまでこの人に散々愚痴らせてもらっていたんだった。

 今更ながら恥ずかしくなってしまう。


 それにしても、当面とは言うものの住むところと仕事を用意してくれるって、いったいどういうことだろう。こればかりは、吸血鬼の魔法……じゃないよね。

 疑問含みの視線を投げても、織原さんは落ち着き払っている。



「まず住む場所なんだが、このビルの住居部にちょうど一室空室がある。あいにくと家具はないんだが、何日かあれば揃えられる」

「揃え……えっ? ちょっと待ってください。確かに私は今身一つですけど、まさか部屋だけでなく家具まで揃えてくれる気ですか?」

「ああ。それと仕事なんだけど」


 このビルの住居部って言ったけど、ここは結構……というか正直お高そうな物件なんだけど……。

 その上家具付き?

 私が目を白黒させている間にも、織原さんはサクサクと話を進めていく。


「仕事はこのカフェで働いてみるのはどうだろう? 正社員として採っても良いし、アルバイトでも良い。もちろん、嫌でなければだけど。日数がかかってもいいなら、他の仕事も案内できるとは思う」


 カフェの仕事はまだわかる。でも他の仕事もって?

 えっ? 織原さんってどういう人なの?

 私、騙されてる? どこかに売り飛ばされる?



「あの……改めてこんなことを聞くのも何なんですけど、マスターって何者なんですか……?」

「そうだな。織原理市、あるいは平穏に暮らしたい吸血鬼、かな」

「織原さんは」

「理市で良いよ。俺も月島って呼ばせてもらうし」

「理市さんは、どうしてそんなに私に都合の良い提案をしてくれるんですか?」


 おそるおそる尋ねてみる。

 織原さん……理市さんは苦笑してから、伏し目がちに答える。


「命みたいなものだからね、君が握っている秘密は。で、俺にできることと言えば、秘密を絶対に守ってくれるように、頼むことぐらいだ。君が約束を破ると思っているわけじゃない。ただこれは安心料のようなもので、それにしては破格に安いよ」

「……。命、握っちゃったんですか、私」

「そう。だから、『約束』してほしい」



 『約束』。


 偶然握ってしまったのが、この人の命なんて。

 重大な約束を安易に交わして、私に都合の良いものを手に入れるのにはすごく抵抗があった。


 でも……。

 迷いながら理市さんを見ると、彼は優しい顔で首を横に振った。


「気に病まなくて良い。さっきも言ったけど、俺が渡すものは『約束』の対価としては相当軽いから」

「受け取ったほうが安心、ですか」

「ああ。君はそう言う信頼を裏切らなさそうな顔をしているしな」



 別に何ももらわなくても、人の命に関わる秘密を吹聴したりはしない。

 でも、それが信頼の担保になるなら。その上、私にとっても助けになるなら。



「……わかりました。『約束』しますね、私。今日のこと、理市さんの秘密、絶対誰にも言いません」

「助かる。頼むよ、月島」


 理市さんが手を差し出してきたので、握手でもするのかと私も手を差し伸べたら、小指に小指を絡められた。

 白くて骨ばった手のひんやりとした感触に、ドキリとする。


「『約束』な」

「はい。『約束』です」


 十数年ぶりにする指切り。

 結ばれた約束の重みは、この人の命の重み。

 少しだけ、手が震えるのを感じていた。

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