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彼の秘密

「いたたた……」


 自分の耳に、そんな自分自身の声が飛び込んでくる。

 私ははっと意識を取り戻した。

 意識を取り戻せたということは、


(生きてる……)


 生きている。

 またぼんやりしてくる意識をなんとか繋ぎ止めようと、必死で考える。

 ええと……そう。私はカフェ・ライムライトに来ていて。それで帰り際、倒れた傘立ての上に転びそうになって――。


(あれ、床に転んだはずなのに硬くない……。それに思ったより痛くもないな?)


 ぐらつく頭で状況を把握しようとして目を開ける。

 そして気づく。

 自分が、人に抱えられた状態だということに。


 人? 抱える?

 閉店直前のライムライトにいたのは、マスターの織原さんと私の二人だけだ。

 つまり――。


 慌てて身を起こす。

 目に飛び込んできたのは、織原さんと、そしてあまりにも鮮烈な赤。

 嫌な予感は当たってしまっていた。


 あの一瞬で、織原さんはとっさに私を抱きとめてくれたのだろう。

 でもあの一瞬は、本当に一瞬の時間しかなくて。

 私をかばった織原さんは、かばう以上のことはできずに、必然的に私の下敷きになったのだ。


 そして――。

 そして、私の代わりに。





「お、織原さん!?」


 白いシャツの脇腹部分が真っ赤に染まっている。服が破れた隙間から、無惨な傷跡が見えた。鉄が貫いてしまったのだろうか。

 私の分の体重と彼の分の体重がかかったのだから、相当な衝撃だったに違いない。見える範囲だけでも、あちこちにすり傷もある。

 そして床に大きな血溜まりができていることが、ケガの深刻さを表している。


 体を揺さぶるのだけは思いとどまった。さらに出血がひどくなりそうだったからだ。


「え、ええと、どうすれば……だ、誰か人を……いや、そうだ、救急車!」


 放り出されたバッグに突っ込んであるはずのスマホを探す。

 でも焦っているせいか、なかなか見つけられなくて。

 暑いわけでもないのに、額を汗が流れ、目に入ってひどく染みた。


 どうしよう……。この人が死んでしまったら……。

 もしこの人が死んでしまったら。


 今日私に優しくしてくれたばかりに。

 私のせいで。私をかばってくれたばかりに。

 私の過失なんだから、私がひとりで死ねばよかったのに、助けてくれようとした人が死ぬかもしれないなんて。



「あ、あった!」


 やっと見つけ出したスマホ。

 急いで緊急通報ボタンを押そうとした私の手を、血だらけの手がつかんで止めた。


「お、織原さん? 待っててくださいね。今から、救急車呼びますから!」

「……待って」

「えっ?」


 かすれた声だったけど、確かに「待って」と言われた気がする。

 半身だけ起こした彼は、痛みに耐えるように秀麗な眉をしかめながら続ける。


「呼ばなくて、良い。救急車も、人も」

「え、でもだって……血がすごい出てて……ケガが」

「少し、待って」


 わけがわからなくてあ然としていると、織原さんはそのままパーテーションに寄りかかった。

 浅い呼吸をしながら、私に尋ねてくる。


「……ケガは?」

「わ、私ですか? 私は、何とも。織原さんのおかげで……。でも私のせいで織原さんが……。ご、ごめんなさい……」

「いや。俺は大丈夫……、君にケガがないなら、良かった」


 ほとんど動けない様子の彼は、視線だけ私に向けた。その目がたたえる優しさが今の私にはとてもつらかった。そんな私を安心させるように、今度ははっきりした声音で繰り返す。


「少し、待って」


 なぜ? それに何を待てば良いというのだろう。

 このままでは、織原さんは……。

 嫌な汗が流れる。

 やっぱり、救急車を呼ばなくちゃ。


 思い直してスマホをもう一度握ろうとしたとき。

 私はその異変に気づいた。



「……え?」


 初めは、気のせいだと思った。

 さっき織原さんを見た時にあった傷。それがいくつかなくなっている気がしたのだ。

 ただ、傷はたくさんあったから、見間違いだろう。そう思っていたんだけど……。


 でもそれを見た時、思わず血の気が引いた。

 シャツから覗いていたひどい負傷が、『治り始めている』のだ。


 人間が自然治癒力を持っているのは知っている。でも自然治癒というのは、明らかに目に見えるくらいの速度では起こるものじゃないはずだ。


 手術が必要なほどのケガが、こんな早送りした映像みたいに治るなんてことは――。

 そんなことは絶対ない。

 異常、だった。



 さっきまでとはまた違った、嫌な汗が流れる。

 ぞくりとした感覚とともに、鳥肌が立った。


 つまり?

 つまり、どういうこと……?


 とんでもない考えが頭をかすめる。

 この人は……。

 本当に『人間』なのだろうか。


 そんな馬鹿な。陳腐な空想みたいな話だ、あるわけがない。

 でも目の前のコレが、有り得ない事実が現実に起こっていることを証明している。



 ふと心に恐怖の影が差す。

 私はこのままここにいて大丈夫なんだろうか。

 こんなものを見てしまって、こんな明らかに重大そうな秘密を知ってしまって。

 この後、無事に帰してもらえるのだろうか?


 いますぐにでも、逃げ出すべきでは?


 そんな考えも、一瞬心の中をよぎる。

 でも。


(でも……。私を助けてくれた人を放り出して逃げるなんて、そんなのは絶対ダメだ)


 この後どうなるかはわからないけど、とにかく。守ってもらった恩を忘れて逃げ出すことは、私にはできない。

 そう思って織原さんに向き直った私は、すくみ上がった。


 彼の傷はもう完全に癒えたようだった。

 そしてそのまま立ち上がった彼は、歩み寄ってきてじっと私を見下ろした。炎の灯ったような赤い瞳で。


「誰もここに呼んでないな?」

「は、はい」


 幸か不幸か、迷っている一瞬のうちに話はもう次の段階に進もうとしていた。






 織原さんが近くに来ると、思わず体が強ばってしまった。

 いつもと雰囲気が全然違うのだ。


 張り詰めていて冷たくて、ひどく恐ろしい。それでいてなぜか目が離せなくなるような力があって。

 普段が柔らかな雰囲気なだけに、激しいギャップに否応がなく緊張感が増してしまう。


 蛇に睨まれた蛙ってこういう気持ちなんだろうか。


「逃げなかったんだな」

「あっ! ええと、はい……その」


 鋭い視線がまるで突き刺さるようだ。


「だって、助けてくれた人を置いて逃げ出すのは、ですね、その……」


 すっかり緊張してしまって、うまく言葉にならない。消え入るような声になってしまった。

 どうしよう。やっぱり逃げるべきだったんだろうか。

 もだもだと考えていると、声がかかった。



「ちょっとこっちを見てくれる?」

「え、はい」


 慌ててそちらを向けば、じっと私を見つめる織原さんの眼。

 でも、この目が不思議だった。


 さっきは鋭くて怖く感じた視線なのだけど、今は雰囲気が違っていて。

 優しさ……ではない。なんだろう、何か誘われているような気さえする、妙に心地よい感じで。

 それに、真紅の瞳って? よく考えたら、彼の瞳の色は薄茶だったはずでは?



 そこまで考えかけて、ふと。

 今更気づいたけど、私の顔はいまひどい有り様なのだった。目の下のクマは悪化してるだろうし、さっき泣いたから目も腫れている。メイクはたぶん全部剥がれている。

 おそるおそる尋ねてしまう。


「……あの。私の顔、そんなひどいですか」

「いや、違う。……月島さん、何も感じない?」

「え?」


 織原さんは、またしても深いため息をひとつ。


「もしかして俺のことが、まだ『ちゃんと怖い』、か?」


 意味深な問い。言葉通り以上の意味を含んでいる気がしたけど、私にはそれは分からない。

 ただ、今の状況を思い出して、身震いしてしまった。私は確かにこの人を怖いと思ってしまったのだ。嘘はつけない。正直にうなずいた。


「う……、はい……」

「そうか。……いくつか聞きたいことがあるんだが」

「えっと……、なんでしょう」



 思案顔になった後で、織原さんは続けざまに問う。


「月島さんは、普通の人間?」

「それはもう、間違いなく。マスターと比べたら」


 思わず首をぶんぶんと縦に振ってしまった。


「特別な能力を持っていたりとか」

「取り立ててそういうのはないですけど……。絵やデザインが人よりやれるくらいで」

「じゃあ実は人間ではないとか、そういうことは?」

「ないです。ええと。こんな時に冗談言ってるわけではないですよね?」

「すまん、真剣なんだ、これでも」


 織原さんは何か考えているようで、しばらくその形の良い眉を寄せていた。

 しかしややあって、考えが固まったようだ。


「わかった、仕方ないな。……説明しよう」



 織原さんは、痛恨という表情で、苦々しい口調でそう言った。

 そしてその後に私が彼から聞かされたのは――。


 これまで、想像したこともないような話だった。

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