コーヒーと泣き言
温かいコーヒーがふわりと湯気を立てている。
静かなジャズのナンバーの中でも、とびっきり静かなピアノの曲が流れる中。
私は織原さんに、ぽつぽつと話をし始めた。
忙しかった仕事、それでも精一杯頑張っていたこと。
突然わかった彼氏の裏切りのこと。
仕事を辞めてしまったこと。
彼氏との関係を切って、一緒に住んでいたアパートを飛び出してきたこと。
そして、これからへの不安のこと。
織原さんは時折の相づちを挟みながら、私のうまいとも面白いとも言えない話をただ聞いてくれた。
落ち着いて話せたとは思う。私はもう泣いてはいなかったし、涙も出てはこなかった。
でも心はやっぱりグラグラしていたので、変に忠告や同情の言葉がないのが、かえってありがたく感じられた。
話を聞いてくれる織原さんは、カフェのマスター。
話を聞いてもらっている私は、カフェのお客。
私にとっても彼にとっても、お互いは客と店主という関係で、それ以上でもそれ以下でもない。
でもそんな関係が今はありがたかった。
友達にも家族にもまだ言う勇気がなかったから。
ただ話を聞いてもらえる、顔を知っているだけの……だけど信用できる人。その存在が、本当にありがたかったのだ。
「でも、こんな散々な有り様でも……。私、今日で二十六になりました」
「お誕生日だったんですか」
ひと通り話した後。
そういえばと思い出したことをつけ加えたら、織原さんは目を丸くした。
私はうなずいた。
「はい。最低……。本当に、最低の誕生日です」
今日はもう本当に、色んなことを諦めた。乾いた笑いが出てしまう。
矛先を誰かに向けるわけでもないけど、口調もちょっと恨みがましくなってしまった。なんとも情けなかった。
そうして話し終えた私は、そこでやっとひと息つけて黙り込んだ。
冷めてしまったコーヒーを口に含む。
ちゃんとおいしいけど、せっかくのマスターのブレンドがもったいなかったなあと思いながら。
「月島さん」
「え? はい」
声をかけられたのは、ちょうどかかっていたジャズの曲が切り替わった、その時。
名前、覚えていてくれたのか。
そんなこと考えていると、織原さんが私の前に何かを差し出してくれた。
なんだろう?
そう思って見れば、それはお皿。
お皿の上に乗っているのは、ホイップクリームの添えられたガトーショコラだ。
表面にはさっと粉砂糖がかけられ、飾られたミントの緑がワンポイントになっている。
「あ、あれ? ガトーショコラ……私、頼んでないですよ」
「ええ。嫌いではなかったですよね?」
「はい。むしろ大好きです、チョコレート系のお菓子。でも……?」
意図を尋ねる視線を、織原さんに向ける。
すると彼は優しく目を細めて微笑んだ。
「お誕生日おめでとうございます」
「あっ……! えっ!?」
「あいにく王道のショートケーキではなく、キャンドルもないのですが」
「えっ、いやそんな! ええと……そういうつもりでは……。なんだか申し訳ないです」
私はすっかり慌ててしまった。
プレゼントをせがむつもりはなかったのだ。
すっかり恐縮してしまい、彼とお皿を交互に見てあわあわしてしまう。
それを見た織原さんが、やや苦笑気味に答えてくれる。
「申し訳ないも何も。勝手ながら用意させて頂いたものですので。もし、ご迷惑でしたら残して頂ければと」
「迷惑なんて! そんなことはないです、嬉しいです。今日一番に嬉しいんですけど」
「それは良かった。けど?」
「けど、その……一方的に話を聞いてもらってですよ? その上ケーキまで頂くなんて、そんな」
この上さらに迷惑をかけてしまうのは、厚意に甘えすぎだろう。さすがに申し訳が立たなくなってくる。
そう言おうとしたところで、マスターが微笑んだまま口を開いた。
「……実は、ひとつだけお願いもありまして」
お願いと言われて、思わず居住まいを正す。
「何でしょう……?」
「当店は普段、どなたにもこうしたサービスは行っていませんので……。このことを、どうか私とあなたの間だけの秘密にしておいて頂ければ、と」
「秘密」
良いでしょうか? というふうに小首を傾げる織原さんは、茶目っ気たっぷりな表情。
いつも穏やかで知的で、どちらかと言えば澄まし顔の織原さん。
だからすごく意外だった。
この人、そんな表情もするんだなあ。
不意をつかれて、ちょっとドキッとしてしまった。
「……わかりました。じゃあ、マスターと私の間だけの秘密で」
「そうして頂けると助かります。改めて、お誕生日おめでとうございます」
ガトーショコラと織原さんを交互に見つめる。
またうるっと来そうだった。
少なくとも、最低の誕生日とは言わなくて良くなったかもしれない。
「ありがとうございます。あの……、本当にありがとうございます。何から何まで」
「お気になさらず。微力ながら、頑張っている方の応援をしたくてこの仕事をしているくらいです。お力添えできたなら何よりです」
そう言ってもらえるのが、なんだか胸に深く染みた。
そうだよ、私、ちゃんと頑張っていたよね。
仕事も生活も恋愛も。
人よりうまくやれなくても、頑張っていたんだ。だからそのことには胸を張っていいんだ。
折れてへこたれていた心に、添え木をしてもらえたような、とでも言えば良いのだろうか。
ほんの少し、気持ちが軽くなった気がしたのだ。
その後、ありがたくガトーショコラを頂いた。
いつものようにグラスを磨いているマスターには感謝の会釈をしつつ、ケーキにフォークを入れる。
さっくり焼きあがった表面。対照的にしっとりズッシリの質感をした内側。
口に入れれば濃厚なチョコレートの風味。でもとても口溶けが良くて、ホロリと崩れていく。
素直に、おいしい。
そしておいしいと思えることが幸せだった。
置きっぱなしだったスマホを確認したら、いつの間にか家族や友達からお祝いのメッセージが届いている。
……うん。
最低最悪っていう気持ちが薄れてきた。
ありがたさを噛み締めながら、一件一件にメッセージを返していく。
みんな私のことちゃんと思ってくれているのが、やっぱりとても心に染みていく今日だった。
今回のこと、まだみんなには言えないけど、いつか良い報告と一緒に話せたらいいなと強く思った。
ポーン、ポーン。
鳴り響くのは、柱時計が時を告げる音だ。
いつの間にか、お店の閉店時間の夜八時になっていた。
あの後ぽつぽつとお客さんが来ては帰り、今残っているのは私だけ。
気づけば、すっかり長居してしまっていた。
このままではマスターが店を閉められない。早く帰らなくては。
「ごちそうさまでした。長々と居させてもらって、ありがとうございます。もう閉店時間ですし、そろそろ帰りますね」
「ありがとうございました。またお待ちしていますよ」
「はい、またきっと」
お会計を済ませて、立ち上がる。
立ち上がってみれば、目に入るのは置いておいたスーツケース。
そうそう、結構なお荷物があるのだった。
とはいえエレベーター側から回り込んで外に出るのは、やはりちょっと面倒だ。
無理やりだけど、階段で登ってしまおう。
そう思ってスーツケースと一緒に階段の方へ向かいかけたところで、織原さんが声をかけてくれた。
「階段で出られるんですか? お荷物がありますよね、お手伝いします」
「ああ、いえ、ひとりで大丈夫です。さっきだってこれ持って降りてきましたし」
笑いながら答える。
わざわざ彼に手間をかけてしまうのも申し訳ない。
そう思っているうちに、織原さんはカウンターから出てきてしまう。
「無理なさると危ないですよ」
「意外と力、あるんです。全然、大丈夫ですよ」
もうこれ以上、織原さんに何かしてもらうのはとても気が引ける。
私はそのまま出入口の扉に向かおうとした。
後で考えると、急いで周りをよく見ていなかったのがいけなかった。
しかもカフェの店内はそこまで広いはずがないのに、スーツケースを引いて急いだのもダメだった。
徹夜と疲労のせいで、完全に判断力が鈍っていたのだと思う。
結果――。
気づいた時には遅かった。
鉄製の傘立てにスーツケースをおもいきり引っ掛けてしまったのだ。
大きな音、倒れる傘立て。慌てて元に戻そうとして、体のバランスが崩れる。
ついていないことに、その瞬間に突然視界が揺らぐ。考えてみれば昨日から一睡もしていない上にこの修羅場だったのだから、疲れが限界に達していたのかもしれない。
なんとかその場に踏み留まろうとしたけど、足がもつれたのを立て直せない。
体がバランスを失いぐらりと傾いてしまう。
体の下になる場所には、倒れた傘立てがあった。
アンティークものの傘立ては、大きくてゴツゴツした鉄製。倒れた向きが悪くて、尖った部分がこちらを向いている。
(あっ……やば……)
これ、刺さる。
このまま、この上に倒れてしまったら?
もしかして、死――。
最後まで考えることはできなかった。
私の目の前は真っ赤になった。




