夜明け前
夜明け前が一番暗い、と言う。
ただ待つことしかできないひとりの夜は、とても暗くてとても長かった。
物音がするたびに、外を気にしてしまう。
理市さんが今にも帰ってくるんじゃないかって。
それともクロードさんが……。そちらの可能性は正直考えただけで身震いしてしまう。
私はまた理市さんの優しい笑顔を見ることができるのだろうか。
ううん。弱気になってはいけない。
私に触れる力強い手を思い出す。柔らかで低く心地の良い声を思い出す。
必ず、彼は必ずここに戻ってきてくれる。
一緒に生きてくれるって、そう約束してくれたのだから。
リビングでひたすら時間が過ぎるのを待っていると、ふとソファに引っ掛けられた理市さんのシャツが目に入った。
出かける時に着替えて行ったのだろうか。
心細さを和らげたくて、すがるようにシャツに手を伸ばす。
抱き締めると、ふわりと漂うのは微かに甘い彼の香り。
(理市さん……。無事帰ってきて下さい……)
どこに届くわけでもない祈りだけど、願わずにはいられなかった。
何にも手がつかないまま、時間だけが過ぎて行った。
そして、どれだけの時が流れただろう。
(もうすぐ、夜が明けるかな……)
カーテンの隙間から覗くと、空が少し白んで来ている気がする。
解けない緊張に負けて、胃の辺りがずっとギリギリと痛んでいる。
でも、まだ理市さんは戻ってこない。
その時だった。
玄関の方で何か物音が聞こえた気がする。弾かれたように私はリビングを飛び出していた。
見れば、ちょうどカチャリと音を立てて扉が開くところ。
開いた扉の向こうにいたのは――。
いつもより乱れているけど、夜の色をした綺麗な短髪。闇に溶けそうな黒のスタンドカラーコートとスラックスをまとったしなやかな長身。白皙の肌、絶世の美貌。
少したれ目がちな目が、私を見た途端に優しい笑みの形に細められる。
そこに立っていたのは、もちろん、理市さんだった。
「……っ!」
何か言うのも忘れて駆け出し、私は彼に抱きついていた。
がっしりした腕は、勢いがついていた私の体を難なく受け止めてくれる。
一瞬の間も置かずにきつく抱き締められた後で、彼の骨ばった手が私の頬に優しく添えられる。
「……ただいま、月島」
「おかえりなさい、理市さん」
私を映すのは澄んだ薄茶色の瞳。長い睫毛が影を落としているその目には、穏やかさと激しさの両方が宿っていて。
気づけば言葉にならない嬉しさと安堵が、涙になって零れ出していた。
無事だった。約束通りに帰ってきてくれた。
良かった。本当に……良かった……。
泣き続ける私の涙をそっと指ですくってくれた理市さんが、悪戯さを含んだ声音で言った。
「ずいぶん泣き虫になったな」
「もう……からかわないで下さい。本当の本当にすごく心配してたんですから」
不意に額にキスを落とされて、顔に熱が上る。
びっくりして理市さんを見上げれば、端正な顔には思わず見惚れてしまいそうな微笑が浮かんでいる。
「ありがとう、月島」
とっさに言葉が出てこなくてうなずき、私に触れてくれている彼の手に頬ずりをした。
いつも器用に動く大きな手は温かくて。
この人がちゃんと生きてる。そんな当たり前のことが嬉しくてたまらない。胸がいっぱいだった。
そのまま、私はあるお願いを口にしてみた。
彼が無事に帰ってきたら、頼んでみたいと思っていたこと。
「あの、理市さん。風優子って呼んでくれませんか、私のこと」
意外な申し出だっただろうか?
理市さんは目を丸くして何度かまばたきをした。何も言われないので慌てて続ける。
「嫌だったら大丈夫です。でもその、大事な人には私のこと、ちゃんと名前で呼んで欲しいというかですね……」
言い終えてちらりと様子を伺ってみると、彼はふわりと花が咲くように笑み崩れていく。
「風優子。君が許してくれるなら喜んで」
彼が私の名前を呼んでくれている。
それだけのことなのに、胸の高鳴りが止められない。
そう言えば以前、帝都ホテルで大樹と村崎社長から庇ってくれた時に一度だけ名前で呼んでくれたことがあった。
あの時と同じように、理市さんは私の手を取る。
そして恭しく手の甲に口付けをした。
こ、こんな……。相手が私じゃなければ恋愛小説の挿し絵だ。
まるで王子様みたいな、なんて言葉を現実に使う日が来るなんて思わなかった。
大好きな人にこんなに大切にされて、守られて、私は――。
「風優子?」
「理市さん、大好きです。一緒にいてください。ずっと、ずっと……」
「ああ。『約束』させてくれ。君を大切にすること。ずっと一緒にいることを」
とろけそうになるくらい優しくて、長いキスをする。
抱き締められている時間は、どこまでも甘くて。
こうして一緒にいられる時間の尊さと幸せさが、心と体の芯まで染み込んでくるみたいだ。
まだ夜は明けていない。
でも、もう怖いことは何もなかった。
ただ、この人と生きていきたい。生きていくのだという強い気持ちが、心をいっぱいに満たしていた。
新しい『約束』とともに。




