理市Side② 過ちと距離
月島と過ごす日々が流れていく。
消えない熾火のような好意はずっと心の中にあって、俺は平静を保とうとする理性と揺れ動きっぱなしの感情とのせめぎ合いに苛まれていた。
それでも、上手くやれていたと思う。彼女には気取られていなかった。
しかし――俺は大きな過失を犯していた。
そもそも俺は彼女に近づくべきではなかったのだ。
それに気づいたのは、あの男が――クロードがライムライトに現れた時。
もう手遅れだった。
クロードは俺と同じルーツを持つ吸血鬼だ。
吸血鬼になったばかりの俺の前に姿を見せてからは、事あるごとに執拗に絡んでくる。いったいどういうつもりなのか本心は分からなかったが、どんな時でも事態をややこしくかき混ぜる厄介なトラブルメーカーでしかなかった。
『リイチが大事にしているって言う薔薇を、見せてもらおうと思って』。
機嫌良さそうに言うクロードの目。獲物を見定める猛獣のような気配を隠そうともしない。
嫌な感覚に肌が粟立つ。
その目が月島に向けられているとわかった瞬間、血の気が引いた。クロードは、月島を狙っているのだ。
そしてクロードとの睨み合いになった後に、俺はもうひとつの事実にも気づいた。
吸血鬼の力を見る度に、月島が見せていた怯え。
(月島は、……やはりまだ俺のことも怖がっている。可哀想なくらいに)
気づいてしまったら、尋ねずにはいられなかった。
「君は、俺が……怖いよな?」
静まり返った店内で、彼女にそう問いかけた時の表情が胸に突き刺さって忘れられない。
蒼白な顔色で、声も出ないくらいの恐怖に耐えていた。
彼女を離したくないだと?
よくそんなことが言えたものだ。
こんなにも怯えているのは誰のせいだ?
余計な危険に巻き込んだのは?
彼女をまともに守ることさえもできないのに。
おこがましいにも程があった。
(……諦めろ。関わるな。難しいことじゃないはずだ。これまで通り、そうしろ――)
自分に言い聞かせる。
さきほどまでの名残で、まだ俺の目は赤いのだろう。
その目は彼女が怖がる吸血鬼の証に他ならない。
俺にはもう怯える月島を見ることができなかった。
彼女のそばにいる資格があるわけなどなかった。
初めから、そんなものはなかった。
俺が月島と距離を置くことにしてからも、クロードは彼女に執着を見せていた。
彼が一人の『人間』にこだわるのは珍しい。どうやら俺への嫌がらせだけというわけでもないらしい。それがまた不安と苛立ちを煽ってくる。
ライムライトに毎夜顔を出すようになったクロードは、接客する月島を見ながら俺に言う。
「本当に可愛いし面白いよねえ、フユコは。ねえリイチ、彼女の怒った顔を見たことがあるかい。とても魅力的なんだよ」
「あんたの浮わついた話を聞く気はないよ」
「本当は気になるくせに」
人の心を見透かし、嘲るように笑うのが酷く癪に障った。
そして、クリスマスの夜に決定的な事件が起こった。
店外の立て看板を片付けに行った月島が戻ってこなかった時、嫌な予感はしていた。
急いで月島を探す。血の匂いを辿って路地へ足を向ければ、はたしてそこには今まさにクロードに血を吸われようとしている彼女の姿があった。
壁際に追い詰められた月島の白い首筋に、クロードの牙が食い込もうとしている。
その瞬間、俺は二人の間に割り入り、クロードから月島を奪い取っていた。
自分ごときのどこにそんな力があったのかはよくわからない。
一つ確かなのは、激しい怒りを覚えていたことだ。反撃とばかりにクロードに抉り切られた背中、その痛みを感じないくらいに。
獲物を横取りされる形になったクロードは、怒りを隠さなかったが、あくまで寛容を気取っていた。
「守るつもりなんだ? フユコのこと」
そんなことできはしないのにと言いたげに、クロードは嗤っている。
事実、今の俺など足元に及ばないくらいの力を、この男は持っている。
十二月三十一日。
その日に月島を連れ去りに来る。
余裕の表れなのか、クロードはそう期限を切って消えた。
たとえ命を懸けたとして、俺に月島を守り切るのは難しいだろう。
それでも、退くつもりは一切なかった。絶対に、一歩も。
クリスマスの翌日。
あれほど恐ろしい目にあったばかりなのに、月島はわざわざ俺の部屋を訪ねてきた。
前の晩に受けた傷の痛手が大きく店を開けなかったのを心配してくれたらしい。
緊張した顔で、作ってきてくれた弁当の包みを差し出す彼女。
その姿を見てたまらなく愛しくなってしまい、気持ちを押し隠すのに苦労する。
傷のこともあって血が足りず、帰ってもらうか正直悩んだのだが、話さなければならないこともあるので家に上がってもらった。
リビングに月島を通したあと、一番にしたのは謝罪だった。
謝ってどうにかなる問題ではない。それでも彼女をとんでもない事態に巻き込んでしまったことを謝らずにいられるわけがなく、ただ頭を下げた。
「理市さん……」
声とともに、急に気配が近づく。
身を乗り出した月島が、息がかかるほどの近さまで来ているのに気づき、ゾクリとする。
視線を上げれば、彼女の黒くつぶらな瞳が一心に俺を見つめていて。
『あの時来てくれて、嬉しかった。幸せだ』。
彼女はそう懸命に訴えかけてきた。
嘘でも慰めでもないことは、必死な表情と声音からも伝わってくる。
自分の命を懸ける――それすらあの時はほんの些細なことで、なんの躊躇いもなく可能だった。
彼女を守りたい。その一念で。
それは俺の身勝手で、ただの自己満足なはずなのに。
(そんな顔をされると……)
触れたい。少し手を伸ばせば簡単に引き寄せられる距離。
いや、ダメだ。それだけではおさまらなくなってしまう。
連鎖的に耐えがたい渇きまで覚えて、慌てて身を引こうとする。このままでは本当に何をしてしまうかわからない。
それなのに月島が自分でブラウスのボタンを外すのを見て、我が目を疑った。
彼女は俺に血を吸えと言う。
俺になら良い、と。
(勘弁してくれ……)
ただでさえギリギリのところで理性を保っているのに、勘違いまでしそうになる。
俺をじっと見つめる彼女の瞳が揺れている。
黒目がちな愛らしいその目に、吸い込まれそうな錯覚すら覚えて――。
なんとか何もせずに彼女を引き離すことができたのは、かなり奇跡的だったと思う。
安堵の息を吐いていると、月島が打ちのめされたような顔で言った。
「そうですよね……。私じゃ、ダメですよね。何をしても差し出がましくなってしまって……ごめんなさい」
今度は何を言ってる?
彼女がそんなことを言い出す理由を考えた時に、あの男の顔が浮かんだ。大方クロードが余計な話をしたのだろう。
問い質すと案の定で、しかも想像よりずっとひどい。最悪な事実を知られていたことがわかった。
言い訳できることでもない。ただ、今の俺が好きな相手は義姉とは違うのだというのを伝えるのがやっとだった。
まさかそれが君だと言う訳にもいかない。
軽蔑されたり呆れられた様子がないのが幸いだった。
十二月三十一日の大晦日。
その日は何がどう転ぶにしても、区切りにならざるを得ない日で。
それまでの間はせめて彼女に好きに過ごしてもらいたいと思った。
やりたいことはないかと尋ねてみたら、彼女は意外な返事を寄越した。
普通に働きながら、以前に行ったビストロへ行ったり、ドライブへ行ったり。ドリップの上達したコーヒーを振る舞い、何気ない話をして、俺の好きな映画を一緒に見る。
月島が求めたのは、そんなささやかな望みで良いのかと疑問に思うようなことばかりだった。
「理市さんに付き合ってもらえるなんて」
嬉しそうに言ってくれる彼女と過ごす時間が楽しくないはずがなく。
求められたのを良いことに、一緒に過ごす数日間。
幸せじゃなかったと言えば大嘘になる。
そうして十二月三十一日を迎えるまではあっという間だった。




