理市Side① 彼女と出会った時から
『理市さん』。
俺の名前を呼ぶ月島の声が、頭の中でリフレインする。
彼女は今すっかり力を失った状態で、俺に体を預けて目を閉じていた。
俺が彼女の血を吸ったからだ。
(かなり負担をかけてしまったな……)
唇に残った血を拭い、月島を抱えてベッドルームに運ぶ。
やむを得ない事情があるとはいえ、彼女の血を吸うのは不本意だったから、どことなく幸せそうな寝顔と健やかな寝息に安堵する。
(月島、すまない。それでも、俺は……)
どうしても必要なことだったから。
眠る彼女を見つめる。
彼女と共に生きるためなら、俺は人間であることを捨てても後悔はない――。
昔の俺には、自分なりの夢も目標もあった。
幼い頃からあった、人の役に立ちたいという強い気持ち。特に大事な家族に対してはなおのこと、そばにいて力になりたくて。
家業の規模の大きさに正直重圧は感じていたけど、せめて父や兄の仕事の助けになるのが目標で、そのために人一倍努力したし、様々なことを学ぶようにもしていた。
何もかもが変わったのは、俺が吸血鬼になってしまったから。高校生の時だった。
ただ初めのうちは、今までの生活を、夢を、どうしても諦められなかった。
不自由をたくさん感じてでも、何とか人として生きていこうと足掻いていた。そうできるとも思っていた。
でもあの日――。
「痛っ……」
「美琴さん? 大丈夫ですか?」
大学二年目を迎えた夏。
キッチンに立っていた美琴さんが悲鳴を上げたので、慌てて駆け寄った。
美琴さんは兄の奥さんで、兄が学生時代からの長い交際の末に結婚した人。優しく気さくな人で、俺のことも可愛がってくれる。
俺は彼女に特別な感情を持っていた。けど、それは心の中だけで、口にも態度にも一切出したことはない。くだらない横恋慕より、兄と美琴さんがはるかに大事だったからだ。
そのはずだった。
「ごめん、理市くん、驚かせて。うっかり包丁で指を切っちゃって……。絆創膏取ってきてくれるかな?」
「わかりました、今――」
それが目に入ったのはほんの一瞬だったのに。
(――赤い。血が……)
手から滴る血から、全く目が離せなくなっていた。
次に気がついた時、俺は朦朧とした様子の彼女の首筋に牙を立てそうになっていた。
吸血鬼は人間を魅了し、操ってしまうことさえもできる。
俺を吸血鬼にした男が言っていたのを思い出す。
つまり、俺は美琴さんを無理やり操って……。
俺は自分の好きな人に――兄の大事な人に、何をしようと?
(俺は……、俺は……なんでこんな……。本当に化け物じゃないか)
吐き気がしそうだった。
今の俺は、周りにいる人たちを人形か何かのように操ってしまえるのだ。それも、あまりにも容易く。
いくら人間の真似事をしていても、もう自分は人間じゃない。現実を突きつけられた気がした。
更に追い打ちをかけたのは、俺の周りを探るように見え隠れする他の吸血鬼の影。
今のままではどうやっても太刀打ちできない存在。
もう、家にはいられなかった。
近くにいる人を危険に巻き込む可能性が高いどころか、俺自身が危害を加えてしまう可能性まであるのだから。
その頃には、人と関わるのさえ自分にはおこがましいとしか思えなくなっていた。
カフェを開いた理由は、それなら人と深く関わらずにできる仕事だと思ったから。
そしてこんな自分なりに、誰かにとっての安らぎや手助けとなる場を作りたかったからだ。
居心地の良い場所にしようと思った。
落ち着いた調度品で、ゆっくりくつろげる雰囲気を整えて。BGMはジャズに。
メニューはそんなに多くなくて良い。コーヒーと紅茶、ケーキとチョコレート。軽食が少し。
カフェの名前はライムライト。
舞台の照明として、誰かを照らす場所。
ささやかな手伝いをするくらいなら、今の俺にも許される気がしたのだ。
幸いにして店は軌道に乗り、様々な人が訪れてくれるようになった。
月島もその一人だった。
月島に出会ったのは、彼女がまだ学生の頃だ。
素直に、きれいな子だと思った。
肩までの艶やかな黒髪をさっとくくって束ねただけの、化粧っ気のない顔。飾ればいくらでも華やかになりそうなのに。
俺から見たらずいぶん小柄で華奢に思えたが、芯の強そうなしっかりとした存在感があった。
カフェ・ライムライトに初めて顔を見せた時の彼女は、今にも泣きそうなのを意地で堪えているのがすぐにわかった。
世間話で俺にこぼした話によると、大学の講評会が散々だったのだという。懸命に向き合い、解決策を探していく姿は強く印象に残った。
その後、月島はよく店に顔を見せるようになる。大体は月に一度、課題にかなり詰まっている時には二度。
時折、話もした。
「我慢強くて丈夫なのが取り柄なんです!」
彼女はそう言っていつも笑っていた。
学業、アルバイト、サークル、それに恋。ひたむきな様子の彼女は好ましく映った。俺の目には眩しすぎるくらいに。
月日は流れて、就職が決まったことと大学を卒業することを話して、彼女は店に姿を見せなくなった。
もう彼女の人生に、俺が関わることはないだろう。卒業までの憩いの場になれたなら本当に良かった。
そう思っていたのだが――。
まさかの再会をしたのは数年後の春、四月十日のことだった。
「こんばんは」
大きなスーツケースを持った月島が、カフェ・ライムライトに姿を見せたのは、春にしては冷える夜だった。
何年かぶりで彼女を見て、思わず眉をひそめそうになるのを堪えた。何とか笑顔を作る。
(確実に何か良くないことがあった……よな、これは)
はっきりとやつれている。
目の下の隈に、ひどい顔色。足取りもおぼつかない。
とどめは今にも泣き出しそうな表情だ。
あの眩しかった彼女が、もう折れてしまいそうなくらい頼りない風情で佇んでいる。
そしてしばらくすると堰を切ったように泣き始めた。
我慢強いのが取り柄と言い、ずっとその通りの頑張りを見せていた彼女に、いったい何が起こったのだろう。
「もし宜しければ……お話、お聞きしましょうか? あなたの差し支えない範囲で」
決して泣かなかった月島の涙。
それを見た時、俺は自分でも思ってもみなかったことを言っていた。
カフェのマスターとして誰かの話を聞いても、自分から問いかけたことはただの一度もなかったのに。
月島は驚いたようだったが、訥々《とつとつ》とつらい事情を打ち明けてくれた。
あまりにもひどい裏切りの話だった。
それを聞き、彼女のような人の気持ちにこそ、寄り添いたくなった。俺にできることなどほとんどなくても。
その後の不慮の事故で、人間ではないことを月島に知られてしまった時。そして彼女に魅了が効かないとわかった時。
俺は彼女に取引を持ちかけた。
『俺は彼女の望みを叶え、彼女は俺の秘密を守る』。
自分の今の生活を守りたい気持ちがあったのは間違いない。
ただ、彼女ならこんな取引をしなくても、きっと秘密を喋るようなことはしなかっただろう。
それでもそんな話をしたのは、彼女相手だからこそだった。
失意の底の暗闇に突き落とされた小さな星。
月島風優子という女性を、再び輝く舞台に戻してやりたい。
そうしたいと、何故か強く思ったから。
「……わかりました。『約束』しますね、私。今日のこと、理市さんの秘密、絶対誰にも言いません」
吸血鬼の俺に怯えながらも、彼女は真摯な目で『約束』してくれた。
そこから、全てが始まった。
「私も結んだ『約束』の重さにふさわしい行動がしたいんです」
そう宣言した月島は、俺が思っていた以上に大胆で律儀だった。
俺のことが恐ろしいだろうに緊急時には自分の血を吸えと言ったことに始まり、仕事はもちろん全力。すぐに色んなことを吸収していった。週に五日もの朝食作りを提案された時にはさすがに恐縮したのだが、彼女は全く譲らなかった。
彼女は少しずつ輝きを取り戻し始めた。
全てにひたむきで、これまで誰もいなかった俺のそばにいてくれて、魅了することができない。
そんな存在はあまりにも特別で――。
時々正視できなくなるのは、眩しさのせいだけじゃない。
俺はどうやら、月島に惹かれている。
なぜ自分があの春の夜に彼女を放っておけなかったのか、その頃には気づいていた。
自分の想いをはっきり自覚した時、最初に思ったのは、『彼女に想いを伝えるべきではない』と言うことだった。
月島は恋愛に絡んで、あまりにもひどい経験をしたばかりだ。
おまけに俺は吸血鬼で、彼女は人間。魅了の効果がないせいか、彼女には吸血鬼はとても恐ろしいものに感じられるようだから。
それでなくても彼女は、俺とは十も離れた若い女性。店の従業員でもある。オーナーの俺に好意を向けられても断りにくいし、迷惑甚だしいだけだろう。
(思えば、叶わない恋ばかりしているな。馬鹿か、俺は……)
気持ちを心の底に押し込めたままにするのは慣れている、はずだ。
習慣になった朝食。彼女の笑顔と手料理。
ある雨の日には、トラウマに苛まれ具合を崩した彼女を迎えに行き。
迂闊な彼女を抱えて支えることになった日もあった。無茶をする彼女には、心臓が持たない気持ちにさせられる。
ホテルのディナーに連れ出すことになった時、美しく着飾った彼女に目がくらみそうだった。
彼女の名前を呼び手を引いた時は、冷静さを失いそうなのを何とか堪えた。
極めつけは彼女の元の恋人たちを見た時。
彼女をひどく傷つけ、あんな顔をさせた連中に怒りが湧き上がって、抑えきれなかった。
(これは……。本当に参ったな)
思いのほか、俺は冷静ではいられなくなっていた。
ふとした瞬間に月島を目で追ってしまっている自分を意識して、頭を抱えたい気分になる。
彼女を離したくない。
自分のものでもないのに、そんな気持ちが大きくなっていく。
(ダメだ、いい加減にしろ……何様のつもりだ、お前は)
『理市さん』。
彼女が俺を呼んでくれる澄んだ声と明るい笑顔が、どうしても頭から離れない。
どうしようもなく、好きになっていたのかもしれない。
彼女と出会った時から。




