12月31日②
お湯を沸かしていたポットの保温が切れる通知音に、はっと我に返る。
気づけばずいぶん長い間、理市さんにしがみついてしまっていた。
「理市さん……す、すみません!」
急激に恥ずかしさが戻ってきて、慌てて身を離す。
「いや、謝ることでは」
「あっ……コーヒーも冷めちゃった……」
「そんなにしょんぼりしなくても」
おかしそうに笑う理市さんの砕けた笑顔を見て、ほっとする。
私も彼と一緒になって笑っていた。
いつも通りの朝みたいで安心する。やっと空気が緩んでいた。
「クロードが来るとしたら、たぶん夜……初めに彼が店に来た時くらいの時間だろう。まだ時間はあるから、それまで君の好きなことをしようか」
「それじゃあ……そうですね、もう一度一緒に『ライムライト』を見ませんか?」
そう提案すると理市さんは意外そうな顔をした。
この前見たばかりなのだから、それはそうかもしれない。
「せっかくだし理市さんちの大きなテレビで!」
「それは構わないけど」
「じゃあ決まりですね! 今日は拝島さんとこの良いチョコレートも買ってあるので、コーヒーは理市さんがよろしくお願いします」
私はお構いなしに理市さんの広い背中を押す。
こうして『ライムライト』アンコール上映会が開始されたのだった。
斜光カーテンの引いてあるリビングは、昼間の今でも映画鑑賞にもってこいだ。
淹れたてのコーヒーの良い香りが漂う中、ソファに横並びになって、私たちは映画を見始める。
上映時間はそう長く感じなかった。
映画が終わったあと、まだ灯りもつけていない部屋の中。
私は理市さんの端正な横顔を眺めていた。
彼は珍しく私の視線にも気づかずに、暗くなった画面を見つめているようだった。
映画の余韻に浸っているのだろうか。それとも、いよいよ残り少なくなってきた時間のことを考えているのだろうか。
「理市さん」
好きという気持ちの他に、もう一つ大事なことを伝えなくては。
言葉を探しながら、すぐそばにいる理市さんに向き合う。
「理市さん、前に『自分は照明に戻る』って言ってましたよね」
「ああ、そうだな。もう君は俺の支えがなくてもやっていけると思ったから」
「私、あなたに自分らしい生き方を照らし出してもらえたこと、とても感謝しています。ひとりじゃ絶対に立ち直れなかったから。でも今はちょっと違う思いがあって……」
「それは、どういう……?」
私は小さくうなずいて、一番大事なことを伝える。
「もし人生が舞台だとしたら、あなたに照らしてもらうんじゃなくて……。私は、そこにあなたと一緒に立ちたいんです」
理市さんは、何度もまばたきをして。
驚いた顔のまま、私の言葉を繰り返していた。
でも、やがて微笑んだ。
それは、心をぎゅっと鷲掴みにされるような、優しくて温かい笑みで。
「一緒に舞台に立つ、か。そうできたら素敵だな。本当に、とても……」
「もちろん途中退場はなしです。最後まで一緒に。ね?」
そっと手を握ったら、しっかりと握り返してくれた。
大きくてごつごつした、理市さんの手。
彼はしばらく黙り込んで何か考えていた。
そのあとも何度も何か言いかけてはやめていたけど、ついに思い切ったように口を開いた。
「……月島。頼みがある」
「頼み? 何でしょう、私にできることなら……」
「俺に、君の血をくれないか?」
意外な申し出だった。
理市さんはすごくはっきりと血を吸うのを嫌がっていたから。クロードさんからひどいケガを負わされた時でさえ、吸血を拒んでいた理市さんなのだ。
でも、その彼があえて私にそんな頼みをするのは……。
理市さんは目を伏せたあとに、私の問いかけの視線に答えてくれた。
「クロードから君を守り、俺も死なない方法が一つだけある。俺が吸血鬼としての力をちゃんと使えれば良い」
あ……確かに……。
人間の血液が吸血鬼の不思議な力の源だと、クロードさんが言っていた。
理市さんが十分に力を使えないのは、血を吸わないから。だったら解決方法はたった一つだ。
「でも……。それじゃ、理市さんは……」
人間でいたいから。
それは理市さんが血を吸わない理由。
彼にとって、ものすごく大事なはずだ。
人間でいるのを諦めてしまう気持ちを考えると……。
私の心を見透かしたのか、理市さんは笑ってくれる。
寂しそうだけど、でも揺るぎないものを秘めた目で。
「構わない。君と一緒に生きるためなら」
……理市さんは覚悟してくれたんだ。
私を守ってくれること。それだけでなく、一緒に生きてくれることを。
今まで大事にしていたとても大きなものと引き換えにしても。
だったら、私も今が覚悟を決める時だ。
「大丈夫です。私の血を吸ってください。ただ……」
「ただ?」
こんなことを言うのはものすごく恥ずかしかったけど、私は思い切って言ってしまうことにした。
「キス……してくれませんか? お守り代わりに」
自分で言ったくせに、恥ずかしくて理市さんの顔が見られない。ウブな中学生か、私は。
引かれちゃったかな……。
後悔したものの、もう引き返せないので勢いで言い切る。
「やっぱりその……血を吸われるのは、とても怖いので。でも、もしキスしてもらえたら勇気が出る気がするんです」
そう言って顔を上げた瞬間、唇にひやりとした柔らかな感触が触れる。
それが自分で要求したキスなのだと気づくまで、ちょっと時間がかかった。
「本当に敵わないな、君には」
ソファの隣にいた理市さんとの距離が、いつの間にかとても近い。
整いすぎなくらいにきれいな顔を間近で見ると、心臓が跳ね上がる。困ったような流し目が色っぽくて。
これだけ近いと、さっき抱きしめられた時のことも思い出して、更にドキドキしてしまう。
理市さんは細身に見えるけど、男性らしくてがっしりした体をしていた。すごく魅力的な、とんでもなく素敵な人で。
今私は、その人と……。
「月島? 何考えてたの?」
「ええとその……理市さんのことを……」
答えるか否かのうちに、理市さんの顔が私の顔に近づく。
今度はゆっくりと時間をかけたキス。
そんなにも優しい口づけをしたのに、彼は狂おしいくらい熱のこもった目で私を見つめてくる。
「……どうかしてしまいそうだ。君があまりにも可愛いから」
耳に当たる低いささやきと吐息。
そこからは、夢でも見ているかのような心地だった。
抱きしめられながら、たくさんのキスをして。
頭はふわふわしてしまって、とろける寸前。彼のことしか見えない。
きっと今の私の顔は真っ赤に違いない。
でも本当に本当に幸せで。
いけない、だめだ、本題を忘れては……。
血を吸ってもらわないと。
「理市さん。も、もう大丈夫です。大丈夫ですから」
「……怖くない?」
もう赤みを帯びている理市さんの瞳が、薄暗い部屋の中で光っている。
もちろん怖くないわけない。それでも、今はもう……大丈夫。
力強くうなずいて答えることができる。
「はい。だって、理市さんですから」
私の言葉を聞いた彼の微笑みから、目が離せなくなる。
とびっきり柔らかくて優しいだけじゃなく、真っ直ぐな愛さえも感じられるような。そんな笑み。
私は――この人に、本当の意味で魅了されてしまったみたい。
「少しだけ我慢していて。痛くないから」
私がうなずくのを待ってから、理市さんはもう一度私の唇にキスをしてくれた。
そのまま唇でなぞるように首筋に触れられる。首に当たる固いものは……牙の感覚。
痛みを予期した体は思わず緊張で強ばるけど、理市さんの言葉通り痛みは全く感じなかった。
首元が熱い。
じわりと生まれたその熱は、だんだんと体全体に広がっていく。
(なんだか優しくて、暖かくて、気持ちよくなる……)
不思議な気持ちだった。
まるで理市さんの腕に抱き締められている時みたい。
もっと怖かったり、気持ち悪かったりするのかと思っていたから。
これも魅了の効果なのだろうか。それとも……。
(それとも、相手が理市さんだから?)
「月島、待っててくれ。必ず君を守り切るから」
目の前が徐々にぼやけていく。遠のいていく感覚。
理市さんが私の髪を優しく撫でてくれるのを感じて、そこまでで私の意識は途絶えたのだった。
目が、覚めた。
気づいたら私は広いベッドに横たわっていて、部屋は真っ暗だった。どうやらもう日が暮れているようだ。
手探りで明かりをつけると、見覚えのある風景。ここは理市さんのおうちの寝室、彼のベッドだ。
(……理市さん?)
辺りは静まり返って、なんの気配もない。
あれからどのくらい経ったのだろう。
枕元に私のスマホがあった。時間を確かめてみてびっくりする。もう午後八時を回っていたのだ。
慌ててリビングに出てみると、こちらには明かりがついていて、ローテーブルの上にペーパーウェイトとメモ、部屋の合鍵が残されていた。
メモには几帳面できれいな字。理市さんの筆跡だ。
出かけることの他に、冷蔵庫にサンドイッチを作ってあることが書いてある。
こんな時まで私の心配ばかりしてくれて、もう……。
カフェ・ライムライトにも行ってみたけど、クロードさんはもう来た後なのか、店内は明かりだけついて施錠されていた。
(待つしか……ないか)
仕方なく理市さんの部屋で彼の帰りを待たせてもらうことにする。
クロードさんはきっと一筋縄ではいかない相手だろう。
私の血で理市さんがどのくらいの力を得るのかもわからない。
理市さんは……。
頭を振って、嫌な考えを振り払う。
もどかしい気持ちはある。でも今私にできるのは、彼の無事を祈ることだけだ。
(どうか理市さんが無事に戻ってきますように)
首筋には彼に噛まれた小さな傷跡が残っている。
まだ熱を持っている傷が、微かに疼いた気がした。




