12月31日①
大晦日のこの日、カフェ・ライムライトは店休日だった。理市さんと一緒にいつもより遅い朝食を取ったあとは、普段なら出勤の準備をするのだけど、今日は夜までぽっかりと時間が空いたことになる。
(話をするなら今、か……)
朝から考えていた話。
理市さんにクロードさんと戦うことをやめてもらうこと。そのお願いをしなくては。
コーヒーを淹れてくれていた理市さんが、ちょうど二人分のカップを手に席に戻ってきた。
深呼吸をしてから、私は切り出す。
「理市さん、お願いがあるんですけど……」
「どうした? そんなに改まって」
「ずっと考えていたんですけど、私、クロードさんのところに行こうと思うんです。だから理市さんはもう、戦わないでくださ……」
理市さんが見る見るうちにあまりにも険しい顔になって行くので、私は考えていたセリフの全部を言えなかった。
彼はすごく激しい感情を押し殺したような声で尋ねてくる。
「……一応聞くけど。どうして、そんな結論になった?」
「ええとあの……そうすれば、全部丸く収まると思って。ほら、血を吸われても案外平気かもしれないじゃないですか。魅了が効かない可能性もありますから、必ず私がおかしくなっちゃうとも限らないですし」
沈黙が怖くて、何か言われるのも怖くて、私は焦って話を続けた。心配をかけないように、努めて明るい口調で。
「それにクロードさんもたぶん、私みたいな普通の女にはすぐ興味をなくすんじゃないかと思います。そしたら、まあ大体が元通りになりますし。だとしたらケガをするような争いの理由はないわけですから!」
希望的観測が当たる場合だってある。
万が一見込みが外れても、私が我慢すれば良いだけの話で。
そして私は我慢強いのが取り柄。
大丈夫。全部それで上手くいくはずなのだ。
「ねっ、理市さん?」
伺うように彼を見ると、氷のような無表情だ。何を思っているのか全くわからない。
深いため息をついた理市さんは、コーヒーをテーブルに置くと私に歩み寄ってきた。
「月島、触るよ?」
「えっ、はい」
突然言われたから、ふたつ返事でうなずいてしまった。何が何だかわからないでいるうちに、手首を握られる。
「……やっぱり震えてる」
「はい?」
「君が。震えてる」
そう言われてからようやく、自分が震えていることに気づいた。
「あのな。無理しなくて良い。君は、いつもそうやってひとりで思い詰めてしまう」
厳しい表情とは反対に理市さんの声は優しくて。
声を聞いていると、決心がぐらつきそうになる。でも……。
「でも! 今回は譲れないんです、だって!」
「だって?」
「だって理市さんが死ぬかもしれないなんて、嫌なんです。絶対にそれはダメなんです! たとえ私が死んだってどうなったって、それだけは嫌です!」
弾みで大きな声を出してしまった。理市さんは目を見開いて私を見つめている。
言葉に引っ張られて、抑えていた気持ちが転がり出てきてしまう。
涙がボロボロと目から落ちてくる。止められなかった。
「私なんてどうなっても良い。それより、あなたが死ぬのが、絶対に嫌……。お願いだから、生きててください……」
あの日赤く染まった、傷ついた背中を思い出す。
上がる血しぶきと、蒼白な顔も。
それでも彼は私を守ってくれた。今度はたとえ死んでしまってもそうするんだろう。
それが、怖くて。
涙で前が見えなくなってしまって。
すがりつくように理市さんのシャツをつかんで、泣いた。
ずいぶん長い間そうしていた。理市さんは、そうさせていてくれた。
「……ごめんなさい。落ち着きました。もう大丈夫です。……そういうわけですから、私は……」
理市さんから離れてドアの方へ向かおうとしたところで、優しく、でもしっかりと両腕をつかまれた。
彼は緊急時以外は許可なく触れてくることがない人なので、思わずドキッとしてしまう。
「行かせない」
「え?」
「君を行かせない、と言った」
今までにない強い口調で引き止められる。
その言葉を証明するみたいに、彼は私を全く離してくれない。
そんな様子は初めてで、すごく驚いたし戸惑った。
「嫌なんだ」
「理市さん……?」
「君は俺が死ぬのは嫌だと言ってくれたな。俺は、……君をクロードに渡すのは嫌なんだ。絶対に」
思わず理市さんの顔をまじまじと見つめてしまう。
真剣そのもので、いつもと違って全然余裕がなさそうで。
(つ、つまり……?)
理市さんは伏せていた目を私へ向ける。
薄茶色のきれいな瞳の中に、私だけ映っていた。
「俺が好きなのは、君だから」
……え?
一瞬息をするのも忘れてしまった。
「り、理市さん、……いま、今、好き、って?」
「言ったよ。聞こえなかった?」
理市さんは、いつでも優しくて、大人で落ち着いていて、誰でも振り返るくらいカッコよくて、私なんかとは住む世界が違っていて……。
そんな、私の好きな人。
手の届かない星のようだと思っていた人。
彼が今、私のことを好きだって言ってくれている。
これは、夢じゃ、ない……?
「あの、そんな……それは『約束』の範囲外なのにどうして……? 私の方は確かに、ずっと理市さんのそばにいたいと思ってましたけど……あっ」
あまりにもびっくりしすぎて、言うべきではないことを口走ってしまっていた。
おそるおそる理市さんを見ると、ふっと笑う優しい顔が目に入る。
「そばにいたいと思ってくれてたのか? ずっと?」
「は、はい。それはそうなんですけど……」
顔が、頬が、もう熱くて。
理市さんを真っ直ぐ見られなくて、うつむきながらぽつぽつと話す。
「そうなんですけど、私は、理市さんの迷惑にはなりたくなくて……。だって理市さんは『約束』だから私に色々しないといけなくなっていたわけで。ただでさえ甘えすぎなのに、身の程もわきまえないで好きなんて言えるわけが……」
「それは違う。……迷惑な身の程知らずは俺の方だと思ってたよ。君とは歳も離れてるし、そもそも俺は人間じゃない。それに、君は吸血鬼を怖がっていたから。必要以上に近づくべきじゃないし、このまま離れるべきだとも」
そんなふうに思っていてくれたなんて、全然気づいていなかった。いったいいつから?
私は一方的に理市さんに踏み込み過ぎた上に、無遠慮に傷つけてしまったと思っていた。
「でも、ダメだった。あのクリスマスの晚、君の声が聞こえた時……。それに今日も。どうしても黙っていられなくて。自分の力も弁えずに」
「それは……理市さんが優しいからじゃ?」
「俺は誰にでも優しいわけじゃない。命を懸けたいと思ったのは、月島だからだよ」
私だから。
その言葉に、また心臓が高鳴る。
どうしよう。あまりにも真剣すぎる眼差しに、ドキドキが止まらない。
言葉が出てこなくなってしまっていると、それをどうとらえたのか、理市さんは話を続ける。
「君は俺のものじゃない。こんなのはただのエゴだというのも、わかってる」
私を止めている理市さんの手に少し力がこもる。
「……君がクロードのところに行きたいと言うなら、本当はそれを叶えるのが『約束』としての筋だ。でも、そう望まれたとしても、どうしても叶えられない」
そう。『約束』では理市さんが私の望みを叶えてくれることになっている。
でも、じゃあ、どうして?
答えを求めて理市さんを見つめる。
彼は苦しげに言った。
「言っただろう、好きなんだ。俺が、俺の勝手で、君を離したくないから」
私の望むことを魔法みたいに叶えてきてくれた理市さん。その彼が、叶えられないこと。
それが、その理由が、私が好きだからなんて。
そんなことを言われたら……。
押し込めていた気持ちの蓋が開いてしまう。
「勝手じゃないです……。私……私だって理市さんのことが大好きです」
また涙が出そうになるのをうつむいて堪える。
泣くな。良い年した大人なのだ、私は。
私が今我慢すれば、理市さんは戦うことなく、傷つけられずに済む。
そうわかっていても、いつもならできるはずの我慢が、全くうまく行かない。
好きだと言ってもらえたことに、心がいっぱいになっていた。
本音があふれ出してしまう。
「私の叶えてほしい望み、本当は違うんです……。何処にも行きたくない。本当は私、理市さんとずっと一緒にいたい……」
不意に、良い香りがした。
コーヒーと、洗いたてのシャツの匂い。あったかくて、それで……。
それでつまり私は――抱き締められていた。
突然だった。
「へっ?」
間抜けな声が出たのに気づくのと同時に、自分がしっかり理市さんの腕の中にいるのを実感してしまう。
顔の火照りが、先ほどまでの比ではない。
「……ごめん、勝手に触って」
そう言いながらも理市さんはそのまま私を抱き締めている。
ドキドキしながらも、同時にものすごく安心もしている私がいて。
「い、いえっ! あの、私のことならいくらでも触って大丈夫ですので!」
理市さんが硬まる気配。その後、笑い混じりの声で言われる。
「……君は本当に大胆なことを言うよな。俺以外にはやめてくれよ」
「あっ!? はっ、はい!」
確かに、よく考えたらとんでもないことを言っていた。何様のつもりだ、私は……。
「なあ、月島」
「は、はい。なんでしょう、すみません、変なこと口走って……」
「君は、『一緒にいたい』って言ってくれただろう。俺は、叶えるならその望みが良い」
抱き締められたままの私。頭の少し上から声が聞こえる。
穏やかで低くて心地よい。
でも、今日はいつもよりずっと切実な声音。
「叶えさせてくれないか」
答えはもう決まってる。
このあと、どうなってしまうのかわからない。
私がクロードさんを拒否することで、理市さんが傷つけられてしまうかもしれない。
でも、もう、理市さんから離れるのは嫌だった。
彼がもし命を落とすようなことがあれば、その時は私も――。
「……はい。理市さん。私を、そばにいさせてください」
私は理市さんを抱き締め返す。
このぬくもりを手放したくなかった。どうしても。




