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息のかかる近さで

 理市さんの受けた傷は深くて、カフェ・ライムライトに戻った後も出血は止まらなかった。

 それでも彼は頑なに平気だと言い、私はケガがないか確認された後で自室へ帰された。

 心配な気持ちが膨らみつつも、疲れには勝てず眠りについて、一夜が明けた。



 朝。目が覚めてスマホを見ると、メッセージが入っている。


 『今日は臨時休業にするので、休んでいてください』。


 内容は、簡潔なその一文だけ。

 昨日のケガを考えれば当然のことだ。

 でも……。


 今まで理市さんが急にお店を休んだのは、私を迎えに来てくれた時の一時閉店、その一度だけだ。

 具合が悪そうな姿を見ることは度々あっても、彼は大概お店に立っていた。

 それだけに今回、彼の体調がどれほど悪いのかと思うととても気がかりだった。


(そうだ。迷惑かもしれないけど、せめて……)


 きっと今朝はおろか、下手をしたら昨日の夜から何も食べられていないはず。

 何か役に立ちたい。思い立ってからは早かった。

 おむすびを握り、簡単なおかずを作ってお弁当箱に詰める。


 そして私は理市さんのおうちのインターフォンを押していた。



 ここを訪れるのは春以来。

 そして、私は求められてもいない好意……お弁当を押し付けようとしている。

 迷惑がられたらどうしよう。追い返されることだってありうる。緊張で心臓がドキドキする。


 ベルを鳴らしてから彼が出てくるまでには、いくらか間があった。


「月島か。……どうした?」


 扉を開けた理市さんは、私の顔を見て微笑んでくれた。でも、やっぱり顔色が悪い。

 浅めのハイネックのカットソーに、黒いスキニーパンツ。眠っていたのだろうか、珍しくちょっと髪が乱れている。


「おはようございます、理市さん。あの、良かったらこれどうぞ。お弁当です……要らないかもしれないんですけど、やっぱり食べた方が体に良いかなと思って」


 緊張がピークに達していた私は、一気にまくし立ててしまった。

 お弁当を差し出された理市さんは、一瞬戸惑った様子だったけど、やがて大切そうに受け取ってくれる。


 それがすごく嬉しかった。もう一度、彼に近づけたような気がして。


「ありがとう。良かったら入って」

「大丈夫なんですか、体は……?」

「ああ。それに君と話さないといけないこともある」



 お弁当だけ渡したら帰ろうと思っていたのだけど、理市さんは意外にも私をリビングに通してくれた。


 勧められてソファに腰掛ける。

 すると理市さんは、すぐに私に頭を下げた。


「月島、本当にすまない。完全に巻き込んでしまった」

「理市さん……、やめてください。謝ることなんて何もないです。謝らないといけないのは私の方で」

「いや。俺は君を、また怖い目に合わせてしまった。三十一日の件もだ。取り返しがつかないミスだ……」


 失敗。そうだろうか。

 初めは何もかもが偶然だったとはいえ、理市さんのそばにいたいと思ったのは私。

 そうしていたのは私自身の選択だ。

 彼が謝らなくてはいけない理由は何もない。



「理市さん……」


 私は思わず身を乗り出していた。

 理市さんとの距離がすごく近い。驚きで見開かれた薄茶色の瞳には、今は私だけが映っている。


「理市さんがクロードさんから深い傷を負ってしまったのは、私のせいです。私、あなたを怖がって、傷つけてしまったのに、それなのに……」


 私が恐怖に堪えられなかったあの時の、理市さんの悲しそうな顔を今でも思い出せる。

 あんな悲痛な顔……。

 とても、とても傷ついたはずなのに。


「それなのに理市さんは、クロードさんから私を守ってくれましたよね。『守れない』って言ってたのに、命を懸けてくれた。……あの時あなたが来てくれて、私、本当に嬉しかったんです。だから私はとても幸せなんです」


 理市さんが何を思って、どうしてそこまでしてくれるのかは、わからない。


 でも本当に大切な思いを壊されないよう守ってくれたのが、他ならぬ私の好きな人だった。そのことは事実で。

 こんなに嬉しいことは、きっとないと思った。


 彼には好きな人がいるかもしれないのに。

 そして私自身の気持ちだって、大晦日までで終わってしまうかもしれないのに。

 それでも。



「命くらい、懸けるさ。俺は、君が……」


 言葉の続きを求めて視線を上げると、視界にすっと手が伸びてきた。


 それは、理市さんの右手で。

 私の頬に触れるか触れないかで、彼の動きが止まる。

 深くため息をつくと、彼はそのまま顔を覆ってしまった。一瞬だけ見えた目が、赤かった。


「……待って。ごめん、月島。近すぎる……。このままだと堪え切れないから。離れて」


 理市さんは、何かを抑え、努めて冷静にしようとしている。その光景には既視感があった。

 以前にケガをした時にも、血が足りなくなった彼は私に離れているよう言った。

 今の状態はきっと、その時以上につらいはずだ。

 なら……。


 私はブラウスの首元のボタンを外して、襟を大きく開いた。


「理市さんなら、良いです。私の血を吸ってください。きっとすごくつらいですよね、今? だったら、前にした約束通りに」


 心臓が爆発しそうだった。今にも体が震え出しそうだ。

 以前の私がどれだけとんでもない提案をしていたのか、今ならわかる。

 でもそれ以上に、私は理市さんが好きで。

 理市さんになら、私は――。




 じっと理市さんを見つめる。呼吸を感じられるくらいの近さで。

 そのまま、長い時間が流れた気がした。

 理市さんは優しく私の肩を押して、そっと体を離した。


「ダメだ、月島。本当に……。離れて。こんなことがしたいんじゃない」


 血を吸われなかったことにほっとした反面、ひどく落ち込んでしまう。


 役に立てなかったというだけではない。

 私だからダメなのではないかと思ってしまう。

 どうしても、クロードさんの言っていたことを思い出してしまうのだ。


 理市さんが好きな人は――。



「そうですよね……。私じゃ、ダメですよね。何をしても差し出がましくなってしまって……ごめんなさい」

「……君じゃダメって?」


 私の言葉に、理市さんは敏感に反応した。目線をきつくして、問いかけてくる。


「どういうことだ? クロードに何を言われた?」

「それは……」


 私は口ごもる。あんな話を本人にして良いものだろうか。


「教えて」

「……は、はい……」


 有無を言わさぬ眼差しに負けて、私はクロードさんに聞いた話をすっかり白状した。

 その話を聞いた時の理市さんの表情は、怒りを通り越していた。私は「ひええ」と声が出そうになるのを何とか飲み込んだ。


「……よくわかった」

「あの……す、すみません……」

「いや、悪いのはあの男だ。君は何も悪くない」


 そう言ってはくれたものの……。

 とてつもなく気まずい。

 伺うように理市さんを見やると、彼もまた気まずそうな顔をしていて、煙草を一本取りだして口にくわえ、私に尋ねてきた。


「……失望した?」

「えっ!? いえ、そんなことは……」

「その話だけど、違うから、今は。……今は美琴さんのことは、好きじゃない」

「そ、そうなんですか……。よ……」


 良かったと言いそうになって口をつぐむ。

 何を言ってるんだ、私は……。



「ところで月島、首元」

「えっ?」

「ボタン。戻した方が良いよ」


 私からずっと視線を逸らしたままの理市さんが言う。

 そう言えばさっき襟を開いて、そのままで……えっ。結構思いっきり開いていたことに今更気づく。角度によってはかなりまずかったかもしれない。

 慌ててボタンを直すと、理市さんが安心したように息を吐く。


「あっ、あの、すみません。お見苦しいものを……」

「違う。そうじゃなくて、あのな……。無防備すぎる」


 目を伏せた顔は、……照れている?

 そんな顔されると、醜態をさらしていた私の方が恥ずかしくなってしまう。

 思わず意識してしまう。これは一般的な話であって、理市さんに他意はないだろうに……。


 でも続けられた言葉は意外なものだった。


「吸血鬼だからと言うのを脇においても、ちょっと。俺は一応男で、理性には限界があるんだから……」

「えっ……あの、は、はい……」


 困ったような理市さんの声が、なんだか色っぽく聞こえてしまう。

 私、今、真っ赤になっていないだろうか。


 不思議と以前の距離感に戻れたような気がして。

 いや、もっと近くなっているようで、すごくドキドキしてしまった。



「すまない、話の腰を折ってしまったな。大晦日の話をしようと思ったのに」

「あっ……そうですよね。そう、大晦日……」


 そうだった。本題に入っていなかった。

 大晦日。その日が私にとって――私たちにとっての、ある意味のタイムリミットなのだ。


 それはクロードさんがまた姿を現す日で。

 でもあの絶対的な力を前に、いったい何ができるのだろうか。


 昨夜を思い出したら、思わず手が震え出してしまう。

 その手をそっと、理市さんの手が包んでくれた。


「……ごめん、勝手に。つい」

「い、いえ、その。ありがとうございます。……嬉しいです。良かったら少しだけ、このままで……」


 暖かさと力強さに、安心する。

 この手が私を守ってくれたという事実を噛み締める。


 この時間が永遠に続けば良いのに。

 大晦日なんて、来なければ良いのに。

 ずっとこの人と一緒にいたいから。

 私はそう思わずにはいられなかった。

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