懐かしい店、懐かしい人
夕方の街。
帰宅の途につく人々が、足早に通り過ぎていく。
私は昔通っていた大学の最寄駅で電車を降りた。
勢いでアパートを飛び出してきてしまったものの、実家にはまだなんの連絡もしていない。なんて連絡しようか、考えもまとまっていない。
家族は私を責めたりはしないと思うし、温かく話を聞いてくれると思う。
でも彼氏と別れて同棲は解消、会社も辞めましたなんて、とても簡単に言うことはできなくて。
連絡は明日にしよう……。
ひとまず今日はこれからのことを考えながら、ビジネスホテルに泊まろう。
そう思って、さっき電車に乗りながら予約を済ませた。
たまたま予約したホテルが、この駅にあるのだ。
電車から降りたところで、おなかがぐうぐう音を立てる。
そういえば朝から何も食べていなかった。
朝は食欲がなかったけど、興奮と忙しさがおさまってきて、私は急に空腹を思い出していた。
もうホテルにチェックインできる時間だけど、ホテルに真っ直ぐ向かう気分ではない。
かと言ってひとりでごはんか……。夕飯時のこの街はどこも賑やかそうで、なんとなく居心地が悪そうだ。
どうしようかな……。
ガラガラとスーツケースを引きながら、とぼとぼと歩く。
春だけど夕方になると風が冷たい。今日に限って薄着すぎたかな。身震いしてしまう。
ふと足を止めたその瞬間。
とあるビルのそばに立っていた看板が目に入る。
看板には、こう書いてあった。
『カフェ・ライムライト』
カフェ・ライムライト。
その名前には覚えがあった。
周りの風景もよく見たら馴染み深いあるものだった。
(ああ、このカフェ! 懐かしいなあ~!)
私は学生時代、よくこのカフェに通っていたのだ。
時には友人と。時にはひとりで。
ちょっと背伸び感はあったけど、居心地の良いこの場所で、よく課題のことを考えていた。コーヒー一杯で結構粘らせてもらったことも多い。時にはマスターに他愛ない相談ごとを聞いてもらったこともある。
ここなら、ちゃんと落ち着けそうだし、食事もできる。
ふと心に湧いた懐かしさに、たまらなくなる。
気づけば私はカフェ・ライムライトへと足を向けていた。
カフェ・ライムライトは、大きなビルの地下一階にある。
お店に行くために、ビルに入ってエレベーターを使うこともできる。しかしそれとは別に、外の階段から直接入ることもできるようになっている。
ものぐさな私はスーツケースを少し持ち上げて、無理やり階段を降りることにした。
階段を降り終え、お店の扉に手をかける。
すると、カランとベルが鳴った。変わってないな、この音も。
すぐに中から声がする。
「いらっしゃいませ」
穏やかで落ち着いたトーン、心地よい男性の声。この声も変わっていない。
カフェ・ライムライトのマスターの声だ。
中に入って見回せば、お店もしっかりあの頃のままだ。
木がふんだんに使われた店内には、しっとり落ち着いたアンティークの調度品の数々。
ミルクグラスのランプシェードにほんのりと灯る明かりの下で、振り子の柱時計が時を刻んでいる。
キャビネットに並べられたカップやグラスは、どれもよく磨き抜かれてきらりと光っている。
素敵なレコードプレーヤーが控えめに奏でるのは、ジャズの音色。
「こんばんは」
「こんばんは。お好きなお席へどうぞ」
マスターの笑顔にほっとする。
私はスーツケースを邪魔にならないように置き、カウンターのいちばん端の席に座った。
ここが私の定位置なのだ。
このライムライト、お店自体は渋めなのだが、マスターを見るとみんな決まって驚く。
少し癖のある短髪で、ややたれ目の二重の、整った顔立ち。背が高くて、均整のとれたすらりとした立ち姿。
こう言うとまあまあ居そうな人に思えるが、この人の場合これを総合するとイケメンを通り越す。それくらいの美青年なのだ。
これほどの人を私は今まで見たことがないし、この人がまとう雰囲気は独特のものだと思う。色気があるというか、ううん、色気なんてレベルではなくてオーラとでも言うべきか。
学生時代の間中、店にお客さんが押しかけてこないことが不思議でならなかった。
そんなマスターの見た目も、全然変わっていなかった。
マスター、名前は確か織原さんって言うんだっけ。
織原さんは微笑みながら、お水を出してくれた。
「お久しぶりです。今日はお食事ですか? それともお茶?」
「ご無沙汰してました、マスターこそお元気そうで良かった。ええと、お腹減ってるので、何かしっかり食べたくて……。メニューは前と変わってませんか?」
「ええ。以前と何も変わりないですよ」
「それじゃあ……、元気が出るようにオムライスが食べたいです。とろふわでお願いします。温かいコーヒーのセットで」
「かしこまりました。その前に……」
その前に?
首を傾げていると、マスターはカウンターから回り込んで、何かを持ってきてくれる。
手渡されたのは、暖かそうなブランケット。
「ひざ掛けをどうぞ。夜になって冷えてきたから」
寒さの余韻が消えない私が、縮こまっていたのに気づいてくれたのだ。
胸がギュッとなった。
今日初めて優しくされた気がする。
もちろん織原さんは、仕事だから優しくしてくれている。
それでも。
少なくとも、誰にも優しくされないまま、何のいいこともないまま終わる最低の誕生日ではなくなった。
それでなんだかすごく胸に染みてしまったのだ。
思わず目頭が熱くなりかけて、ぐっとこらえた。
良い大人が人前で泣くなんて、だめだ。突然泣いたら、織原さんだって驚いてしまう。
私は誤魔化すためにスマホを手に取って、適当なサイトに没頭している振りをした。
「お待たせしました。オムライスです。コーヒーはお食事の後にお出ししますね」
「ありがとうございます!」
ほどなくオムライスが私の前に運ばれてきた。
昔もやっぱりセットを頼んでいて、そのたびにコーヒーは食後にしてもらっていた。覚えていてくれたのかたまたまなのか、でも嬉しかった。
オムライスは、事前に言えばたまごの焼き具合を調整してもらえる。
とろふわで頼んだオムライスは、たまごの黄色が目にも鮮やかだ。
いわゆるたんぽぽオムライスというのだろうか、半熟のオムレツにナイフを入れると、たまごがとろり。それにケチャップをかけていただく。
鶏もも肉と玉ねぎのチキンライスと一緒にすくって口に入れると、感じるのはコクと旨味。
そしてバターの良い香りと、幸福感。
そういえば私、ちゃんとした温かい食事をとるのは、すごく久しぶりかもしれない。
ずっと残業続きだったし、忙しかったから。
体が芯から温まっていくのを感じる。
温まっていくのと同時に、込み上げてくるものがある。
目の奥が熱くなっていた。
コチコチに固まって氷みたいになっていた心が、なんだか突然解けてしまって。
それは氷山が崩れた海みたいに、心に大きな波を立たせていて。
それで私は、私は。
結局決壊する涙腺を止めることができなかった。
ボロボロと次々に、とめどなく涙がこぼれ落ちていく。私はこんなに泣き虫だっただろうか。
店内に他のお客さんがいなかったのは、本当に幸いだった。
涙を拭きながら、私は少ししょっぱくなったオムライスの残りをなんとか食べ終えた。
そのタイミングで、すっとハンカチが差し出される。
差し出してくれたのは、当然この場にいるもう一人の人間である織原さん。
「うっ……うっ……、す、すみません……急に……」
「謝ることは何も。コーヒー、そろそろ淹れましょうか」
「お願いします……」
ハンカチを借りて涙を拭う。
織原さんはその間に、ドリップポットに沸かしたお湯でコーヒーを淹れてくれている。
ふわっと香ばしいコーヒーの香りが辺りに広がっていく。
それと一緒に、私の涙も少しずつ落ち着いていく。
「ブレンド、どうぞ」
「ありがとうございます」
「もし宜しければ……お話、お聞きしましょうか? あなたの差し支えない範囲で」
「良いんですか、私なんかの話……」
織原さんは少し首を傾げ、それからうなずく。
「ええ。よほどのことなんでしょうね、あなたが泣くなんて。私がもし、お力になれるのでしたら」
「とても、助かります……」
突然泣いて、びっくりさせて。
さらに話まで聞いてもらうのもどうかと思ったけど、今の私には話をできる人もいない。
申し訳ないと思いつつ、聞いてもらうことにした。
懐かしいこの人に。




