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甘い誘惑と苦い事実

 しっとりと落ち着いた雰囲気のオーセンティックバー。

 磨き抜かれた一枚板の美しいカウンターが目を引く。

 ここは、クロードさんにカフェ・ライムライトから連れ出されて来てしまったお店。

 私は、彼のすぐ隣の席を勧められておずおずと座った。


 ピアノの音色のBGMが美しい。窓からは丸い月が見えている。

 私の前にはジントニック、クロードさんの前にはウイスキーのロック。

 こんな時でなかったら、この素敵なお店を満喫できたのかもしれないけど……。



「クロードさん、あの。どうして私をここに?」

「ここは行きつけの店でね。それに言わなかった? 僕は君にとても興味があるって」

「それは聞きましたけど。その……私は、色んな意味でごく普通の人間ですよ? あなたや理市さんとは違います」


 私は単純な事実を述べただけなのだが、クロードさんの青い目は面白いものを見るように私を見ている。


「そうかな? 君は美しくてとても魅力的な女性だよね。それに君は僕のこと好きにならないじゃない? 普通の人はそうじゃないよ。すごく特別だと思うけど」

「えっ……それは語弊があるような……。とにかく私は……」

「じゃあどんなところが普通か話してみて? 本当にそうなのか、僕が判断してあげよう」


 からかうような口調で言われて、私はクロードさんとお話することになった。

 彼は興味津々な様子で私についてを聞くし、そうなると何も話さないわけにもいかない。実際彼は話し上手で、会話はよく弾んだのだが……。


 そうじゃない。私がちゃんと話をしたいのは、この人じゃなくて理市さんなのに。

 なのにどうしてこんな状況になっているのか、なんだかよくわからなくなってきた。



 ロックグラスの氷が、カランと音を立てて崩れた。

 ふと、BGMが聞き覚えのある曲に変わる。

 カフェ・ライムライトでも良く流れている曲の、ピアノアレンジ版だ。

 意識がそちらへ向き、同時に理市さんの顔が脳裏をよぎる。


(理市さん、どうしてるのかな。今頃……)


 ほんの一瞬ぼーっとしただけだったのに、クロードさんは目ざとかった。


「フユコ? 今、リイチのこと考えていただろう? 君とすごしているのは僕だというのに、心外だな」

「いえ、その……すみません」

「冗談だよ」


 お見通しだった。

 くすりと笑って言われたのが気まずい。


「リイチ、リイチねえ。君は本当に彼のことばかりだね。でも、そんなに気にしているのに、君は彼のことを何も知らないと」


 クロードさんの言葉に胸がズキッと痛む。

 そうなのだ。八ヶ月もの間そばにいたのに、私は理市さんのことをほとんど知らないままで……。答える声も小さくしぼんでしまう。


「……そうですね、あまり……」

「僕は詳しいよ。実の家族のことから、初恋の相手まで。何でも知っているって言って良いくらい」


 初恋の人。

 その言葉に思わず反応してしまったことに、気づかれてないと良いけど……。

 そう思いながら見ると、クロードさんは明るい笑顔を浮かべてこう言った。


「じゃあ一杯付き合ってくれたら、一つ良いことを教えてあげよう。フユコは、甘い飲み物は平気?」

「あ、はい。好きです」


 彼はにっこりして、バーテンダーに何か注文をする。

 すぐに、カクテルグラスに入ったお酒が私の前に出された。

 濃い褐色のお酒の上に白いクリーム、そしてピンに刺した赤いチェリーが乗せられたカクテル。


「エンジェルキッス。カクテル言葉は、『あなたに見惚れて』。まさにフユコみたいな女性と飲むのにふさわしいじゃない」

「えっ? ええーっと……。……いただきます」


 聞いている私の方が恥ずかしくなるようなことを、クロードさんは平気で言う。つくづく理市さんとは全然違うタイプの人だ。


「それじゃあ教えてあげようか。君が気になる男の秘密」


 口に含んだカクテルと彼の囁きは、同じくらいにとても甘い。


 クロードさんが教えてくれたのは、ただでさえぐちゃぐちゃな私の心を、さらに引っ掻き回すようなことだった。


 それは、理市さんの秘密。

 彼の『好きな人』の話だったから。




 カクテルグラスを見つめていると、視線を感じる。

 クロードさんにめちゃくちゃ見られている……。

 昨日眠れなかったせいでお酒が回ってきているのもあり、何だか顔が熱かった。


 クロードさんはもったいぶるようにグラスを傾けていたけど、やがて無邪気に私に笑いかけてきた。


「何を話そうかなと思ったけど、ここはオーソドックスに、誰でも一番興味がありそうなことを話すのが良いよね」

「誰でも興味がある……ですか」

「そう。みんな大好きだろう? 恋の話だよ」


 そう言われると、もっともだ。

 学生から社会人まで、男でも女でも、誰でも気になる相手の恋の事情には敏感になってしまうものだろう。


 もちろん私だって例外ではない。

 気持ちがぐらぐらと不安定なせいで、私はクロードさんが語ってくれるという話の誘惑を、はねつけることができなかった。



「君はリイチの家族には会ったことある?」

「はい、お兄さんとお義姉さんに」

「良い人たちだよね? 穏やかで上品だけど、気取ってないし」

「そうですね。仲が良くて。素敵な家族なんだろうなあって思います」


 最初は、全然意図がつかめなかった。

 でも会話を続けるうちに、ある人物にスポットが当たり続けていることに気づく。


 お義姉さん……美琴さんに、だ。


(美琴さんが、クロードさんの言う理市さんの秘密になんの関係があるんだろう?)


 怪訝に思って、クロードさんを見つめる。

 すると彼は待っていたとばかりに、にっこりと笑って言った。



「ねえ、フユコ。リイチはどうして家族を避けているのだと思う? 彼の事情に巻き込まないため? それはあるかもね。でも、本当にそれだけかな。僕はずっとリイチのことを見てきたけど、どうしてもそうは思えなくてね」


 困ったような表情で、首を傾げてみせるクロードさん。

 そしてわざとなのだろう、彼は沈黙する。


 その沈黙の間に、私は思い出していた。

 寝室に飾られていた理市さんの家族の写真。

 帝都ホテルで美琴さんの話が出た時の不自然な沈黙。

 お兄さんと美琴さんを見送った時の表情の違和感。


 絶妙なタイミングで、クロードさんは問いかけてきた。


「ねえ。リイチは誰に恋していたと思う?」

「……クロードさん。まさか、理市さんがお義姉さんのこと好きだって言いたいんですか?」

「それも長い間、ずっとずっと、ね」



 私の好きな人の、好きな人。


 美琴さんは素敵で可愛い女性だ。私だってすぐに大好きになってしまった。

 でも美琴さんには、お兄さんという旦那さんがいる。お兄さんは理市さんの愛する家族で。


 ……だから? だから理市さんは?

 そういうこと……なの?


 頭を殴られたみたいな衝撃だった。



 当たり前だ、わかっている。

 理市さんにだって好きな人はいて、それはもちろん私ではなくて……。

 でも実際にそれを思い知ってしまうと。



 私が黙り込んでいたからか、クロードさんは優しい声で付け加える。


「もっとも、今はどうかな。それにリイチは、口に出して言ったこともない。まあ彼には口が裂けても言えないだろうけど。結論を言うと、僕の話を信じるか信じないかは、君次第ってこと」


 言葉が出てこなかった。

 こんなことを知ってしまって、どうしたら良いんだろう。気持ちの行き場がどこにもない。


 クロードさんはなぜ私にこの話を伝えたのだろう。

 理市さんが好きな私に、理市さんがとても好きだった人のことを、どうして。

 彼を見る視線が思わずきつくなってしまう。



「可愛いね、フユコ。君のそういう顔を見てみたかったんだ。この話題を選んだ僕のこと、怒っているのかい? ねえ、でもフェアじゃなかったのはリイチじゃない? 君に何も教えないなんて」

「違います、それは」


 クロードさんの言うことが本当に正解だったのなら、もし私なら到底人には言えないと思うはずだ。ならきっと理市さんだってそうだろう。

 だからこれは、フェアとかそうでないとか言う話ではなく……。


 そう言い返そうと口を開きかけて、私は思わず息を飲んだ。

 青いはずのクロードさんの瞳が、いつの間にか赤く染まっている。


「君は特別に強い女性ではないと思っていたけど、意外と芯があるのかな。彼のためなら、ってこと?」


 クロードさんの悠然とした雰囲気は、まるで王様のよう。

 忘れかけていたけどこの人は吸血鬼で、しかも理市さんと違いそれを隠していない人なのだ。


 そして……クロードさんの場合、吸血鬼の力を使うことに躊躇いも制約もない。

 ゾワリとする恐怖感に、腰が浮きそうになる。


「君はリイチのこととなると、本当に一途に思い詰めるんだね。リイチも君のこととなるとすぐに顔色を変えるよ。けれど君たちはお互いに、その意味を全くわかっていないんだねえ。僕が君という花を摘み取ってしまったら、君たちはどんな顔をするんだろうね?」


 彼の言うこと全部の意味がわかったわけではない。

 でも、明らかに面白がっている口調で言うのが、すごく許せなくて。

 手がカタカタと震えるのを押さえつけながら、私は精一杯、クロードさんを睨みつけた。


 意外そうな表情で視線を受け止めると、クロードさんは本当に楽しそうに笑って言う。


「ああ、本当に君は、魅了されないんだね。本当に僕のことを好きにならないんだ? 良いね、すごく面白いよ」


 赤い瞳が刺さりそうなほど私を見つめている。

 理市さんとよく似た、赤い、美しい、恐ろしい瞳。

 でも、違う。この人は理市さんとは決定的に違っている。



 恐怖と困惑と怒りとつらさ。この短時間の間で生まれた全部の感情が、ごちゃまぜになって、どっと溢れる。


 私は耐えきれなくなり、立ち上がった。


「あの、私……! もう、帰ります……!」

「良いよ。また僕が君に会いに行くから、フユコ」


 こともなげに言うクロードさんの声を振り払うようにして、私はバーを後にする。



 私は、クロードさんにからかわれたのだろうか。

 ううん。きっと本当に、理市さんはお義姉さんのことが好きだった、そんな気がする。

 一方で、『理市さんが私のことに顔色を変える』と言ったクロードさんの言葉も気になっていた。



(……理市さん)


 今はとてもとても遠くなってしまった彼に、聞いてみたいことがたくさんあった。


(理市さんは私のこと、どう思っていますか?)


 一緒に過ごした時間を思う。

 話を聞いてくれたこと。コーヒーを淹れたこと。朝ごはん。きらきらしたたくさんの時間と、差し伸べてくれた手の理由。

 理市さんはあの時、どんな気持ちで私と一緒にいてくれたのだろうか。

 少しでも楽しく、思っていてくれたのだろうか。



 答えは、あるはずがない。

 問いかける勇気だってない。


 空の大きな赤い月は、まるで嗤っているようで。

 無性に涙がこぼれそうになるのをこらえ、私はマンションまでの帰路を歩いた。


 冷たい風が、心と体にあまりにも痛くて。

 華やかなクリスマスのイルミネーションが、なんだかひどく空々しく思えてしまった。

 

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