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遠い、遠い距離

 気がついたら、朝になっていた。


 あの後、何とか挨拶だけして、私は逃げるように部屋へと帰った。

 頭の中を、まとまらない考えと溢れ出てくる後悔が、ずっとぐるぐる回っていた。

 一睡もできなかった。悪夢みたいな夜だった。


(あ……ひどい顔……)


 鏡を見れば、目の下にはくっきりと隈ができ、顔色も良くない。何より表情筋が死んでいる。

 自分のこんな顔を見るのは久しぶりだった。

 このままではダメなことは明らかなので、コンシーラーとファンデーションでカバーして、苦労しながら鏡の前で笑顔を作る。


 理市さんからは、今日から朝食に来ないという連絡があった。

 独りで朝ごはんを食べる気には全くなれず、朝食も抜いてしまった。

 遅番だったのは幸いで、よほど仕事を休ませてもらおうか悩んだのだけど、それも理市さんへの不義理な気がして、結局今日も出勤することにした。



 カフェ・ライムライトへの出勤で、こんなに気が重かったのは初めてだった。

 平静を装って顔を出し、おそるおそるあいさつをする。


「おはようございます」

「おはよう、月島」


 理市さんはいつものように優しく答えてくれる。

 ややたれ目がちな薄茶色の眼。静かな微笑み。今日は、ちゃんと目が合った。


 ただ、仕事を始めると徐々に違和感に気づいていく。

 違いは、ほんの少しだけ。でもはっきりと、今まではなかった見えない壁があるのを感じる。


(ああ、私もう、距離をとられてしまってるんだ……)


 実感するとすごくつらい。うつむきそうになるのを、必死で堪える。

 でも感情に振り回されて、前を向いて働けないのは誠実じゃない。

 これは仕事なんだから……。



 夜八時を迎えるまでが、なんだか異様に長く感じてしまった。

 終業の時間になり、ほっとするなんて……。


 看板を片付けようと階段を上がっていくと、途中で昨日会ったクロードさんに出くわした。


「あっ、すみません……もう閉店なんですけど」

Bonsoir(こんばんは)、フユコ」

「こんばんは。今日も理市さんに御用でしたか?」

「うん、まあね。正確には違うんだけど。彼は中かな?」

「そうですけど、あの……ち、ちょっと、クロードさん」


 止めてもお構いなしに、クロードさんはどんどん進んでいってしまう。

 そのままライムライトの店内まで進み、カウンター席に腰掛けたクロードさんは、理市さんを覗き込むようにして笑いかけた。


「リイチ。このあと、フユコをお借りしても良いかな?」

「えっ!?」


 ビックリして思わず大きな声を出してしまい、私は口を押さえた。

 理市さんは氷のような目でクロードさんを睨む。それから少なくとも表向きは、昨日より敵意のない静かな口調で答える。


「彼女次第だろ、それは」


 その言葉に明確な距離を感じた。

 昨日までだったらきっと、かばったり怒ったりしてくれていた気がしたから。


 理市さんが言っていたことを思い出す。

 自分のそばに私がいたから、クロードさんが興味を持ってしまったのだと。

 彼は自分のせいだと言っていた。

 だから、仕方ないんだ、きっと……。このよそよそしさも。はっきりと感じる距離のことも。



 答えを聞いて、首を傾げたクロードさん。意外そうな顔をしている。


「おや。なんだか昨日とはずいぶん風向きが違うね。どうしたんだい。悩みがあるなら相談にでも乗ってあげようか」

「あんたに話すことは何もないよ」

「ふうむ、そうかい? なら、フユコはどう?」


 急に話の矛先が私に向いて、また飛び上がりそうになる。

 何もかも唐突な行動をする人で、おまけに吸血鬼でもある。クロードさんが何を考えているのか、全然わからなくて、答えに困ってしまった。


「わ、私ですか? ええと……」

「僕なら教えてあげられることがたくさんあるよ。リイチのことだから、どうせ君には秘密ばかりなんだろう?」

「クロード」


 理市さんがぴしゃりと言ったが、クロードさんは楽しげに一瞥を向けただけだ。

 彼は私に向き直ると、上機嫌で言った。


「僕は君にとても興味があるんだけど、君も僕らのことには興味があるんじゃない? だから教えてあげようか、吸血鬼のこと。それと――」


 クロードさんは流し目を理市さんに向け、愉快そうな、でも皮肉めいた口調で言う。


「そこの半端モノのこともね」


(……半端モノ?)


 私の沈黙を肯定と受け取ったのか、クロードさんはゆったりと長い足を組み替え、頬杖をつきながら話を始めた。



 『半端モノ』と言うのは、もちろん理市さんに向けられた言葉で。

 良い意味を持つ言葉のはずがない。

 でも理市さんは無反応で、ただグラスを磨いていた。


 クロードさんはわざとそんな言い回しをしたらしい。理市さんの反応を見て、大ゲサというくらいに嘆いてみせる。自分で言い出したのに。


「リイチ! 君という男は、なんて手応えのない奴なんだ。もっと怒るべきだし、撤回を要求すべきだろう? 吸血鬼としての誇りと自覚が足りなすぎじゃないか?」

「そんなもの、俺には必要ない。好きに言えば良い」

「正気かい? やれやれ。話にならない……」


 呆れ返った様子で理市さんとの話を切りあげたクロードさんは、私に視線を移してこう言った。


「吸血鬼と言うのはね、フユコ。ある意味、人間の上位の存在なんだ。人間にはない多様な力を持っている」

「ええと、すごくきれいで、長生きで丈夫で、魔法みたいなものも使える……、ですよね?」

「そう。良い聞き手だね、君は。リイチとは違って」


 人間の上位の存在。

 確かにそうかもしれない。

 人間よりはるかに上の能力で、魔法まで使える。

 人を自由に操ってしまうことすらできるのだ。理市さんがあの時、社長たちにしたことを思い出す。



「とはいえ、人と吸血鬼は共通の部分も多くある生き物だ。だから、リイチみたいに人間と同じ食事だけで生きていくこともできる。でもここには、ひとつだけ問題が」


 クロードさんは理市さんを見てから、私に視線を戻してにっこりと笑った。


「フユコ。吸血鬼には人間にはない力もあるよね。君の言う魔法というやつだ。それって何もないところから生まれると思うかな?」


 私は首を横に振った。

 人が活動するためにはごはんや睡眠が必要なように、何かをするためには当然その元になる何かが必要だろう。


「優秀な生徒だね、フユコ。では僕らにしか使えない力の源が、人間の血液だとしたら。血を吸わない吸血鬼は、どう?」

「それ……は……」


 それは、つまり――。

 私は思わず理市さんを見てしまった。

 クロードさんも意味深な視線を彼に投げ、肩をすくめる。


「それでもリイチが力を使えるのは、元々与えられた能力キャパシティが大きいからというだけだ。でもねえ……。これはもはや力に対しての冒涜だよ」



 『守れない』。

 言われたことの意味が、やっとわかった。


 理市さんは吸血鬼。だけど、他の吸血鬼には太刀打ちできない。そのための力が足りない。彼は血を吸わないから。

 無理なのだ。彼が今のまま――人間でいようとする限りは。


「吸血鬼らしくすれば良いだけじゃないか。君はもうとっくに人間ではないんだから」


 クロードさんは、こともなげに言う。

 理市さんはもちろん、何も答えなかった。



 人間として生きていきたい、理市さん。

 でもそれでは、彼を放っておかないクロードさんのような吸血鬼たちから、大事な人を守ることさえできなくて。

 だから彼は、誰かといる資格はないと思っているのか。


 人間であることと、大事な人を守ること。ふたつを同時に叶えるためには、ひとりぼっちを選ぶしかないなんて……。


 いったい、どんな気持ちで。

 そんな……。そんなことが――。



「どう、フユコ? ためになったよね、僕の話は」


 クロードさんの声で、私は現実に引き戻された。


「えっ? えっと、はい……」

「それじゃあこれから僕に付き合って? 良い話を聞けた、お礼ということで」

「え!?」


 あっ!?

 まさか、これがクロードさんの狙いだった?



 理市さんはさすがに何か言おうとしてくれたのか、口を開きかける。

 でも、クロードさんがそれを遮る。

 小首を傾げた魅力的な笑顔。けど、すごく悪意を感じる。気のせいではないはずだ。


「ねえリイチ、よく考えたら、僕はフユコのことでいちいち君に断る必要はなかったよね。だって彼女はまだ君のものじゃないんだろう?」

 

 確かに彼の言うことは正しくて。


 私と理市さんは、そもそもお互いに口出しできる関係ではないのだ。

 私たちの間の『約束』で決まっているのは、私が秘密を守り、彼が私の望みを叶えることだけで。

 そんな『約束』の糸でさえ、今はかろうじて繋がっている程度でしかなくて……。


 だから、言葉に詰まってしまった。

 私も、理市さんも。



「何も言えなくなってしまったかい? 半端だねえ、君は。でも僕は君のそんな甘ったるいところが可愛くて仕方がないんだけどね、『弟』よ」


 さあ、とクロードさんは立ち上がって私の手を取る。


「ではお嬢さん(マドモワゼル)。付き合ってもらうよ。今夜は素敵な夜だから、きっと楽しくなるよ」

「あっ! えっ……!」


 断りきれずにいるうちに、強引に手を引かれて連れ出されてしまう。

 外は赤い満月の光が降り注いでいて、まるで天から大きな瞳に見つめられているよう。


 理市さんがどんな顔をしていたのか……、私には見ることができなかった。

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